唐突などしゃ降りに出会ってしまった時、ちょうど近くにある蛍の住むアパートに身を寄せよう、と判断したのは10分程前のことだった。
近いとは言え、バケツをひっくり返したような雨の中、走って少しの距離でも完璧な濡れ鼠と化した私は連絡も無く早々に蛍の部屋のインターホンを押した。が、応答は無い。
もしや留守だろうか? とスマホで連絡を取ってみれば案の定、蛍は家を空けているようだ。どうやら鼎の家にお邪魔しているらしい。
なるほど、確かに(半ば無理やりに)鼎が遊ぶ約束を取りつけていたっけ。今日だったのか。
合点の行った私は軽く息を吐くと、通路の柵に背中から寄り掛かった。
雨は依然本降りだ。少しここで雨宿りでもさせてもらおう。
夏とはいえ、服ごとびっしょりと濡れてしまえば体感温度は下がるもので、寒さで少し震える体はこの際見ないふりをすることにした。だってどうしようもない。
そう決意した私がそのままズルズルと座り込んだ時だった。
カンカンと、階段を上る軽い音が雨の音に紛れて私の耳に届く。
わ、誰か来ちゃった!?
思わず立ち上がった私は階段の方に視線を向けると、そこにはコンビニのビニール袋を抱え傘を手にした雪村さんの姿があった。
「あれ? 名前ちゃん?」
「あ、えっと、こんにちは」
微かに驚いた表情を浮かべる雪村さんに、私ははみかみ苦笑いを送る。
ま、まさかこんな時に想い人に出くわすなんて! なんてタイミングの悪い!
「どうしたの? びしょ濡れじゃん」
「近くを歩いてる時に降られまして……。蛍に助けを求めに来たのですが友達の家に行ってるようで」
「あぁなるほど。それでここで雨宿り?」
「はい。お邪魔なようですみません……」
ぺこっと軽くお辞儀をすると、雪村さんはそんな私を見ながら、ふぅーんと声を漏らした。
頭を上げ雪村さんの様子を見ると、長めの袖をいつものように口元に宛がう彼は何かを考えているようだ。
思わず首を傾げた私に、直後投げかけられた言葉は驚きのものだった。
「俺の部屋でもいい?」
「……はい?」
かくして私は、雪村さんのお部屋にお邪魔することになったのである。
***
「タオルと着替え置いとくから」
「あ、ありがとうございます!」
勿論初めは断った。しかし、小さく震えながら「寒くないので大丈夫です」なんて言葉、誰に信じてもらえようか。
その言葉を聞いた瞬間、眉間に皺を寄せた雪村さんに腕を引かれ204号室の扉を潜らされてしまったわけで。
あげくお風呂場の扉も潜らされ、温まったら出てきてね、なんて言葉と共に扉を閉められてしまえば私は逃げられず。言われるがままにお湯の張られた湯船に身を沈めているという状況だ。
うぅ、なんて、なんて状況だ!
どうせ濡れてしまっていたのだから雨なんて気にせず、蛍がいないとわかった時点で帰っていればよかった。しかしながら、思いがけず想い人の部屋に入れてしまったときめきも隠せないもので。
乙女心は複雑なものである。
「うぅ……出よ……」
これ以上はのぼせそうだった。
こんな、こんなことってあるだろうか。
雪村さんが用意してくれた着替えは、Tシャツ一枚だった。
な、なにを言っているのか……! いや! そんなこと言っている場合でもない!
着替えを用意してくれるだけでもありがたいのはわかる。とてもわかる。が、いくらなんでもこれは恥ずかし過ぎでは!?
ゆ、雪村さん……これはどんな試練なんですか……?
とは脳内で騒いでみても元々私が着ていた濡れに濡れた衣服を着直すわけにも行かず、私はすごすごとTシャツに袖を通す。
長さはそこそこ足りたようで、裾は太ももあたりまで来てくれた為一安心。それでも心許なさはとてもあるのだが。
雪村さんの部屋へと続く扉のドアノブに手を掛け、一呼吸。
意を決して扉を開いた私の目の前に広がる光景は山積みされたエロ本だった。
あられもない姿の女性が表紙に描かれた本やゲームソフトが床を埋めんとするかの勢いで乱雑に積み上げられている。
う、うわああ! 蛍から聞いてはいたがこれはショッキングな光景!
