良薬××に苦し



 浮上した意識のままに目を覚ますと、眠りに就くその瞬間まで隣にいたはずの彼の姿が消えていた。気だるい身体を腕で支えて起こしながら、きょろきょろと辺りを見渡すが、室内に雪村さんの姿は見当たらない。
「雪村、さん……?」
 掠れた声で名前を呼んでみても当たり前に反応も無い。しんと静まっている部屋の中、心細さが胸の奥にじわじわと広がっていく。お風呂かトイレだろうかと、思考を巡らせていた時だった。ふと、ベランダへと続く窓に掛かっているカーテンが、全部は閉まっていないことに気付いたのだ。少し開いた隙間からは、暗い外の色が微かに覗いている。その先に、雪村さんの後ろ姿が見えた。探していた姿に考える間もなく私は動く。彼の元に寄ろうと身体から布団を落としたが、一糸まとわぬ自らに気付いてピタリと動きを止めた。着てた私の服はどこだろう? 周辺をぐるりと一目して自分の衣服を探すが、それよりも先に投げ捨てたかのように放られていた雪村さんの黒いカーディガンが目に付いた。そうっと手を伸ばして触れ、静かに持ち上げる。胸元に寄せるとふわっと雪村さんの匂いが香ってそわそわと胸が色めいた。拝借してもいいだろうか……。逡巡の末に、ゆっくりと袖に腕を通した。
 ぺたぺたと裸の足でフローリングの床を歩いて窓へと近づく。カーテンを静かに引くとレールを滑る音が微かに鳴った。静寂の漂う夜だからだろうか。遮断された外にいるにも関わらず、その小さな音でも雪村さんは緩慢な動作でこちらに振り返った。カーテンに続けて私はガラスの窓に手を掛ける。カララと軽い音をたてながらガラス窓を滑らせていくと、室内に吹き込む微弱な風が煙草の薫りを運んで来た。
「起きたんだ」
「はい。起きたらいなくて……探しちゃいました」
 指で煙草を掴んだまま、雪村さんは私に向かって微笑む。苦笑いを浮かべて応えると、彼も同じような表情に変わった。
「ごめんね。ちょっと煙草吸いたくなって」
 手にする煙草の残りはまだ長く。先ほど点けたばかりなのだろう。まだ先の長い煙草を携帯灰皿に近づけた雪村さんに、声を掛けて制止を促した。
「私は気にしませんから、吸っててください」
「そう? じゃあお言葉に甘えて〜」
 そう言うと雪村さんはベランダの柵に背中から凭れ掛かり煙草を口に運んだ。ゆっくりと息を吸い込むと、灰と交ざっている先端の火がより赤々と輝きだす。暗い闇と火のコントラストが妙に映えていて、とても綺麗だと感じた。私はそっと窓に寄り掛かって、煌めく赤から揺蕩いながらも昇る紫煙が、ふわりと夜の空気に溶けていくのをぼんやりと眺めていた。ほう、と、雪村さんは一度肺に取り込んだ煙を吐く。
「じっと見てるけどもしかして興味でもある?」
 吸ってる俺が言うのもなんだけど、お勧めはしないよ。と、続ける彼に、ぶんぶんと両手を横に振りながら慌てて否定の言葉を投げた。
「いいえ! ただ、大人だなぁなんて、思ってました」
 私は高校生で、彼は社会人だ。歳の差だってずっとあることもわかっていた。当たり前のことを何を今さら考えているんだろう。自らの発言に苦笑が漏れた。
「えっと、二十歳過ぎても吸う気は無いんですけど、……その味を知れる歳にも行ってない私はまだまだ子供だなぁ、って」
 目の前の彼は再び煙草を唇に挟み、煙を吸い込んでいる。毒を吸い込むその姿は、やはり大人にしか見えなかった。今の関係が嫌だなんてことは無い。それでも、対等な関係に憧れる自分もいる。煙草を口に含みながら私の話を静かに聴いていた雪村さんは、ふー、と細く長く煙を吐いた。肺から煙を吐き出す彼は、どこか楽しそうだ。
「でも俺は君を子供扱いしてないし、子供扱いなんて出来ないって思ってるよ。そもそもしてたら今、肌の上に直接俺のカーディガンだけ羽織るなんて、そんな状況が出来上がるようなことしてないし」
 言いながら雪村さんは携帯灰皿に煙草を放り込み、蓋を閉じるとこちらに向き直った。暗にほんの少し前の、熱い触れ合いのことを指していることに気付いて頬に熱が集まる。この恰好も今思ってみれば随分大胆なことをしていたものだ。急に恥ずかしくなって、広く開いている胸元を閉じるようにぎゅっと掴んだ。
「それに……」
 ベランダに下りていた雪村さんが室内に上がる。近くに寄ってきた彼を見上げて首を傾げながら、言葉の続きを促した。
「それに?」
 途端、胸の中に閉じ込められた。腰にはするりと腕が回される。逆の手が頤に添えられ、親指が唇を撫でた。指先に染みた煙草の薫りが仄かに鼻腔に届き、心が震えて鼓動が高鳴る。ゆっくりと瞼を下ろして、来るであろう行為を甘んじて受け入れた。唇が触れ、舌が絡む。吐息が交わって、唾液が混ざる。苦みが貼りついている舌が口腔を荒らしながら、絡まる私の舌を痺れさせて、息を乱していく。息も絶え絶えになった頃、わざとちゅっと可愛く音をたて触れ合っていた唇が離れていった。
「煙草の味は今でも知れるよ」
 不敵に笑んだ彼の顔に胸が鳴った。



くろうさぎ