へるぷ ゆー!



 インターホンが鳴る音が耳に届きハッとした。意識が浮上したかのような感覚だった。
 どれほど仕事に集中してたのだろうか。
 カーテンを閉め切った部屋に、外の明かりは届かない。時計を見ると時刻は17時を過ぎたあたりだった。
 そこまで思考が及んでから再びハッとする。
 そうだ、インターホンが鳴ったのだった。そういえばまっつんが今日来てくれる予定だったはずだ。まっつんかなぁ。
 長時間座っていた為、固まった身体をぐっと伸ばしてから椅子を降りた。
 ぺたぺたと足音を鳴らし、玄関へと足を進める。
 慣れた動作で玄関のドアを開けると、そこに居たのは思っていた人物ではなかった。

「名前ちゃん……」
「こんにちは」
「なんで君が?」

 予想だにしていなかった人物に驚き、目を瞠る。
 微笑みかける名前ちゃんは少し困ったように眉尻を下げていた。

「蛍が松岡さんに頼まれてたみたいなんですけど、急に生徒会の仕事が入ってしまったようでして……代わりに頼むと……」
「あ〜……」

 なぜまっつんが来る予定だったのか、その内容を彼女が認知してるのかはわからないが、内容を知っていたら来てくれていないような気もする。
 だが事情はわかった。わざわざここまで来てくれたのだ。ならそれに甘えるまでだ。
 俺は名前ちゃんを笑顔で部屋に招き入れた。
 それに、ただこのまま帰してしまうのはもったいないと思ったもので。


「それで、私は何をすればいいのでしょうか? 頼むとは言われたものの、蛍も松岡さんから詳細は聞いてなかったみたいで」
「そうなの? まっつんめんどくさがったな……」

 ソファに導くとそこに腰を落ちつけた名前ちゃんはすぐに質問を投げかけてきた。
 やはり内容は知っていなかったようだ。

「めんどうなことなんですか?」
「いや、めんどくさがったのは説明をだよ。ただあえて伏せた可能性はあるかなぁ」
「あえて?」
「とりあえず詳細の説明なんだけど、原稿の締め切り前にたまにまっつんに手伝ってもらうことがあってね。と言っても簡単な線を引くとかベタ塗りとかなんだけどね〜。それにそんなに切羽詰ってるわけじゃないから酷ではないと思うけど」
「なるほど……私もそのお手伝いをすればいいんですね!」
「まぁそうなるね」

 ただ、と俺は言葉を続ける。

「エロ漫画だから女の子にはどうなんだろうね」
「えっ、あ!」

 そこで彼女はやっと気づいたようだった。
 まっつんが立花君に詳細を話さなかったのも、きっとそれが理由だったのだろう。俺が描く漫画原稿の手伝いなんて伝えてしまったら、エロ漫画を好いてない立花君は受けてくれないと踏んだと想像がつく。
 そんなまっつんもまさか立花君が駄目になり、名前ちゃんにまで回ることになろうとは思いもしていなかっただろうが。
 沈黙が漂う。
 俺はじっと返答を待つ。
 葛藤の末、名前ちゃんは意を決し、息巻くように言葉を発した。

「が、がんばります! 雪村さんのお力になれるなら!」
「そう? じゃあよろしくね、アシスタントさん」
「はい!」

 受け入れられたようで、嬉しかった。


 受け入れられたようだ、とは言ったものの、やはり当たり前に抵抗はあるらしい。
 新しい原稿を渡そうと声を掛けると、大げさなまでにビクリとされる。あげく描かれた絵を見て赤面し、恥ずかしがっている様を目の当たりにする。そんなことが何度も続いた。
 それは俺の嗜虐心を煽るには充分なものではあった。しかし同時に、少なからず罪悪感までも得るものだった。

「……休憩しようか」

 そしてどうやら俺は存外それに弱いらしい。
 椅子をくるりと回し、ソファに座る名前ちゃんの方を向きながら提案を唱えると、彼女は明るい顔で返事をしたのだった。


 インスタントで簡単に作ったコーヒーの入ったマグカップを手渡すと、ぽつりと呟くようなか細い声が聞こえた。

「気を使わせてしまったようで、すみません……」
「まぁ気にしないでいいよ。それに締め切り前だけど切羽詰ってはいないって言ったでしょ」

 申し訳なさそうに俯いてしまった頭を優しくぽんぽんと撫でると、そっと顔を上げた名前ちゃんに微笑んだ。
 俺は先ほどまで座っていた椅子の手前の床に座ると、炬燵テーブルの上に伏せて置かれていた原稿をぺらりと捲る。
 過敏にピクリと跳ねた肩が視界に映った。
 それを意識してしまった俺はさっきまで感じていた罪悪感はどこへやら。思わず釣り上がる口角を必死に抑えた。 

「やっぱりこんな手伝いは嫌だったよね」
「え、い、嫌なんてことは! ないです、けど……触れない分野なので……その……」
「でも少女漫画ってそういうシーンって結構あるよね。名前ちゃん少女漫画読まないんだっけ?」
「よ、読み、ます、けど……そ、そういうところは、ぼかされてたりして、描かれていないと言いますか……そもそもこんな過激なのはありませんし……」

 羞恥心を煽る様に意地の悪い質問を投げかける。
 名前ちゃんは顔を赤くし、目をきょろきょろと泳がせ言いよどみながらも問いに答えた。
 素直に答えてくれるところが愛らしくてつい口元が緩んだ。

「そんな過激なもの描いてる俺を気持ち悪いとは思わないの?」
「思わないですよ。このお仕事の手伝いは確かに恥ずかしいです。雪村さんはたまに意地悪だったりします。けど、優しい人だって知ってますから」

 投げかけた問いに、ぱちくりと目を瞬かせた名前ちゃんはすぐにその表情をまっすぐなものへと変えた。
 先ほどとは打って変わって、一切の動揺も見せず、よどみなく言葉を紡ぐ。
 今更の質問ですね、と続けた唇は弧を描いている。
 彼女は頬を綺麗に染め、照れたように笑っていた。
 思わず時が止まったかのように、その笑顔に見入ってしまった自分がいた。

「っ……」

 頬に熱が集まる。
 顔が、熱い。
 いつもの癖を装って、カーディガンの裾で口元を隠した。
 きっと赤く染まっているであろう顔がばれないように、机を向こうとするような動作でそっと名前ちゃんから顔を背けながら立ち上がった。

「……原稿の続き、しよっか」
「はい!」

 初めに持った罪悪感は、もう無い。
 この仕事を、俺を、名前ちゃんは受け入れてくれると知ってしまった。
 そんな彼女を解放する気など、もう失った。
 この俺を照れされたお返しは受けてもらわなくては。
 顔の熱は、もう引かせた。
 ふう、と息を軽く吐き、思考をリセットする。
 わざとらしく爽やかな笑みを浮かべ、再びの羞恥プレイを受けてもらう言葉を俺は告げたのだった。

「もうひと踏ん張り頑張ろうか!」



くろうさぎ