「あ、おかえり。よく温まった?」
「えっと、はい! お風呂ありがとうございました」
掛けられた声の方へ顔を向けると、この時期にも関わらずなぜかしっかりと布団の掛かった炬燵、その横に置かれたフロアソファの上に雪村さんは座っていた。
私の意識が目の前の光景から雪村さんに向いたことを確認すると雪村さんは手が隠れるまで長いカーディガンの袖を揺らし、おいでおいでと、どうやら私を呼んでいるらしい仕草を見せる。
う、くそう。私の想い人がこんなにかわいい。
積み上げられた本やゲームソフトに当たらないように気を付けながら、呼ばれるがままに雪村さんに近づいた私はそこで彼の手にドライヤーが握られていることに気付いた。
「あ! ドライヤーありがたいです。貸してくれるんですか?」
「んー、どうせなら乾かしてあげようと思って。ここおいで」
「え? そんな! 自分でやりますよ?」
「いいから、おいで」
これ以上の反論は許さないとでも言いたげに、雪村さんは自分の前に空いている空間をぽんぽんと叩く。
うーん、何故かやる気になってくれている雪村さんに対してあまり遠慮を続けてもよくないだろうか……。
「じゃあ、よろしくお願いしますね」
先ほど示された空間にちょこんと座ると、カチッとドライヤーのスイッチを入れた音に続き、ぶわぁ〜と熱を持った人工的な風が髪を揺らした。
雪村さんの細身で、けれどしっかりとした指が、熱風と共に髪を滑っていく。
ただ乾かしてくれているだけなのにそれはまるで優しく撫でられているような感覚に陥っていくようで……。
こ、これ思っていたより恥ずかしいかもしれない……!
私は羞恥に耐えながら、少し俯き、目をぎゅっと瞑ってひたすら時間が過ぎるのを待つしかなかった。
「はい、おしまい」
「あ、りがとう、ございます……」
「なんか疲れてる?」
「いえ! そんなことは!」
お礼を発した声に覇気がなかったからか、心配したような雪村さんに横から顔を覗き込まれて私はパッと顔を上げた。
「ありがとうございました。えっと、つい、きもちよくて」
上半身を捻り後ろにいる雪村さんの方を向けば眉を下げた彼と顔が合った。
髪を撫でる雪村さんの指が気持ちが良かったのも間違っていない。ただ、気持ち良さに身を委ねる前に気づいてしまった羞恥の方が大きかっただけで。
恥らいつつ笑みを送ると雪村さんは安心したように表情を緩ませて笑みを返してくれた。
「そういえば服問題なかったみたいだね」
「えっあっそうです服です! し、下は無かったんですか!?」
先ほど捻った上半身をそのままに、詰め寄る勢いで今度は体全体をぐるっと回し雪村さんと向かい合う。
その動きでズレたTシャツに気付き、私は慌てて裾を抑えた。
羞恥で赤く頬を染め、キッと雪村さんを睨むと彼は口元を緩め嬉しそうに笑っていた。
「いやぁ、シャツ1枚って男の夢だし? 漫画の参考にもなるかなって」
「やっぱり狙ってそれしか用意してくれなかったんですね!? 漫画の参考って、普通のじゃないじゃないですか! え、えろ漫画の参考に使われる私の身にもなってください……!」
「あ、エロ漫画を言い淀むそれクるね」
「や! やめてください!」
あまりの恥辱にこれ以上耐えられなくなった私は雪村さんの口を塞ぎに掛かろうと体を浮かせ雪村さんへと両手を伸ばしたが、伸ばしたそれは雪村さんの両手に軽く掴まれ止められてしまった。
私は予想外に繋がってしまった手を離そうと力を抜き、引いてみたが右手はすんなり放れたにも関わらず左手はそのまま変わらない。それどころか雪村さんの手は放すまいとむしろ力を入れてきたようだった。
掴まれた手が、熱い。
「ゆ、雪村、さん……?」
「……ねぇ」
「はい……?」
雪村さんの黒曜の瞳が真っ直ぐに私を見つめてくる。私はまるで催眠術にでもかけられたかのようにその目を逸らすことができなかった。
私の手を掴んでる雪村さんの手が、指が、ゆるゆると、私の指に絡められる。
身体がビクッと、小さく跳ねた。
絡んだ指をそのままにゆっくりと左手を引かれ、人差し指に触れた雪村さんの唇の感触に思わず息を呑む。
心臓はもうバクバクとうるさいくらいで、耳の奥でドクドクと脈を打つ鼓動が聞こえるほどだ。
「その恰好、俺以外に見せないでね」
雨は依然、止みそうもなかった。