唇に見る愛欲



 ぽたりと、顎を伝った雫が液晶に落ちた。

「あっつい」

 猛暑日の、気温がぐんと上がり涼しい空気が恋しくなるこんな日に、エアコンを使っていない室内はまるで地獄のようだった。
 なぜ使っていないのかなんて、質問に答えるのは簡単で。まぁ、つまり、壊れたのである。
 昨日はなんの問題も無く動いていたエアコンは、今日リモコンのスイッチを押しても動くことはなかった。何度か試みたものの、事態は変わらなかったのだ。
 幸い俺は角部屋であり、そのため2つある窓を両方ともフルオープンにして風を通しているおかげで、部屋に籠るはずの熱は外へと流され消えている。しかし、それでも、普段はエアコンで室温の管理をしている身としては、風通りの良さだけでは足りないのだ。文明の利器に頼り過ぎた結果の問題に、こんなところで出くわすとは。
 それでも締切は待ってはくれない。仕事はせねばならない。ただでさえ室内の暑さに辟易としつつ苦しむ中、手の下に置かれた熱を発する機械と向き合うしかないのだ。
 先ほど拭いたばかりの液晶画面に、再びぽたりと汗が落ちた。その時、チャイムの音が部屋に鳴り響き、俺はペンを動かす手を止める。
 あぁ、そういえば。名前ちゃんが来るんだったっけ。
 頭の片隅で、数時間前に貰ったメールのことを思う。
 なにかお手伝いは必要ですか?
 そんな内容のメールに、俺は1も2も無く頷いたのだった。


***


「差し入れにアイスを買ってきたんですけど食べますか?」

 夕飯を作ってくれるため買って来てもらった食材を冷蔵庫に詰め終わったらしい名前ちゃんは、アイスの入ったマルチパックの箱を手にしていた。パッケージにはアイスカフェ・オ・レの文字。写真を見るに、どうやら生クリームとかき氷を中に仕込み、ラクトアイスでコーティングしたもののようだ。

「うん、食べる」

 このタイミングで休憩もいいだろう。俺が頷くと、名前ちゃんは開けた箱の中からアイスを1本取り出す。笑顔で差し出されたそれを、お礼を言って受け取った。
 包装しているビニール袋から取り出したアイスを口に含むと、ミルクの甘みと、コーヒーの仄かな苦みが感じられた。暑さでうだる身体に、ひんやりとしたアイスの冷たさは心地よかった。

「今日は特に暑いのにエアコンが壊れるなんて災難ですね」

 余ったアイスを冷凍庫に入れ、戻って来た名前ちゃんの手にも俺が手にしているものと同じアイスがある。

「それも締切前のこの時に壊れるんだもん。勘弁してほしいよねぇ」

 まだ修羅場になるほどじゃないとは言えさぁ。
 ぶつくさ言いながら、再びアイスを口に含んで歯を立てた。シャリッとした外の感触と中に収まっていた滑らかなクリームの感触が混ざる。もうひと口噛み進めるとクリームは無くなり、今度はガリガリと細かい氷の感触があった。
 彼女はその答えに苦笑いを浮かべながら、接着されたビニールをぺりりと剥いだ。そして取り出したアイスをぺろりとひと舐め。続いてまたぺろりと、ひんやり冷たいカフェオレ味のアイスを、名前ちゃんの舌が這う。

「ん、このアイス美味しいですね」
「う、ん」

 名前ちゃんの声に、返す言葉がついつかえた。けれども名前ちゃんは俺の声音にも、横目で彼女を捉えている俺自身にも気づいていないようで、俺のことは気にもせずにアイスの先端に軽く歯を立てる。
 上部のコーティング層が、歯を立てた部分だけ剥がれ、中に納まっている白いクリームが顔を覗かせた。
 彼女はまたしてもぺろりと、顔を覗かせたクリームに舌を這わせる。そして今度は先端を少し、口に納めた。ちゅう、と吸うような小さな音がたつ。それからちゅっと軽く音をたて唇は離された。
 ただアイスを食べているだけであるはずのその光景が、とても淫猥なもののように感じられた。心がぞくりと震える。
 俺はガリッと大きく音をたて、口に放った最後のひと口を噛み砕く。冷たいそれをごくりと嚥下し、勢いのまま彼女の腕を引っ張った。そのまま、ひやりと冷たい唇に噛みついた。

「んっむ、」

 驚きに見開かれる瞳と、くぐもった声に、ずしりとなにかが身体の内にこもって口の端が吊り上がる。
 唇を割り開き、その中に舌を押しこむとビクンと名前ちゃんの身体が跳ねた。逃げる舌を無理やり絡めて互いの冷えた舌を、冷たさをさらに共有するかの如くすり合わせる。
 暑い室内と、その暑さを感じていた体。しかしそれは、身体の内側に籠りだした熱のせいか、今はもう感じなかった。
 絡める舌から感じる冷たさは薄れ、どんどん温度を上げていく。それが、熱く燻る体温に合わせようとしているかのように感じられて、笑みが漏れた。
 ふいに、名前ちゃんの腕を掴む俺の手に、流れる液体が触れた。未だにしっかりと彼女の手の中にあったアイスが、溶けて伝い落ちたのであろう。
 その存在を思い出し、絡む舌を解いて唇を離すと、とろんとこちらを見つめる瞳とかち合う。
 溶けたアイスに名前ちゃんは気づいていないようだ。甘いキスひとつで他のことが見えなくなるほどとろける恋人が可愛かった。
 アイスを彼女に持たせたそのまま、溶け残っているそれを自分の口に入れる。次いで、再び名前ちゃんの唇に自らの唇を重ねた。冷たい己の舌と、熱を持った名前ちゃんの舌が重なって、互いの温度を分け合うように絡まる。
 口腔に残るアイスの甘みと苦みと共に、思考までもが混ざり合っていく。
 あぁ、どうせ余裕があった原稿だ。最終的には修羅場で取り戻せるだろう。

「既にもう暑いなら、もっと熱くなってみたっていいかなって、思うよね」

 にやりと笑みをひとつ落とし、彼女を床に押し倒した。



くろうさぎ