こそこそと隠れて過ごすのは商に合わないが、かといって顔を合わせる度にびくびくと狼狽える小心者の心臓が、あと1年持つわけがない。いっその事、転校でもするかなとぐるぐる考えを巡らせて止めていた足を動かす。そろそろ向かわないと上司が五月蝿そうだ。めんどくせーなとひとつ零した俺の耳に「あ、」「蘭...っ!」とやけに慌てた声が届いて勢い良く振り返る。驚きで見開いた俺の目に、落ちてくる毛利の身体がスローモーションの様に再生された。おいおい勘弁してくれよ!持っていた鞄を放り投げて、急いで毛利と階段の隙間に身体を滑り込ませる。次いで訪れた衝撃にぎしりと身体が悲鳴をあげた。自分の反射神経にまだまだ23歳捨てたもんじゃないなと大手を降って喜びを示したいところだが、先程まで関わりを持ってたまるかと舌を出していた相手が腕の中にいる事実にまずは頭を抱えたい。やってしまった。

「あんたやるじゃない!」
「うるせー黙ればか。俺は今心が折れそうなんだほっといてくれ」
「何言ってんの普段新一くん以外に触らせない蘭を抱きしめられてることに喜びなさいよ」
「そーいう問題じゃねーの」

ミーハー精神よろしくきゃーきゃー言うほどこの漫画が好きだったわけでもなんでもない俺でも、目を惹かれる容姿はさすがヒロインだけあるなと思ったよりも近い顔を眺めて感嘆を漏らすのは仕方がない。が、さめざめと内心で自分の愚かさを嘆いている俺の荒んだ心はどんな万能薬を飲んでも収まるわけがない。ナイーブな俺の傷口に容赦なく塩を塗ってくる女にふざけんなちくしょうと毒を吐く。俺の気持ちなんかわかってたまるか。ぎゃあぎゃあと頭上で言い合っていた俺達の声に漸く意識が覚醒した毛利が身じろいだ。大丈夫か?と向けた笑顔がヒクリと痙攣する。

「あ、ありがとうございます...」
「いや、次から足元ちゃんとみろよ」

ほんのりと頬を染めて慌てて身を起こした毛利の温もりに少しばかり名残惜しさを感じる。思春期はとうに迎えたし、女に飢えている訳ではないが女の子特有の柔らかさに心が和らぐのは男の心理というやつで。主要キャラでさえ無ければこのまま美味しく頂きたいところである。どんなに容姿端麗でも自分の命には変えられないのでフラグが立つ前にさっさとおさらばさせて頂こう。出来ることなら今日のことは犬にでも救われたと思って忘れてくれ。頭を下げる毛利にひらひらと手を降って、鞄を拾いに腰を上げる。庇った際に打ち付けた腰がずきりと痛んだが、特に支障もなさそうだ。毛利が軽くて助かった。そのまま踵を返した俺を「ちょっと待ちなさいよ!」と金切り声が引き留める。いい加減解放してくれと煩わしげに振り返った俺の目に仁王立ちした茶髪が移った。

「蘭が足を捻ったみたいなの。あんた家まで送ってあげなさいよ」
「...は?」
「えっ、いーよ園子!」
「駄目よ蘭!ちょっとイケメンでも足を挫いた女の子を放置して帰るなんてこのあたしが許さないんだから」
「いや、俺バイトあるし」
「なによ、こーんな可愛い子置いて帰れるわけ?あんたナイト気取って助けたんだったら最後まで面倒見なさいよ」
「...気取ったつもりも助けたつもりもねーんだけど」
「いーから!ほら、手伝ってあげるからちゃっちゃと蘭をおぶる!」

なんて横暴だ。つかつかと近寄って来たと思ったら人の胸に指をぶすぶすと突き刺しながら悪戯に笑う園子(毛利情報)にふざけんなと叫んでも聞いてやくれない。確かに傷ついた女の子を放置して帰るのは良心が痛むけれど毛利の不注意が起こした事故だ。こちらにはなんの責任も、ましてや家まで送り届けてやる義理もない。誰が好き好んでラスボスが待つ家に行くというんだふざけんな。そうは思うも、まるで捨てられた仔犬の様に状況を伺っている毛利の視線がチクリチクリと胸を刺す。腕につけた時計と毛利を数度見比べて、肺から空気が無くなる程に息を吐いた。あーもう。

「今度!俺のバイト先のピザ、食べ切れないくらい頼めよな!」
「あ、えっと、ありがとう」
「礼はいいよ」
「うん。...ありがとうみょうじくん」

背中に毛利を乗せて立ち上がろうとした俺は自分の耳を疑った。思わず落としそうになった毛利を慌てて支える。一言も名乗ってはいないはずなのに毛利に名を呼ばれるなんて有り得るわけがない。困惑する俺の隣で「あんたとは小学校以来じゃない?こうして喋るの」と宣った園子に死刑通告を受けたかの様な衝撃が走った。目の前が暗くなるとはこういうことか。幼い頃の純情な自分を今すぐにでも叱責しに行きたい。タイムマシンどっかに落ちてないかなと薄く笑って遠い目をする俺の耳に、さあ行くわよ!と気楽な声は通り抜けていった。