幸いにもベイカー・ストリート・イレギュラーズに間違えられ、無事ハドスン夫人にホームズの部屋へと招き入れられた俺達は、その精度な再現度に思わず驚嘆の溜息を漏らした。上品で深みのあるシックなデザインが特徴のヴィクトリアン調で纏められた家具や壁紙、壁に飾られた絵画等の配置も作中に出てくる間取りとほぼ同じ。試しに1階にあるハドソン夫人の自宅から此処、2階のホームズの部屋へと上る階段の段数を数えて見たが「ボヘミアの醜聞」に描かれた17段という段数を忠実に再現している所は流石に優作さんと云うべきか。わぁと歓声を上げて辺りを物色し始めた子供達や、普段ホームズが腰掛けているのだろう上質な赤い椅子に我が物顔で尻を付け、重なり合わせた両手を顔の前に物思いにふけている名探偵。その姿を丸ごと綺麗に無視した俺はまるで新しい玩具を貰った子供のようにキョロキョロと忙しなく視線を配らせた。

「江戸川くんも相当だと思っていたけど、貴方も一緒みたいね」
「...それは俺があのガキみたいに推理オタクって言いたいのかよ」

どうやら隣にいた哀ちゃんの気配に気づかないほど夢中になっていたらしい。いつからそこにいたのか。瞳の奥に呆れを滲ませてこちらを伺っている哀ちゃんを見下ろし視線を交わせた俺はばつの悪さから逃げる様に顔を逸らした。仕方が無いだろ。男はいくら歳を重ねようが漫画やスポーツ、女の子にさえ一直線な生き物なんだ。例え精神年齢が此処に居る誰より上だろうと好きなものを目の前にぶら下げられて動じないほど大人じゃない。それに貧乏学生に手が届くほどコクーンは安く無いだろう。それこそこんな機会、園子に土下座して頼まない限りは二度と来ないだろうという事実が更に拍車をかけて、高まった興奮を刺激したのだ。

「あら、だれもそんなこと言ってないわ。ただ、貴方がそんなに盲目的になるのなんて珍しいと思っただけよ」

口を尖らせ小さくぼやいた俺に向け、からかいを込めた物言いを吐いた哀ちゃんに「俺だって好きなもんくらいあるよ」と、心外だと云わんばかりに眉を寄せる。どいつもこいつも俺をなんだと思ってんだ。まあ確かに職業柄、お偉いさん方や患者を相手にすることが多かったからか、他人と対峙する時は自分の言葉、行動ひとつひとつに細心の注意を払ってはいる。だからこそ人との距離をはかるのは上手い方だと自負しているし、専ら聞き手役に回っていた俺に自己主張は専門外。日頃、散々振り回され俺の平穏ってなんだっけ?な今の状況がいい例だろう。要は、縦社会に揉まれ荒波に逆らえずに流された俺の精神がぽっきり折れないよう、守る為に付けた力がそのまま俺の身となったわけだ。再び生を貰ってからは精神年齢でいえば1回りほど離れている奴らを相手にすることが多く、自由気ままなこいつらに感化されて昔よりも感情を表に出していると思っていたのだが。感情のないロボットや人形じゃあるまいしなんて、意図せず指摘された事で掻き立てられた羞恥からむっつりと歪めた表情のままちらりと視線を下に送れば、口調に反する柔らかい瞳と絡まって思わず数度目を瞬かせた。俺から見れば、子供とは思えないほど冷静沈着で滅多に表情筋を使わないこの少女だって似た性分だろうと思っていたのに、どうやらとんだ勘違いだったようだ。音に例えるならふわりだろうか。優しく笑う彼女の珍しい表情に胸中でへぇと感嘆の息を漏らす。...なんだそんな顔もできんじゃねーか。

「どっかの誰かさんみたいに周りが見えなくなるほど好きな推理小説以外にも何かあるのかしら?例えば、そこの彼女とか?」
「例えば...隣にいる可愛い女の子、とか?」

貴重なもんが見れたと口角を上げ、彼女らしい皮肉と冗談交じりの問いを戯言で投げ返す。どうせ園子辺りから聞いてからかいのネタにしているんだろうが、俺が毛利を好きだと云う話を持ち出すのはやめて欲しい。本人、ましてや厄介な名探偵の耳に入ったらどうすんだ。俺がライバルだなんて知られたらどんな追求が待っているか、考えただけでも恐ろしい。生憎、勝てない勝負はしない質なんでそんな妄言永久に抹消してくれ。
哀ちゃんを視界に捉えたまま悪戯に笑った俺にからかわれていると解したのか「あら、この白い手を黒く染めるつもり?」とだらりと腰の横に垂れ下がっていた俺の手をゆったりとした動作ですくい上げ、優しくひと撫でした彼女の小さな掌を逆に掴み返す。「こんな可愛らしいお嬢さんを前にしたらそれもありかも、なんて」そのまま口元に持っていき触れる直前にニヤリと笑めば、眉を寄せた彼女にぱっと逃げられた。

