「ハリー・ポッター」、魔法界にいればその名を耳にすることは決して珍しいことでは無い。誰もが敬い、讃え、賞賛する。それがたとえ記憶もない赤子の時に成しえたことだろうとも、人々は拝を交え高々に口を揃えるのだ。彼こそが英雄だ、と。

そんな彼の偉業を讃えていた日刊予言者新聞では、今年ホグワーツ魔法高等学校に入学したばかりのハリー・ポッターの新たな話題で紙面が埋め尽くされていた。露骨に顔を顰めたドラコ・マルフォイは先程広げたばかりの日刊予言者新聞をくしゃくしゃと荒々しく丸め、轟々と炎が揺れる暖炉の中に投げ入れて豪快にふんと鼻を鳴らす。

「揃いも揃ってポッターだやれポッターだと、全く、笑わせてくれるよ。ただ運が良かっただけの子供にヘコヘコしているようじゃ魔法界も落ちたものだな。見ていて分かるだろ?あんな奴、英雄なんかじゃなくただ額に傷の付いた世間知らずのおマヌケポッターちゃんじゃないか」

マルフォイのせせら笑いに被せる様に、お菓子の山に顔を突っ込んでいたビンセント・クラッブとグレゴリー・ゴイルがスリザリンの談話室に下卑た笑いを響かせる。マルフォイの隣ではぴったりとその身を寄せて腕を絡ませたパンジー・パーキンソンが瞳に熱を滲ませてうっとりとその透き通った鼻先を見つめていた。

「なぁなまえ、君もそうは思わないかい?」
「ええ、そうね」

暖炉の前に置かれているソファに我が物顔でどっしりと腰を落ち着かせていたマルフォイからは離れた隅の席。自室から持ち寄ったタオルケットに身を包み、図書館から借りてきたばかりの「誰でも上達する飛行術」に目を走らせていたなまえは、炎の明かりに血色を良くさせたマルフォイの頬をチラリと一瞥してまた顔を落とす。御座なりななまえの返答にも一層機嫌を良くしたマルフォイは、欠陥した配管から水が溢れる様にペラペラと愚痴を零しつづける。良くもまあそれだけ口が回るものだと、なまえはずり落ちたタオルケットを肩にかけ直しながら胸中でごちた。あと数十分後には消灯だというのにも関わらずマルフォイの周りには上級生もひしめき合い、彼の口から零れる言葉を一字一句聞き逃さぬようにと前のめりに相槌を打つ者ばかり。それもその筈、家系を辿っても一切マグルの血が混じっていない純血の中の純血であると評される「聖28一族」のマルフォイ家の長男に歯向かうなど純血の集うスリザリン寮生の中にはいるはずがなかった。吠えメールで済めばいいが、魔法界に居られなくなる可能性もある。媚を売るどころか、反感を買うだなんて行為それこそ「世間しらずのおマヌケちゃん」だ。だからこそ、マルフォイ家には逆らわない様に、耳にタコが出来るほど口酸っぱく言われている者も少なくないだろう。なまえだってそうだ。「聖28一族」に入るほど純血主義でもないが、両親共に純血でありスリザリンな上、ドラコ・マルフォイの父親ルシウス・マルフォイの後輩だったと聞く。家計を辿った事などないが、数ヶ月前の組み分けで草臥れた帽子に触れた直後にスリザリンだったのだから代々スリザリンの家系なことくらい予想はつく。9と3/4番線のホームで1年間会えなくなる愛娘に別れを惜しむよりもドラコ・マルフォイとの仲を終始懸念していた両親の苦い記憶を掘り起こしてなまえはまた悠然とページを捲るのだった。


