航海演習の催し「宝探しゲーム」のお宝であるストラップは食堂と甲板に各5種類づつ隠されているらしい。どうやらこの講習で全てのスケジュールが終了し、漸くぐらぐらと足元の覚束無いイージス艦とついでに変な頼まれ事からおさらばできるようだ。未だ、絡まりあった奇妙な事件の糸口を模索している名探偵から離れ、演習の記念品が貰えるくらいだろう面倒な作業に加わった俺は、彼等に混じって眼を配らせる。ちょっとなまえ!あんたも真面目に探しなさいよ!突っ立ったままの俺に対して飛んだ怒号をひらひらと掌で軽く払えば、鋭い双眸がぐさりと射抜いた。これでも真面目に探してるんですけど。なんて、吐いた言葉にやる気は微塵も込めていない。確かに、イージス艦に乗艦できること自体貴重ではあるが記念品まで欲しいかと聞かれたら応えはノーだ。協調性が欠けている奴だと罵られようと床に這いつくばるのは遠慮したい。それに、彼と比べたら突っ立っている俺なんて可愛いもんだろう。まるで風船のように頬を膨らませた彼女の背後、駆け足で食堂を後にした小さな名探偵のその知識が豊富に詰まった脳みそには、協調性の文字が一切ないのだから。

「もう、蘭ってば。ガキんちょなんてほっときゃいいのに」
「頼まれてんだからそうもいかねぇんじゃねーの」
「でもあの方向音痴、ちゃんと帰ってこれんのかしら?」
「コナン追い掛けたんだったら大丈夫だろ」
「でも見つかんなかったらどうすんのよ」

その協調性の欠片も無い自由奔放な彼を追い掛けて、毛利までもが姿を消した。遠ざかる背中をぼんやりと見送っていた俺の横で、やれやれとやけに大人ぶった素振りとは裏腹な彼女を気遣うその言葉は確実に俺を誘引している。何故、なんて問いは彼女の前では野暮、聞くだけ無駄だ。大方、毛利と二人っきりにさせてあげようだなんて大変迷惑な理由なんだろう。友達思いでお節介なお嬢様の考えてることなんか考えなくても容易に分かる。それでも、ちくちくと逸らされることのないその大きな双眸と真っ向から向き合ったところで俺に勝ち目なんて毛頭無いのだ。あーもう、行けばいいんでしょ行けば。根が張りかけた足蹠をのっそりと動かして、扉へと向かう俺の背中を弾んだ声が引き止める。

「ほら、やっぱり蘭が気になるんじゃない」
「ばか、それはお前だろ」

にんまりとした憎たらしいほどの満悦の笑みに見送られ、出た廊下の先にはもちろん毛利の姿はない。高波により封鎖された甲板から食堂へと戻る人波の中にも彼女の姿は見受けられなかった。何処に行ったのか。名探偵と居るのならそれに越したことはないが、彼を動かすほどの事態がこの艦で起こっていることは確かなのだ。乗艦者から目を離すなと言われている以上、毛利に何かあればお咎めを食らうのは俺なわけで。釈然としないもどかしさからわしゃわしゃと後頭部を掻き毟る。そんな俺の苛立ちを嘲笑うかのように艦内はあまりにも静かだった。左腕が見つかったなんて間違いじゃないのか、そんな空気すら匂わせるほど。

「おい、Xは見つかったのか?」
「いや、まだだ」
「急げ、もうすぐ港につくぞ」

突如、耳に入った不穏な単語に思わず脚を止める。どうやらいつの間にか一般人の立ち入りが禁じられている場所にまで来てしまっていたらしい。ぴったりと壁に張り付き、気付かれないように彼等の会話に耳を澄ませる。焦燥に汗を滲ませ、早口で捲し立てる彼等の口調からしてその「エックス」は知人というわけではなさそうだ。その情報だけを残し、ばたばたと遠ざかる足音が完全に途絶えると漸く壁から身を離す。エックス、ね。彼等の探し人が親しい間柄で無いのならその隠語が指すのは今回の犯人か、そうでないとしても事件に関係のある物だろう。元々、この艦内に犯人が乗合せていると推理していたのなら彼の奇妙な頼み事も納得がいく。面倒なことになったな、なんて潮風が増した甲板の床を踏みしめて目を凝らす。甲板へ向かう彼女の長い黒髪が見えた気がしたのだ。立ち入り禁止となった為、自衛官すらいない甲板をぐるりと一望してみたものの彼女の姿は見当たらない。高波がくる、危険性のあるこの場所へのこのこ出向く奴なんかいないだろう。気のせいか、そう踵を返した俺の腰にどんっと何かがぶつかった。

