溶けない甘さと



 雪村さんの部屋で、キッチンに立ってお湯を沸かす。
 銀色に光る袋を開封すると、濃厚なチョコレートの香りがふわりと漂い鼻腔を擽った。


***


 それはバレンタインの数日前。鼎が蛍に渡すというバレンタインのチョコレート探しに付き合った日のこと。
 普段買い物によく来ているショッピングモールのイベントスペースは、普段は見ることの出来ないこの時期ならではの装いをしていた。ピンクや赤を基調とし、St.Valentine's Dayと記された横断幕や、ピンクや赤い色をしたハート型の飾りが彩るそこに集められてるのものは言わずもがな。バレンタインの定番であるチョコレートだ。
 とりあえず鼎と並んでぐるりと様々なチョコレートが詰まれた中を見て回る。綺麗な箱に入っているちょっと高そうなチョコレートやポップキャンディーのように棒が付いているチョコレート。はたまた珍しい外国製のチョコレートなんてものもあり、見てるだけでも楽しかった。本当にいろいろな種類のチョコレートがあって悩みながらも、鼎はなんとか予算と折り合いをつけて欲しいものを選んだようだ。
 じゃあ会計してくるわね。鼎のその言葉に頷いて、私はその待ち時間にもう一度バレンタインコーナーを回る。
 するとコーナーの一角で、さっきは気づかなかったものがふと目に留まった。
 パッケージには『チョコの紅茶』と文字が記されている。
 それをじっと見ている間に、会計を終わらせた鼎が近づいていたようだった。隣に並んだ彼女は、私の視線が向っているものを覗き込み声を上げた。

「あら、これ友達に貰ったことあるやつだわ。チョコレートのフレーバーティーなんだけどね、ティーバッグの中にハートの形をしたシュガーが入ってて可愛いの! 贈り物にいいと思うわよ」
「ふぅん、ちょっと気になるなぁ」
「名前は告白なんて出来ないけど、だからと言って義理としては渡したくないって変な意地張ってチョコ渡さないんでしょ? ならこれなんてどう? チョコじゃないしさらっと渡せるんじゃないかしら」
「そう、かなぁ……」
「そうよ! ハートだし、なおさら好きな人にはいいじゃない!」

 興奮したように鼎は「好きな人がいるのにバレンタインに参加しないなんてもったいないわよ!」と続ける。
 高々と声を上げる彼女に強く推されて、結局私はその紅茶を買ってしまったのだった。


***


 開けた銀色の袋の中にはテトラ型のティーバッグがいくつも収まっている。そのひとつを掬い上げ、ティーバッグに詰められた中身を見てみると、ハートを模った白とピンクのシュガーが数個、茶葉に交ざり見え隠れしていた。
 なるほど。これは確かに可愛いらしい。鼎の言うとおり贈り物にぴったりかもしれない。

「へぇ、可愛いもんだね」

 紅茶を入れるからとキッチンへ向かった私に「手伝うよ」と後を付いて来た雪村さんは、銀色の袋からもうひとつそれを取り出し、中に見えるハートをまじまじと眺めているようだった。

「お湯を入れても溶けないシュガーなんだそうです。友達に勧められて買ったので、私も今初めて見たんですけど……確かにこれは勧めたくなりますね」

 勧められた時の鼎の様子を思いだして、微かに苦笑を浮かべそうになったが慌てて止める。浮かべそうになった苦笑を隠すように薄く笑みを作り、彼に語る。
 やはり好意を伝えることを尻込みしてしまった私は、贈り物の体で渡すことは出来なかった。好きな人にいいんじゃないか、と言われたことは伝えず胸に秘める。ただ単純に勧められたということにしてバレンタインの存在を隠すのだ。
 いつか、伝えられたらいいなぁなんて。
 意気地なしだな、と心の中で溜め息を吐く。
 自らの手にあるティーバッグをマグカップに入れて、雪村さんにも空のマグカップを差し出した。彼もその中に手にしていたティーバッグを落とすと、ヤカンがちょうどよくしゅんしゅんと湯気をたてる。お湯が沸騰したという合図を受けて、すぐにコンロの火を止めた。沸騰直後の熱湯を手早くマグカップに注ぐと、チョコレートの香りを含んだ湯気がもわりと上がる。上品な甘さが淡く振り撒かれて、空中を舞った。


 こたつに移動して浸出時間を待ち、透き通る綺麗なブラウンに染まったお湯から静かにティーバッグを引き上げる。お湯に濡れて湯気がたつティーバッグの中にはハートが見えた。入れる前よりは少し小さくなっただろうか? それでもシュガーはしっかりとハートの形を残していて、感動を覚える。

「わ、本当にハートが残ってる! すごいですね。かわいいなぁ」
「だね〜」

 銀色の袋からティーバッグを取り出した時と同様に、雪村さんはまじまじとシュガーを眺めながら同意の言葉を漏らす。
 やっと眺めるのを止めた彼が、ティーバッグを置く為に用意した小皿にそれを乗せると、先に取り出していた私のものとふたつが並んだ。
 彼が口をつけたのをちろりと視認し、自分もマグカップに唇を近づける。澄んだブラウンにふうふうと息を吹きかけてから、熱い紅茶を少し口に含むとチョコレートの甘い香りがふわりと鼻に抜けた。

「甘くないんだね」

 ひとくち飲んだ雪村さんが、マグカップを両手で包みながら、微かに首を傾げて言う。
 匂いは甘いのに。そして再び言葉を連ねた。彼は不思議なものを見るような視線をマグカップの中の液体に注いでいる。
 そういえば雪村さんは甘いものが好きだったはずだ。マグカップに向けている表情も、甘いものが好きなところもなんだか可愛く感じて微笑ましいと思った。

「フレーバーティーはだいたいそんなものですよ。あ、もしかして、苦手、でしたか……?」

 雪村さんは普段フレーバーティー等は飲まないのかもしれない。苦手な可能性もあるということにまで気が回らなかったことに気付いて思わず焦ってしまう。
 眉をハの字にして不安げな表情で問い、見つめると、彼はふるりと首を横に振る。その動きによって空気が揺れて、チョコレートの甘やかな香りがさらにふわりと広がった。

「ううん、不思議な感覚だなって思っただけで嫌いじゃないよ」

 緩慢な動作で再び紅茶を口につけた彼の喉がゆっくりと上下する。
 その動きをつい見つめていた自分に気付いて、ぱっと頬を染めた。妙に落ち着かず慌てて紡ぐ言葉を探す。

「あっお砂糖持ってきましょうか?」
「んー、うん。じゃあ入れようかな」

 湯気が立ち上る手元を覗きながら彼は言う。
 応との答えに立ち上がろうとするが、「ああ、でも」と、聞こえた言葉に動きを止めた。
 次の言葉を待って雪村さんを見つめると、彼は手にしていたマグカップを机に置いていた。頬杖をついて口元に笑みを見せている。こちらに向ける眼差しはどこか意味深長だった。

「甘いものなら、チョコが欲しいな? なんてね」

 その言葉の、意味は。
 訊くことなんて出来なかった。しかし、彼の心を覗く術も私は持っていなかった。



くろうさぎ