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ホグワーツの新入生が何よりも先に覚えなければならないのは呪文よりもまず授業を受ける教室へ辿り着くまでの道のりである。部屋数も然る事乍ら、至る所に魔法が掛けられているホグワーツの動く階段に惑わされ遅刻する者が大半。その常習犯ともいえるのがグリフィンドール寮生のネビル・ロングボトムだった。「魔法族の落ちこぼれ」「出来損ないのロングボトム」と呼ばれる彼はハリー・ポッターとは別の意味でその名を知らしめている。そんなスリザリン寮生にとってポッターと同様、嘲罵を向ける対象である彼とホグワーツで最も厄介なポルターガイストのピーブズに鉢合わせたのはなまえが一階の廊下を小走りで通り過ぎ、階段へ足を掛けた時。普段なら人通りに溢れた大広間前の階段でも、あとものの数分で授業となれば減点を取りたい物好き以外は席についている頃だろう。たとえ、今宵のハロウィーンパーティに浮かれていたとしてもだ。斯く言うなまえも、図書館に篭もり没頭さえしていなければ今頃マルフォイと共に教科書を開いていたはずだった。小さく息を吐き、ピーブズが投げたのだろう糞爆弾の悪臭に包まれたロングボトムの半べそ顔を一瞥したなまえは、魔法史の教科書を胸に抱え直して歩みを進める。腹を抱えて転げ回るピーブズの引き攣り笑いと益々嗚咽を零すロングボトムの合唱に耳を塞ぎたくなったが、教科書が邪魔で叶いそうもない。今朝から漂っていた鼻腔を掠める甘い香りも糞爆弾のせいで台無しだと眉を顰めて足早に通り過ぎようとしたなまえを遮ったのは、べしゃりと後頭部から項にかけて掛かった冷たい温度と、鼻を突くような悪臭だった。

「わぉ、かわいい一年生がまだこんな所にいるなんて!いーけないんだいけないんだ!」
「ピーブズ、その透明な身体を通り抜けられたくなければ、さっさと退いてくれる?」
「おお、こわいこわい!そんな怖い顔をされたらうっかりおっかない先生方を呼んじまいそうだ!」

くるくると空中を舞っていたピーブズは、なまえの前に躍り出ると口元を弓なりに歪めたまま顔を寄せる。ああ、めんどくさいのに捕まった。そう露骨に表現したなまえを何が面白いのかゲラゲラと下品な笑い声を響かせて空を一回転、けれど無表情に吐いたなまえの言葉にその身は宙でピタリと静止することとなる。

「そうね、私たちを見た先生方が驚いてうっかり血塗ろ男爵を呼ばないことを祈ってるわ」

皮肉を混ぜて吐いた言葉はピーブズに覿面だったようだ。彼の苦手とする血塗ろ男爵の名を出したからか、はたまた生意気な一年生に揚げ足を取られたからか。どうでもいいとばかりに硬直した彼の滑稽な姿を一瞥したなまえは颯爽と脇を通り抜ける。一歩二歩、段上に掛けた足をくるりと反転してなまえは怪訝に小首を傾げた。「授業、行かないの?」彼等のやり取りを涙を拭うこともせず、ただ口をぽっかりと開き傍観していたロングボトムはそれが自分に向けられた言葉だと気づくのに数秒を要した。まさか、スリザリンカラーを身に付けた彼女がグリフィンドールである自分に中傷の類でも無い声をかけてくるなんて。あんぐりと口が開きっぱなしの間抜け面のままロングボトムが彼女に視線を向ければ、彼女は細い綺麗な髪を揺らして再度声を紡いだ。

