ねぇ、なまえ兄ちゃんちょっといい?服の裾を掴む小さな彼に促され、身を寄せた俺の鼓膜を擽ったのは不穏な羅列。先程、航海演習の催しだと甲板から離陸するヘリを見送った俺たちは昼食として出された海軍カレーに舌鼓を打っていたのだが、彼の手にかかれば極上のカレーもただの固形物となるようだ。まったく味のしなくなったそれをなんとか飲み下した俺は、じっと見据える眼鏡の奥を歪めた表情を取り繕うことなく見返す。 「はぁ?腕?」 「しー!なまえ兄ちゃんもっと声落としてっ」 口元に指を押し当てて、ちらちらと後方を気にする素振りをみせた小さな探偵の焦燥に、変わらず談笑を続けている小学生の姿をちらりと確認した俺は再度名探偵に視線を移す。どうやら少年探偵団の面々には聞かれたくないことらしい。幸い、様々な演習により興奮冷めやらぬ彼らは疎か、ざわざわと談笑の入り交じるこの食堂で他人の会話に聞き耳を立てる物好きはいないようだ。まあ、残すのも勿体無いし、と頬杖をつきながら緩慢にスプーンを口に運んだ俺は視線で続きを催促する。名探偵の話はこうだ。毛利とトイレの場所を探している途中で乗組員が中排水装置のフィルターに引っ掛かっていた一等海尉の左腕を見つけたところに遭遇し、一刻も早く検視に回すためにデモンストレーションだと偽って左腕を乗せたヘリを飛ばした。そして、服部に連絡して舞鶴港へと向かってもらったがその途中若狭湾の造船所で左腕のない遺体を発見したと連絡が入った、と。つらつらと掻い摘んで現状を報告する名探偵にはだんだんと濃くなる俺の眉間の皺は見えていないようだ。ああなんかものすっごい嫌な予感すんだけど。 「もしかしたらこのイージス艦に平次兄ちゃんが発見した遺体の犯人がいるかもしれないんだ。それに、あの写真を撮った女性自衛官はどの艦隊にも所属していなかった」 「ふーん、それも服部に?」 「違うよ。自衛官の件は阿笠博士に頼んだんだ」 海上を航海するイージス艦に乗艦している身動きのとれない名探偵にかわり、西の高校生探偵や阿笠博士が協力して情報を集めている。この話をもし毛利あたりから聞いたのであればへーそうかで済むのだが、残念ながら隣でカレーを頬張るのは頭のキレる厄介な相手。わざわざ誰かに聞かれる可能性のあるこの場所を選んだことも含め、なにか意図があることは探偵でなくとも容易に汲み取れた。トレーに乗っていた紙パックの牛乳を小さな彼に押しやった俺は、不躾な視線を向けてくる名探偵を否してくるくるとスプーンを弄る。つまり、彼は俺に頼み事があるらしい。現状を頭に叩き込んで数秒吟味した俺は、あからさまなため息を零して蒼い瞳と視線をぶつける。 「で、俺になにしてほしいの?」 「なまえ兄ちゃんにはみんなから目を離さないでほしいって新一兄ちゃんが」 「みんなって?」 「乗艦者、みんなだよ」 訝しげに眉を寄せた俺に、彼はそれ以上詳細を語る気はないようだった。小学生らしかぬニヒルな笑みを携えたその表情を視界に入れつつ、含みのある彼の言葉を口内で転がす。みんな、ね。その言葉通り、今回の体験演習に参加している一般乗艦者及び、乗艦している海上自衛官全員を監視しろということだろう。あの女性自衛官を監視しろだの名探偵と一緒に事件を捜査してくれだの、面倒事を押し付けられることを予想していた俺にとって、名探偵の頼みは少々拍子抜けだった。毛利や少年探偵団と共に演習を受けつつ周りを警戒すればいいらしい。わざわざそれをこのタイミングで俺に頼むということは、この後この小さな名探偵は情報を集める為に動くのだろう。警戒する特定の相手を指定されなかったということはまだなにも掴めていないということだ。まあそれくらいならと承諾を示した俺に、名探偵は「なまえ兄ちゃんならきっとそう言ってくれると思ったんだ!」なんて軽い言葉を投げてくる。嘘つけ、拒否したところで上手く丸め込もうとするくせに。そう孕んだ眼差しを向ける俺に、彼はずいっと先程俺が遠のけた牛乳を寄せる。ところで。 