「お兄ちゃんっ、お姉ちゃんを助けて...っ!」


____



この人スパイだっ...!勇気くんの嗚咽交じりの叫喚に、漸く本来の表情を貼り付けたその姿と対峙する。口角を弓なりにあげたその歪な笑みにぞくりと身体が戦慄いた。コナンくんを捜している途中で追い掛けた、見知った親子がまさか偽物だったなんて。けれど、思い返せば引っ掛かるところは多々あった。左腕を搬送する為にデモンストレーションとしてヘリを見送る際の勇気くんのあの言動。僕、大丈夫。父親と一緒にいてあんな痛々しい表情で笑うはずもないのに。「はぁーーーっ!」床板を踏み上げ、意表をついた蹴りは相手の頬を的確に捉えた。勇気くんに人を呼んでもらうよう促して、再度その鋭い眼孔と向き直る。何故スパイが乗艦しているのか、どこのスパイなのかも全く知る由もないけれど勇気くんを誘拐していた犯罪者だということがわかっているだけで十分だった。
「くっそ...!」苦虫を噛み潰したような殺意を滲ませた表情を携え唇の端から流れる鮮血を乱暴に拭った彼の、その右手に光る鋭利な刃物に息を呑む。咄嗟に後退したけれど一歩、間に合わなかった。潮風に煽られ宙を舞うオレンジ色の切れ端を横目に、振りかぶった僅かな隙を見て間合いを詰める。ーーーいけるっ...!最早、私の思考は彼を倒すことで占められていた。鳩尾を蹴り上げ、床板に転がったその姿を捉えて瞬時に駆け出す。左脚を軸に地を蹴り振り上げた右脚は、けれど彼が手にした太く頑丈なロープにより届くことは無かった。足首に巻き付いたロープに体勢が崩れて視界が空で埋め尽くされる。時が、止まったような気さえした。ゆっくりと甲板から投げ出された身体が潮風に煽られ、耳元では轟々と風が唸る。一瞬の浮遊感の後降下する感覚に、伸ばした手は無情にも宙を欠いた。しん...いち、脳裏に過ぎった想い人の顔も鼻腔をとおる海の匂いに掻き消える。水面が近づくその畏怖に両目を閉じた時だった。

「...っどこほっつき歩いてんだ、この方向音痴」
「...え、なまえ...?」

耳に馴染んだその声に瞠目した。逆風により頬を叩く髪も轟々と唸る風の音もぴたりと止まり、柵から越えた身体がぶらぶらと情けなく揺れる。薄い唇を尖らせて悪態を吐きつつもじわりと額に滲むその汗に、捜してくれていたのかな、なんて状況を忘れてしまうほど、じわじわと湧き上がる嬉しさに頬が緩む。がっしりと腕を掴む湿り気の帯びた掌に、胸が熱くなった。なまえはずるい。他人に無関心のようでいてしっかりと見ているその濁りのない綺麗な瞳も、文句ばかりで素直じゃない彼が無条件に与えるその優しさも、彼を構成する全てが卑怯でーーー愛おしい。だんだんと惹かれているこの事実に彼は気づいていないだろう。けれど嬉しさを噛み締める暇もなく、苦しげに眉を顰めるなまえの背後、ゆらりと揺れた人影に喉を上下に唾を飲み込む。カラカラに枯れた喉を無理矢理こじ開けたことでひりひりと痛んだ。

「なまえだめっ!スパイが...っ!」
「っ...知ってる」

上半身を柵に乗り上げ、私の右手首を掴むなまえも背後の殺気は感じているようだったが、歯を食いしばる彼は掴む掌の力を強めただけだった。額から滲んだ汗が、頬を滑り顎を伝ってぽたりぽたりと私の腕を濡らす。首の骨を鳴らし、まるで焦らすかのように彼の背後へと緩慢に迫るそのニヒルな笑みに、悪寒が背筋を這い上がる。光を浴びて鈍く光った先端に、引き攣った悲鳴が喉に詰まった。

「...っ、なまえ、離してっ!私はいいから、お願い...っ!」
「...いやだ」
「だめよ、このままじゃなまえまで...っ!」
「ーー...っ、目の前で助けれる人がいんのにほっとけるわけねーだろっ!」