「もう授業はじまってるけど」
「あ、うん、行くよ、行く」
「そう、じゃあはやく行きましょう」

後方でパチンッと弾ける音を後ろ耳になまえは歩みを再開する。急いでいるとは云い難いゆっくりとした足取りだった。なまえの一歩後ろを恐々と戸惑いながらもついていくロングボトムの一方、なまえは髪を左右に振りながら前だけを向いて釈然と歩く。魔法も施されていない平坦な廊下を躓いては遅れないようにと小走りに駆け寄る様子は、まるで親鳥に置いてかれないようにと必死についていく雛鳥のようだ。何処に向かっているのか、疑問を問いかける勇気もないままロングボトムはただただ口を結んで揺れる薄いクリーム色をぼんやりと見つめる。静閑とした廊下に不揃いなふたりの足音が響く度、そんなロングボトムの肩が僅かに萎縮するのをなまえは感じ取っていた。漸くなまえが声を紡いだのは、ロングボトムが躓いて三度目の時だった。「前を見て歩いた方がいいわ、危ないよ」表情は見えなくとも、それはロングボトムを案ずる優しい声色だった。あ、うん、ごめんね。短い会話ではあったが、一瞬にして気まずい空気が吹き飛ぶ一打だと、ロングボトムは強ばった肩を撫で下ろす。細い息を吐いてなまえと肩を並べたロングボトムは恐る恐る、けれど彼女の耳に届くようにはっきりと泳いでいた疑問を吐露していく。

「…あの、君は僕に呪いをかけたり笑ったりしないの?」
「どうして?」
「どうしてって…スリザリンはみんなグリフィンドールが嫌いだって…僕は、その、ドジだから呪いを掛けやすいし…なにをしても失敗ばかりだし、僕が勇敢なグリフィンドールに入れたのはまぐれだって…それに、あの、君はスリザリンだから…」

静まり返った廊下にゆったりとした口調で蟠りを吐き出すロングボトムの声がこだまする。どこか言い辛そうに口を噤んだロングボトムの顔を、漸く見たなまえは「じゃあ、貴方は私に呪いをかけられたり、笑われたりして欲しいの?」と悪戯な笑みを向けた。ぶんぶんと髪を乱して首を振るロングボトムのその必死な表情に、高貴な一族が集うスリザリンとは思えないほど声を上げて笑ったなまえは唖然と凝視するロングボトムに視線を合わせて再度零れるような笑みを浮かべる。

「ええ、私はスリザリンよ。そして貴方はグリフィンドール、それは紛れも無い事実だわ。でも、グリフィンドール生が全員勇敢で、スリザリン生が全員狡猾だなんて本当か分からないじゃない。それに、私たちはまだ魔法族の卵よ。できなくて当たり前、今、此処で学習してるんだもの」
「でも…僕、今までの授業でどれも成功したことなくて…スクイブなのかもしれない…」
「貴方宛に手紙が届いたんでしょう?だったら間違いなく貴方は魔法族だわ。魔法は…そうね、自信の問題じゃない?出来ない出来ないって思ってたらなにをしても上手くいかないもの」

そうか、そうなのかもしれない。優しく諭すような彼女の言葉は入学して数ヶ月、落ちこぼれと言われ続けてきたロングボトムの損なわれつつあった自信を徐々に奮起させる。「ねぇネビル、私たちはさっき魔法が使えるってわかったばかりなのよ。そうでしょう?」学年一秀才のハーマイオニー・グレンジャーの言葉は彼の胸に響くどころか同じマグルなのにと自分の不甲斐なさに益々沈むばかりだったのに。彼女がスリザリンだからか。それだけじゃないとロングボトムは思う。彼女はどうかは知らないが、マルフォイの虐めの対象とされているロングボトムは良く彼の後ろに佇むなまえの存在を知っていた。そんな彼女がグリフィンドールで尚且つ落ちこぼれのレッテルを貼られているロングボトムに同情を掛ける意味も、ましてや助けるメリットも無い。慰めや下心のことばではなくただ率直な意見として言っているのだと分かったからこそロングボトムの胸にすとんと落ちたのだ。変わった子だとロングボトムはその幼くも整った横顔を見やる。ロングボトムの中でスリザリンに対する偏見が僅かながらも溶解していた。「それにね、」足を止めたなまえに合わせてロングボトムも歩みを止める。ぐるりと周りを見渡したロングボトムは思わず目を見開いた。此処が、道に迷わずピーブズに合わなければロングボトムが間に合うはずだった変身術の教室の扉の前だったからだ。だらしなく口を開いたロングボトムの表情にくすりと小さく笑ったなまえはゴソゴソと自身のローブを漁って杖を取り出す。「スコージファイ」ロングボトムの頭部にこつんと杖を当てたなまえの唇から呪文が紡がれるや、みるみると糞爆弾で汚れたローブが清められていく。悪臭の無い、新品同様のローブに満足気に笑ったなまえは「それに、私も飛行術苦手だもの。内緒だよ?」形の良い唇に指を当てて方目をつぶったなまえの姿にロングボトムははじめて笑った。

