約束の時間5分前。月城荘204号室の扉の前で立ち止まり深く呼吸をしてからチャイムを鳴らすと、たいして待つこともなくその扉は開けられる。
「名前ちゃんいらっしゃい」
「雪村さんこんにちは! お邪魔します」
笑顔で軽く挨拶を交わしてから、雪村さんによって支えられているドアの横を通り抜けた。
本日雪村さんのお家にお邪魔することになったのは、雪村さんが甘いものが好きだということで先日手作りのお菓子を差し入れたことがきっかけだった。
よく作るの? と訊かれ、それなりに、と答えた私に雪村さんは言ったのだ。「よかったら俺の家で作ってくれない?」と。
お菓子作りに興味でもあるのだろうか? と思い訊いてみれば、ただ名前ちゃんが俺の家でお菓子を作ってるところが見てみたいのだという回答で、思いもよらない回答内容になんだかくすぐったくなり赤面してしまったものだ。
「少し休憩する?」
「いえ! 気合い入れてるうちにやりたいので」
「ん、了解」
会話を交わしながら廊下を進む。
リビングへ入ると、リビングと一体化しておりその左側に位置しているキッチンへと入っていく雪村さんに続いた。
雪村さんは一通り必要な物の場所やオーブンレンジの使い方を教えてくれると、楽しみにしてるねとの言葉を残してからキッチンを抜け、仕事机の前に置いてあるワークチェアへと腰を下ろす。
その様子を見届けてから、私はさて、と気合いを入れ直し作業に取り掛かることにした。
事前に購入してきた材料や、雪村さんの家には無いと言われた為持ってきた器具をバッグから取り出し調理台に並べていく。
材料は卵に薄力粉、アールグレイのティーバッグ。それとトッピング用に用意した生クリームだ。
砂糖とサラダ油は雪村さんに家にあると言われたのでそれを拝借する。
紅茶のシフォンケーキ。それが本日作ろうとしているお菓子だ。
たまに雪村さんが覗きに来て、している作業に対する質問を投げかけてきたりされることはあったが、特に邪魔されることもなく滞りなく生地は完成した。
あとは型に流して、それをオーブンに入れる作業だ。
シフォンケーキ用に作られているため中央に穴が開いており紙で出来ている型に、ゆっくりと生地を流し込みボウルに残った生地もゴムベラを使い全てを注いでいく。
気泡を抜くためにトントンと型を軽く台に打ちつけたら、残りは焼くだけ。
角皿に乗せ、事前に予熱の設定をしておいたオーブンに入れたらシフォンケーキの仕事は完了だ。
「終わったの?」
「いえ、まだ生クリーム泡立てなきゃで。それが出来たら一息つけるかなぁと思ってます」
オーブンレンジを閉めた音に反応したのか、雪村さんがキッチンへと顔を出す。
にこやかに答えると雪村さんは「じゃあここで待ってようかな」と横の壁に凭れ掛かった。
凭れ掛かったままこちらに目をやる雪村さんに、はにかみ笑いを向けてから手元の作業に戻る。
生地の入っていたボウルを綺麗に洗ってから、その中に生クリームを注ぐ。それから砂糖を目分量で投入すると、ホイッパーで空気を含ませるようにして混ぜながら泡立てていく。
ほんの少しとろみを帯びてきた頃に砂糖の濃さの確認をしなければと小指で生クリームをすくってみたが、ちょうど横にお菓子作りをご所望したその人がいることを思い出した私は彼の方へ顔を向けると、当の本人は静かに首を傾げた。
「なに?」
「ちょっと砂糖の濃さをみてもらえますか?」
ついっと小指に生クリームをつけた右手を差し出してから、自分の恥ずかしい行為にすぐに気づく。
これは駄目なやつだ!
「すみません! 今スプーンで……ッ!?」
瞬時に手を引っ込めた私は改めてスプーンで生クリームをすくって渡そうと思ったものの、グッと近づいてきた雪村さんに引っ込めたはずの右手を掴まれてしまった。
そのまま、パクリと生クリームごと私の指が雪村さんの口に咥えられる。
「ひっ、ゆ、雪村さっ……!」
「んー」
雪村さんの咥内に収まる私の小指に、ぬるりと熱い舌が這った。
「んっ、もぅ離してくださ……!」
羞恥に染まった赤い顔で必死に抗議するが、雪村さんが私の手を解放してくれそうな気配は無かった。
指先から伝わる熱く柔らかい舌の感触に、微かに熱を持ち出した身体が震えだす。
思わず後退り、自由になっている左手で体を支えたいと作業台に手を着こうとした瞬間、指先が何かを巻き込んでしまったようでガタンッと激しい音が響く。続いて、台に置かれた左手には冷たくとろりとした物の感触が広がった。
カラカラと、床の上を転がるホイッパーが目に入った。
や、やってしまった……。
現状を理解した途端、先ほどまで熱くとろけだしていた脳内は急激に冷めていく。赤く染まっていた顔も今や青だ。
突然の大きな音に雪村さんも驚いたようで、私の手を掴んだ状態はそのままに、指は口から離されていた。
「す、すみません! やっちゃいました! ああもう! ごめんなさい……!」
「あ〜派手にやったね」
「すみません……」
掴まれていた右手がすっと離された。かと思うと今度はべったりと生クリームを被ってしまった私の左手の腕を掴み、雪村さんの方へとぐいっと近づけられる。
なんとなくだが、嫌な予感がする。
戸惑う私を見つめ、雪村さんは笑みを浮かべる。それはそれは、色香を含んだ笑みだった。
「名前ちゃんと甘いもの、美味しそうだよね」
「あ、あの……!」
「それにこれ、綺麗にしなきゃだもんね」
「い、いいです! 水で流しまっ! ッ!」
べろりと、さっきまでは私の指に絡んでいた雪村さんの舌が、今度は私の手の甲を舐めそのままつつーっと指を通ってさらに指先へと下がっていく。
ぞわぞわする感覚に思わずつい先ほどまでのとろけた脳を引っ張り出され甘い思考に支配されそうになるが、流されまいと必死にキッチンの惨状に頭を向けた。
私はこぼしてしまった生クリームを綺麗に拭かないといけないのだ!
「ゆ、雪村さんっわたし、かたづけが……やっ」
生クリームと共に私の手を優しく舐めていた舌が止まったかと思うと、突然カリッと爪先を甘噛みされて思わず声が漏れた。
「俺の家だし気にしないで。あとでいいよ」
「やっ、でも、ッ」
「そんなことよりさ、甘く誘って火を点けたのは名前なんだから俺のこと構ってよ」
ぐいっと左腕を強く引かれ、雪村さんと私の身体が距離を無くす。そのまま雪村さんの左腕が私の腰に回されてしっかりと固定された。
反抗しようと顔を上げるとぐっと近づいてきた雪村さんの顔に、思わずぎゅっと目を瞑ると、唇に柔らかなものが触れすぐに離れていった。
「ね? いいでしょ?」
再び触れた唇は今度はすぐには離れない。
雪村さんの唇の隙間から少し覗かせた舌が私の唇を這う。
甘く続く口づけに、私はもう溶かされていくしかなく……ゆっくりと、身体を雪村さんに預けたのだった。