高校生探偵として名を広め、自身の名を入れた看板を高々と掲げる。細々と、ではなくきっと机が手紙で埋もれ、名を馳せた事務所には満員電車の如く人が雪崩込む。寝る暇を惜しむほど事件に追われ、そして純粋に俺だけを想って待ち続けてくれた幼馴染みと結婚し、書斎に篭もり母さんを悩ませる馬鹿な親父のように事件を追っては帰らない俺に、文句を垂れつつもおかえりと変わらない笑顔で迎えてくれる。そうして凝りもせず嫌がる相棒を引き摺って目前に聳える難事件に飛び込んでは辟易とするほど堂々巡り。出産ぎりぎりに分娩室の戸を叩いた俺を角を生やした看護婦さんが叱りつけ、同様に汗ぐっしょりの相棒とその剣幕に視線を交わせて口角を緩め合う。無事に産まれてこいよ、相棒の肩に額を埋め呪文のように繰り返しては延々とさえ続く時間に貧乏揺すりまで起こす始末。キリキリと痛み出した臓器が甲高い一声で飛散して、顔を上げた俺の髪をくしゃくしゃと乱暴に掻き撫でる暖かさに漸く地に足がつく。はじめて抱き上げた猿のような我が子ににやつく俺に「毛利に似たらいいけどな」なんて真顔で呟いた相棒に「バーロー、どっちに似ても可愛くなんだよ」なんて本気で返して呆れた視線を貰った俺を、幸せだと滲ませた表情で笑う蘭。そんな理想を抱いた時期も確かにあった。けれど結局、毒薬を飲まされたあの日から俺の身体は縮んだまま。小学校を卒業し、中学生を難なく迎えまるで嘲笑うように工藤新一に近づいていく自身への情けなさ、焦り、恐怖、憤り、全てに決着がつかないままじくじくと腫れ上がったそれは衰えることなく膿を孕む。待っててくれ、そう足枷をつけ縛りつけたのは俺なのにまくらに顔を埋め啜り泣く彼女の姿に音をあげたのも俺だった。だからこそ、知らない奴と笑顔で歩く彼女の姿に裏切られたと奥歯を噛むのはお門違いで、いつまでも健気に待っていてくれるだなんてぬるま湯に浸かっていた俺にいい加減目を覚ませと現実が殴りつけたのはそういうことなんだろう。好きだった、たぶん宇宙上の誰よりも。けれど、俺以外に魅せる彼女の笑顔に湧き上がったのは喪失感でも憤りでもましてや哀しみでもなく、母親が子供の手を離したときに酷似した孤独感。失った居場所を必死で求め、手を伸ばす子供のような愛情に虚しさだけが占領する。好きだった、けれど結局はそうじゃなかった。となりにある笑顔に、俺を想う涙に安堵してただ「工藤新一」を求める蘭の存在に居場所を見出し、甘えていただけだったのだ。縛られていたのはどちらなのか、そんな馬鹿げた疑問が脳裏を過ぎるも今更そんなもの。どちらにせよ蘭の傍にいない方がいいと中学に上がる頃をきりに、もうひとりの幼馴染みの家に転がり込んだ俺をめんどくさい、と露骨に嫌な表情で出迎えたみょうじはそれでも性格故か甲斐甲斐しく世話をやく。以前、愛情を履き違えた俺に「ばかだな、まあでもよかったんじゃねーの」なんてあっけらかんと跳ね除けた彼は変わらない。じわりじわりと広がっていた傷がぴたりと侵食を止めたのも、そんな彼のおかげなんだろう。自責に駆られ、失態も弱音も吐露した俺を責めることも慰めることもせず、ただ受け止めてくれる。彼の態度に漸く息を深く吸い込める俺も変わらねーな、なんて口元を緩める余裕さえ浮かぶほど彼の存在は大きかった。

「なぁ、彼女いねーの、お前」
「...いらないよ」

大学院に上がったみょうじが帰宅するのはだいたい日付が変わる頃。本来、継ぐはずだった父親の病院も蹴ってよぼよぼの年寄りばかりが通う小さな病院で実習を受けながら、変わらずピザ屋のバイトを続けている彼と顔を合わせるのは一緒に暮らしているはずなのに稀なこと。起床時間すら被らない彼の迷惑にはなりたくなくて、カップ麺ばかりを食べていた俺に「成長期にんなもん食うなよな」なんて叱責をくれた上に、バイトに行く前に律儀にも晩御飯を作るようになったのはみょうじと過ごして1週間後のことである。父さんや母さんから貰ってるはずの生活費にも手をつけずやり繰りしている彼は呆れるほどに頑固だ。帰宅して早々ベッドに飛び込むそんなみょうじにしては珍しく、今日はまだ寝ないらしい。お前も飲めよ、なんて上機嫌でビールを煽る彼の誘いを丁重に断れば不服を訴えられた。普通、未成年に酒勧めるかよなんてぼやきも彼には届かない。どうやら酔っているようだ。そういえば、バイト仲間と飲み会があるって言ってたな、なんて記憶を掘り起こしていつもよりも滑舌な彼の姿を物珍しげに観察していればこの質問。誰だよここまで飲ませた奴。

