が聞こえた気がした。優しい子守唄が。
 もちろんそれは空耳で、風が聴かせた幻聴に過ぎなかったのだろう。
「……オヤスミ」
 けれども、気が付けば自然とそんな言葉が口をついて出ていた。傍らにいたティキが、呟きに近い言葉を耳聡く拾い、怪訝そうな顔をする。
「なあに、眠たいの?」
「う〜ん……眠いわけではなかったんですけれど……言われると眠くなってきたような気も?」
「なんだよそれ」
 呆れたような溜息を零しつつ、ティキは吸いかけの煙草を足元に落とすと、火を靴底でもみ消した。踏みつぶされぐしゃぐしゃになった煙草のフィルターと散らばる葉を見ながら、何とはなしに勿体ないと彼女は思った。煙草はまだ長くて、吸い始めたばかりであったことは見れば誰でもわかることであったからだ。
「それ、」
「ん?」
「勿体ないですね」
「んー、そうかもな。でもまあ、まだあるし」
 言いながら、ティキは彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。手つきは乱暴なのに、力加減は気を遣っているのだろう、とても優しい。
「本当に眠たくなっちゃいますよ」
「眠っちゃえば? 家まで連れ帰ることくらいわけないし」
 家。
 その言葉に、ほんの微かに彼女は顔を曇らせる。
 あの家は暖かいし、皆優しい。お腹が空けばご飯が出てくるし、温かなお湯の張られたバスタブに浸かって疲れを癒すこともできる。怒られることもあるけれど夜更かしができて、好きな時に起きてきていい。誰かがおはようと言ってくれて、誰かがおやすみと返してくれる。温かい場所。守ってくれる場所。今だからこそ分かる、家という帰る場所の価値。
 この世界においては確かに、あの場所は彼女にとって家に違いはないのだろうけれど。
 ほんの少しばかり、かつての“家”のことを思い出して、彼女は寂しくなった。
 父がいて、母がいて、兄弟がいて。笑ったり、怒ったり、泣いたり。何かあれば抱きしめてもらえたり、抱き着きたいけれどいい年してって悩んだり。そんなささやかな日常や感情が彼女の脳裏を過って、すん、と彼女は小さく鼻を鳴らす。
「ほんと、どうしたの?」
「ティキ、」
「うん、なに?」
「ぎゅーってしてくださいよ」
 向き直って両腕を軽く広げ、求めるように手を差し伸べる。
 ティキは目を瞬かせた後、そっと彼女のことを抱きしめてくれた。
「どうしたの」
「さみしくなりました」
「えー、俺がそばにいるのに?」
「誰がそばにいたって寂しくなることはありますよ」
「ふうん、そういうもん?」
「そういうもんです」
「じゃ、家に帰ろうか」
「え、」
 ひょい、と抱きしめた格好のまま、ティキは軽々と彼女を抱き上げる。突然のことに、彼女は困惑した。今の話の流れから、どうしてそうなったのか。
「誰がそばにいても寂しいときはさ、寂しくなくなるまでたくさんの人と、親しいやつと一緒にいるのが一番いいと思ったんだよ」
 へらへらと笑いながら、ティキはゆったりとした足取りで家まで歩き出す。
 ティキの言わんとしていること理解した彼女は、そのままティキに体をゆだねるように力を抜いて、ティキの肩に頭を預けた。
「さっき、」
「うん」
「子守唄が聞こえたんです」
「子守唄?」
「うん」
「そう。それで?」
「それだけです」
「そっか」
 家という言葉で寂しくなったとは、言わなかった。
 ティキも、それ以上は追及しなかった。
 遠くからはまだ、子守唄が聴こえてくる気がした。
 耳を傾けながら、彼女はその歌声に、もうかけらも思い出せない母の子守唄の面影を探した。
 なんとなくだが、誰かも分からない歌い手が、とてもやさしい笑みを浮かべているように思えて、自然と彼女の口元も緩むのだった。

18.11.25

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