「私、なまえ・みょうじ。貴方は?」
「僕はネビル・ロングボトム」
「ねぇネビル、私たちはスポンジよ。これからここで知識も魔力も友達も勇気もたくさん吸収していくの。そう思えば楽しいと思わない?」
「うん、そうだね。スリザリンになまえみたいな人がいるって分かったから、気が楽になったよ」
「んー…私、スリザリンに向いてないのかも」

そう言って、悪戯っぽく笑ったなまえと顔を見合わせて吹き出すように笑い合う。一頻り笑ったなまえはさて、と扉に向き合い軽くノックをするや手を掛けて勢いよく引いた。ガラリ、その音に反応した教室中の視線が一身に付き刺さる。萎縮したネビルを背になまえは変身術の教授であるマクゴナガルを視線で捉え、一気に座喚く室内の空気にも臆することなく颯爽と歩み寄った。その後ろにネビルが肩を縮めて続く。「Ms.みょうじ、これは一体どういう状況か説明してくれますか?」なまえ、ネビルと視線を配らせたマクゴナガルはなまえで視線を縫い付けて促すように眉を寄せる。射抜くようなその視線をしっかりと見返したなまえは予め用意していた「言い訳」を真実を交えて伝える。びくびくと狼狽えながらも聞いていたネビルはなまえの嘘に驚愕しながらも口を挟むことはしなかった。

「ピーブズに会い、糞爆弾を投げつけられていた私を見兼ねたネビルが助けてくれたんですが、追いかけてくるピーブズから逃げていたら途中で迷ってしまって遅れてしまいました」
「…まあ、そういう事でしたら今回はいいでしょう。後で私からピーブズには言っておきます。貴女は自分の教室に向かいなさい」
「ああ、先生。私はこのままで結構です。フリットウィック先生に清めてもらいますので」

杖を出したマクゴナガルを静止したなまえにマクゴナガルも頷いて杖腕を下ろす。会釈をして振り返ったなまえがネビルに向けて微笑んだ後、糞爆弾で汚れたコートを反して教室を後にするのををぼんやりと見送っていたネビルはマクゴナガルの「何をしているのですかMr.ロングボトム。早く席に付きなさい」一喝に慌てて空いていた席へと転がり込む様にして座った。その際、丁度扉から出ようとしていたなまえと目が合い、笑われた様な気がしてネビルは胸がほんわりと暖かくるのを感じる。座席に滑り込んできたネビルのその緩みきった表情やスリザリン生と共に教室に遅れてきた事実にシューマス・フィネガンが脇腹を小突くが、上の空なネビルが反応することは無かった。やっぱり彼女はスリザリンだとネビルは教科書の文字を追いながら思う。嘘を付き、お咎めや減点を免れるその狡猾さはどんな手段を使っても目的を遂げるというスリザリンの特徴にも準える。ただ、それが相手を陥れる為かそうでないかの違いだろう。彼女は自分の為に、悪臭を身に纏ったままグリフィンドール生だけの教室に立ち寄りマクゴナガルを言いくるめてくれたのだ。教室を闊歩するマクゴナガルの姿を目で捉えながらもネビルの思考はなまえの姿で埋められている。はじめて出来たスリザリンの友達にネビルは胸が擽ったくなるのだった。