「お前、顔だけはいいからモテそうなのにな」
「なまえ兄ちゃん、怒るよ」
「歩美ちゃんとか哀ちゃんとか可愛いじゃん?あ、それともあれか毛利か」

けらけらと笑う彼の姿を見るのは、約一年暮らしてはじめてだ。いやこいつと出会ってから一度としてみたことはない。おっちゃんと呑んでもここまで酔うのは珍しく、彼がここまで身を預けて呑むほどのバイト仲間に悔しさが頭をだす。冗談とも本気ともつかない問いには応えず、二本目のプルタブを上げようとした彼にもう呑むの辞めたら、と促すも呆気なく嚥下されてしまった。

「んーでも毛利はやめとけよ」
「だから、そういうんじゃないって」
「だって、お前工藤に似てんじゃん」

ビールを取り上げようと身を乗り出した俺から逃れるように身を捻ったみょうじは、俺が散々悩んで逃げてきた事実を軽い口調で突いた。ぴたりと動きを止めた俺を見て、ビールを置いたみょうじは緩慢に腕を伸ばすと江戸川コナンとして偽ってきた重い眼鏡をあっさりと取り上げる。驚愕に目を開き、嘘で塗り固められた俺とは違う、僅かに色素の薄い綺麗な瞳。眼鏡越しではなく、なんの隔たりもないその瞳を間近に、吸い込まれそうだなんて馬鹿な思考が脳裏を掠めた。ゆっくりと細まる目尻に、動く薄い唇。ほら、似てる。そう一言呟いて、まるで自身の持ち物のように胸ポケットに突っ込んで、何事も無かったかのようにビールを嚥下するみょうじに固まっていた思考が動きだす。返してよ、なまえ兄ちゃん!さらに身を乗り出して伸ばした手首は細い掌に捕えられた。やだね、ちろりと赤い舌を覗かせて悪戯っ子のようなその笑みが煽情的で、瞬間に身体が熱くなる。

「俺だってさ、生きてんのかなって心配する」

それは江戸川コナンに言っているのか、工藤新一に向けているのか。まあなんやかんやいっても腐れ縁らしいし?なんて眉を下げて笑うみょうじに喉が詰まる。ぱくぱくと口を開閉させるだけの俺を澄んだ瞳で見詰めて「俺ですらそう思うんだから、毛利には酷だろうな。ま、お前が悪いわけじゃないんだけど」とまた一口、ビールを煽った彼にゆっくりと息を吐く。恐る恐る、それでも僅かな期待を乗せて捻り出した問い掛けに、彼はきょとんと俺を見やった。

「...なまえ兄ちゃんは、新一兄ちゃんがいなくて寂しい?」
「んーどうだろうな。どっちかっつーとうるさい奴がいなくてせいせいする」

俺の勇気を返してくれ。そうごちるほどばっさりと切り捨てたみょうじにから笑いしか出てこない。まあこういう奴だよな、なんて軽くは流せないほど情けないことに淡い期待をしていたんだろう。こいつだけは、なんて抱いて身を切り詰めるような惨めさはもう二度と味わいたくなかったはずなのにまた同じ過ちを繰り返す。工藤新一としての未練を残す甘い自身がいけないのは百も承知で、だからと言って、江戸川コナンを捨てれるかと言われても愛着が湧いた今となっては無理なはなし。工藤新一も、江戸川コナンもどちらも見てほしいなんて強欲さに我ながら呆れる。身体を巡った脱力感に小さく失笑を零し、身を引いた俺を彼は許さなかった。ぐっと僅かに引かれた手首に再度視線が絡まり合う。

「寂しくない、は本当。だって俺には手のかかるお前がいるし」
「...え、」
「いつかひょこり帰ってくんじゃねーかななんて未だに思ってんだけどさ、もし顔見せたら、心配させんなばかやろーって言ってやるつもり」

だから、それまでお前と気長に待ってようかなって。そういってへらりと笑ったみょうじに口を噛む。じわりと胸を占めるのは喜びかそれとも。様々な感情が押し寄せてはぐるぐると脳内を闊歩する。そうして残ったのは苦しいほど持て余す恋情で、ああ、もうおめーはほんとに、普段なら絶対聞けやしなかった幼馴染みの本音に胸中でごちて望むままに彼の肩口に顔を埋める。たぶん、好きなんだろう。いやきっと。どきどきと高鳴る鼓動が証拠で、かつて蘭に寄せていたそれとも違い、ただただ彼がほしいと細胞が叫ぶ。目を閉じ耳を塞ぎ、蘭だけを見詰めるフリをして自分の感情すら偽っていただけで、心根ではいつだって。だからこそ、蘭に裏切られても仕方ないかと呆気なく踏ん切りをつけれたのだ。気づいた頃には膨れすぎた愛情が、じわりじわりと溢れ出る。どちらが消えても江戸川コナンも、工藤新一も彼の中では生き続けるのだろう。その事実が震えるほどに嬉しくて、それでも「俺」を見てくれるならどちらでもいいかとさえ巡る単純な思考に笑みが滲む。震える俺の肩に手をかけて、「え、お前大丈夫か、」と平然と視線を合わせてきたみょうじがなんだか悔しくて、その薄い唇にかぶりついてやった。目を瞬かせて数秒、僅かに頬を染め、あからさまに狼狽えるみょうじの新鮮な表情が可愛くて口角を持ち上げる。そんな俺の微笑に口角を引き攣らせたみょうじには悪いが、逃がすつもりも離れるつもりも毛頭ないわけで。

「なまえ兄ちゃん、責任とってくれるんだよね?」

これじゃ、どっちが足枷つけてんのかわかんねーな、なんて一瞬掠めたそれを追い払う。そうして再度、深く唇を啄めば苦いビールの味がした。