「ちゃんと飲んだほうがいいよ。なまえ兄ちゃん細いんだから」 「俺の成長期は終わってんだからいーの」 「ねぇ、なまえ。コナンくんの居場所知らないの?」 「知ってたら言ってる」 「そうよね。もう、あの子目を離すとすぐどっか行っちゃうんだから!」 慌ただしく駆けていった名探偵を見送った後、対空対潜戦闘訓練はイージス艦内に散りばめられた宝物を探し当てるというゲームが行われることを井上航海長により案内された。コナンくんが居たらきっとすぐに集まるね!なんて歩美ちゃんの提案により、まずは昼食時に姿を消した眼鏡のガキを探すことになったのだが宝物であるイージス艦マスコットキャラのストラップを探し当てるよりも難易度は高い。情報収集の為にちょろちょろと嗅ぎ回っている彼のことだ。甲板や食堂、トイレや廊下など一般乗艦者が拝見できる場所には早々いないだろう。なんとなくいそうな場所の検討はつくが、それを毛利に伝えて言及されるのも面倒だ。なんて、呑気に欠伸を殺しながら彼等の後ろを歩いていたのだが、一向に見つからない名探偵のせいで目に見えるくらい保護者の機嫌が降下している。普段、温厚な彼女を怒らせればどんなS級犯罪者よりも恐ろしいことは名探偵も含め全員の折り紙付きだ。「あーコナンくん見つけた!」ご愁傷様、胸中で唱えて腕を組む毛利から視線を外した俺の耳に、喜々とした歩美ちゃんの通る声が響いた。 「なんか分かったのか?」 「あ、なまえ兄ちゃん」 もう、どこ行ってたの!憤慨する毛利に捕えられ、有無を言う暇もなく宝物探しゲームに参加させられた眼鏡を連れて再度食堂へ足を運んだ俺たちは、小さなストラップを見つける為に散らばった。その隙にと、ぼんやりと佇む小さな背中に声を掛ければ細い肩がびくりと竦む。俺の姿を入れたその瞳が、確かに安堵で揺らいだ。盲目的にとさえ言わしめるほど自身の危険も考慮せず、ひたすらに真実を追う彼にしては希な動揺。それほど警戒しなければならない何かがこのイージス艦に潜んでいるのか、それともーー。 「もうっ、なまえ兄ちゃん!」くしゃくしゃとその小さな頭を撫ぜれば下方から声が上がる。身を捩って逃げようとする彼の頭に掌を乗せたまま、目線を合わせる為に腰を落とせばきょとんと年相応の幼い顔。 「大丈夫だよ」 「え、と、どうしたの?急に、」 「んーなんでだろうな。なんか言いたくなったから」 「...やっぱずるいや、なまえ兄ちゃん」 そう言って笑った名探偵の表情はどこか辛そうで苦しそうな、疑念が残るそんな笑み。それでも、先程見せた不安の色は消えていて気付かれないようにそっと胸を撫で下ろす。この小さな身体にまた何千という生命が伸し掛かっているのだろうか。そしてこの少年はそれを苦とも思っていないのだろう。彼にとってはそれが当たり前で、彼でなければ成し得ない。それはきっと彼が主人公であり物語の中枢であるが故。なんて酷く滑稽な世界だ。けれど、こんなちっぽけな世界でも何億という人がいて、今もどこかで生命が誕生しているのも確かなこと。例え、紙面上の世界であり、筋書きが決まっていようとも一人一人が意志を持って歩んでいるのを知っている。もちろん、「この世界の主人公」としての信頼はあるが、正直俺にとっては事件が解決しようがしまいがどうでもいい。喜んだり悲しんだり、悩んだり後悔したり、他人と変わりなく感情のままに動く彼等の人間性を間近でみてきた俺にとって漫画の世界だろうが関係ない。できるだけ巻き込まないで欲しいのは切実だが、片足を突っ込んだ以上、彼等が迷っているのならせめて背中を押してあげたいとは思うのは彼等がただの人間だから。だからこそ、彼が希にみせた不安をほっておくことなんてできるわけがなかった。 「任せたからな、名探偵」 そうニヤリと悪戯に笑った俺は名探偵の鼻をぎゅっと摘む。すぐに小さな手で払われてしまったが咎められることは無かった。その代わりに送られた、不敵な視線が彼の応え。そうしてまた彼は誰かを救う為に真実を追うのだ。 |