眉を寄せ苦しげに表情を歪めるなまえから初めて向けられた罵声に、ひゅっと息を飲んだ。「で、でも...っ」「うるせー黙ってろっ!」それでも食い下がる私に声を荒らげて一蹴し、喉奥から漏れる呻きを殺して力を込める。きっと彼に私を引き上げることはできないだろう。けれど、必死に私の腕を掴む彼の真っ直ぐなその眼差しを、ただ、呆然と見やるしか無かった。
ーーーねぇ新一。今なら新一の気持ち、分かるよ。一点の曇もなく諦めの色も無い瞳に、どこか懐かしさを覚えこんな状況だというのに笑ってしまいそうになる。「あいつはただのお人好しじゃねぇよ。そこに馬鹿がつくくれーのお人好しだぜ」そう泣きそうに笑った新一に、興味のない振りをした私の胸に燻ったのはどろどろとした汚い感情。この先、自信に溢れた真っ直ぐな眼差しを哀愁に彩れるのはただひとり。その事実に直面して当時、情けなくも嫉妬した。じわりと浮かぶ汗が潤滑剤となり離れそうになる掌を繋ぎとめようとするなまえは昔となにも変わらない。見返りなんて無いのに、見知らぬ他人にも無条件で手を差し伸べる馬鹿でお人好しななまえに一生掛かったって勝てはしないのだ。それが今でも尚、ほんの少し悔しくて羨ましくてーーーいつか彼が居なくなるんじゃないかって心臓が鷲掴まれるほど、怖い。

「女を離せば助かったのに残念だった、なぁ!」
「...なまえっ!」
「...っ」

振り下ろされたソレは無情にもなまえの左肩を刺す。ぶわりと空気に拡散した鉄の匂いにくらくらと眩暈がした。救命胴衣を着衣していないなまえの肩から腕を伝い、私の腕を染めていく赤い鮮血。いやっ、やめて、お願い、離してっ。喉が痛むのも構わず叫び続ける私に、荒い呼吸を繰り返しながらそれでもなまえは否定するように益々腕を強く握る。段々とシャツを染める赤色に、ぞわりと恐怖が駆け巡り身体が震えた。なまえの手を外そうと身を捻り、嗚咽交じりに懇願する私と彼の視線が不意に交差する。色素の薄い、彼の綺麗な瞳とは正反対なぐしゃぐしゃで酷い顔。薄い膜の張る視界越しに、くっきりとしたアーモンド形の目尻が緩やかに垂れ下がって、形の良い薄い唇がゆっくりと動いた。ーーーだいじょうぶ。音の成さないその唇が形どったそれに、見開いた目縁から耐え切れなかった雫が頬を伝う。

「いい加減、落ちやがれっ!」
「...ぁく、っ」

お願いやめてっ、私の奇声も虚しく、再度振り上げられたナイフが生々しい音を立ててなまえの脇腹に深々と刺さる。ぐっと力を入れて突き立てた刃物の柄を左右に捻りあげなまえを犯すその歪んだ笑みに、脳みそさえ沸騰しそうな怒りで拳が震えた。ごぽっ、なまえの口から吐かれた鮮血が私の頬に降り掛かり、甲板に溜まった血溜まりが、艦と私のあいだを滑りぽたりぽたりと海へ落ちる。なまえっ!焦燥から声高に上げた呼声に反応したなまえの睫毛が微かに震えたけれど、ぐったりと力の無い身体を柵に預けたなまえから漏れるのは微かな吐息と喉奥で押し込めたか細い呻きだった。ずるり、となまえの上半身が柵を滑るのと共にナイフが抜かれる。ふわりとした浮遊感に襲われた思考の端で、最後の一撃とでも言うかのように振り上げられたナイフに焦燥が走る。けれど、なまえが靴裏で腹部を蹴り飛ばしたことによりそれが下ろされることはなかった。

「...なまえ、なまえっ!」
「...っぁ、...っ」

スパイを蹴った勢いのまま柵から身を投げたなまえと固く繋がったままの掌をなんとか手繰り寄せ、そのまま胸に抱き寄せる。風圧で畝る髪の毛と、轟々と煩い風の音に掻き消え無いよう耳元で叫べば微かに聞こえる呼吸音。それに僅か安堵して、けれど着実に近づく海の気配にぎゅとなまえの頭を抱え強ばった。瞼を下ろした際、だらりと脱力したままのなまえからはくはくと空気と共に伝えられた蚊の泣くような囁きに、馬鹿っ...!なんて胸中でごちる。ーーーごめん。はらはらと落ちた涙は海に溶けて消えていった。