「...笑えない冗談ね」
「おや、手厳しい」

甘い空気とは程遠い哀ちゃんとの戯れに意識を背けた時、「おい、この写真誰かに似てねーか?」と棚の上にある写真に反応した少年探偵団の声が広い室内に反響した。実物ではないけれど遂にホームズを拝めるのかと興味津々で近寄った俺はあまりの衝撃に額を抑え蹲る。あーもうこういう人だった。背後で「父さんと博士...遊んでるよ思いっきり...」と呟く小さな空笑いにすら反応する気力もない。シャーロック・ホームズに逢えるかもなんて、なんの疑いもせずおめおめとコクーンに搭乗した俺が馬鹿だったのか。俺だけじゃなくこの名探偵への悪戯も込めてるんだろうけど。写真に写るホームズの扮装をした優作さんとワトスン博士の扮装をした阿笠博士をもう一度視界に入れてガシガシと後頭部を掻き毟る。こういう自体に陥らなければ、帰還した俺を「イメージ通りのシャーロック・ホームズに逢えるだなんて誰も伝えてはいないだろう?」なんて悪戯が成功した子供の様な笑み携えた優作さんが待ち構えていたのだろう。裏を欠いたと思っても更にその裏を欠かれるのだから、本当に一癖も二癖もある人だ。何度彼に惑わされぬ様にと気を付けてはいても、結局は上手く踊らされるのだから敵わない。なんだって探偵はこうも癖のある奴が多いんだか。まあ彼は推理小説作家なんだけど。とりあえず、貴方の思惑通りしっかり騙されましたよ優作さん。

「おい、のんびりしている時間はねぇんじゃねーのか?」
「でも諸星くん、何をすればいいの?」
「きっとそこの眼鏡が知ってるさ」
「ホームズのことだからジャック・ザ・リッパーに関する資料を集めてる筈だよ」
「じゃあ皆で手分けして探しましょ!」

毛利の号令を合図に各自散らばって、ぎっしりと綺麗に並べられた本棚の中から1冊づつ抜き取りパラパラと捲りだす。どうやら子供でも読めるようプログラムされているみたいだ。先程のこともあり元々無かったやる気をすっかり無くした俺は「なまえさん、私と一緒にこちらを探してくれませんか?」とぐいぐいと腕を引っ張る菊川に促されて渋々手近にあった資料を1冊引っこ抜く。命を助けた恩人だからか随分心を開いてくれているようだ。懐かれるのは構わないが、そんなつもりは無かったんだけどな、なんて真面目に資料を探している菊川を盗み見る。ちくりちくりと背中を刺す痛いほどの視線には気づかぬふりをして、心中で溜息を零しつつ次の資料を手に取った。

「あったわ、これじゃない?!」

あれも違う、これも違うと山の様に積み重なった資料や目の疲れとは裏腹に、まるで嘲笑うかの如く時間だけが一分一秒と過ぎていく中、百年前のサッカーボールに歓声を上げた諸星以外の子供達。その様子を一瞥して、精神を乗っ取ったなら中身高校生の母親みたく上手に演じろよと肩をすくめた時、毛利が1冊の本を片手に興奮の声を上げた。全員が確認できるように机に置いた「ジャック・ザ・リッパーに関する考察」と表紙に記された資料をパラパラと速読し始めた名探偵が、最も近い時期に起こった事件を隙間なく埋めてある文字の中から探し出す。お目当ての箇所を見つけたのか、捲る手を止めた名探偵が全員に伝わる様に声に出して読み上げた。

「9月8日、二人目の被害者はハニー・チャールストン。一人暮らしの41歳の女性。遺体発見場所はホワイトチャペル地区のセント・マリー協会に隣接している空き地。殺人現場の遺留品は二つのサイズの違う指輪...」

ジャック・ザ・リッパーの正体を突き止めるのは彼らに任せたと、壁に寄りかかりぼんやりと名探偵の話を聞いていた俺は突如上がったモリアーティ教授の名にぴくりと反応する。ホームズの宿敵であの犯罪界のナポレオンまでもがこのゲームに登場するなんて。てーことはモリアーティ教授の腹心、セバスチャン・モラン大佐もいるわけか。これは俺にとったら朗報でしかない。大佐が根城にしているダウンタウンのトランプクラブを次なる目的地に置いた俺達はこれ以上遅くならないうちにとハドスン夫人にお礼を述べて、ベイカー街221Bを後にした。多少の名残惜しさは感じるも、教授や大佐に逢えると浮き足立った面持ちで下宿を出た俺は、今まで最後尾に徹していたのに何故この時そうしなかったのかと、後に後悔する羽目になるなんて思いもしない。