77.5




「さぁ、そろそろだ。頼んだよ。

 僕の可愛い可愛い――――アリエッタ」



 迷う必要はなかった。
 これが原因で何かを失う羽目になっても。今の仕事を失う羽目になっても。
 足を止める理由にはならない。だってイオン様が頼んだよと言ったのだ。
 それは何よりも優先すべきものであり、逆らうなどありえないことなのだから。

 まるで神の啓示のよう。
 そう例えたのは誰だっただろう。あざ笑うようにして言われた言葉。
 啓示という言葉の意味はよく解らないけれど、それでも神なんてあやふやなものでイオン様をくくらないで欲しいと思った。
 だってイオン様はアリエッタの世界、光、雨、あらゆる全てというべき存在。

 拙いといわれる思考回路すら、イオン様に出会わなければ今のアリエッタには存在しなかった。
 だからアリエッタの世界はイオン様が作ったんだ。
 アリエッタの世界の全てがイオン様からアリエッタに与えられたもの。
 だからアリエッタは迷わない。たとえ今からすることでアリエッタの首が跳ね飛ぶことになろうとも、イオン様が望んだことならば。

 くん、と足首をまげ極力姿勢を伏せたまま音もなく走る、締まっているであろうドアを蹴破り力ずくで部屋へと押し入る。
 蝶番が吹っ飛び、鍵がかかっていたドアは無残に破れ、小さな金具が毛足の長い絨毯の上で音もなく跳ねた。

 視線だけ動かして室内の様子を確認する。後方から続く弟に、すんと鼻を鳴らして指示を出す。
 イオン様の言うとおり、シオリさまの上に覆いかぶさっているシンクを敵と判断し、喉を鳴らして威嚇した。
 驚いたように顔を上げるシンクはイオン様と同じ顔だけれど、イオン様のお願いの前には誰がどんな顔をしていようが関係ない。

 けれど。
 アリエッタに爪はない。だから代わりに腰のベルトに挿していたダガーを引き抜く。
 アリエッタに牙はない。だから代わりに口の中で小さく詠唱をする。
 アリエッタに逆立てるたてがみはない。だから代わりに殺意を示すために言葉を吐く。

「シオリさまの上からどく、です。でないと――殺します」

 腰を曲げて懐かしい四足の姿勢をとる。少し足に力をこめれば、それだけでリグレットの弾丸のように飛び出せる姿勢。
 鬱陶しそうにこっちを見るシンク、すんと鼻が鳴る音、シンクがシオリさまを見る。

 震えて、泣いて、まるで卵から孵ったばかりの仔のように。その姿を見てシンクが初めて気付いたとでも言うようにびくりと体を震わせた。
 ああ、あんなシオリさまを見るのは初めてだなぁと思うのと同時に、いつもかっこよくて優しくて、けれど時折怖いシオリさまをあんなふうにしたシンクに怒りが沸く。
 早く退けと言う代わりに歯を鳴らして威嚇すれば、シンクは視線をさ迷わせた。迷ってる。

 イオン様はアリエッタの世界なら、シオリさまはアリエッタの初めての友達だ。
 トモダチという言葉の意味を、アリエッタは本当はよく知らない。
 けれどクッキーをくれて、弟達と一緒に頭を撫でてくれて、ありがとうと言ってくれる。
 お仕事でも頼りになりますねって褒めてくれて、アリエッタとイオン様が離れないようにしてくれた。

 仲間、とは違うと思う。兄弟、とも違う。家族、とも違う。
 だから、アリエッタにとってシオリさまは何なのか? という問題の答えは、友達であるというのが正解なのだと思う。

 だから。例えシンクが仲間だとしても。
 イオン様にお願いされた、アリエッタの友達を傷つける。なら。

 ぶわりと湧き出てくる怒りによって、存在しない筈の体毛が逆立つのを感じる。
 迷った様子のシンクに弾けるように飛び掛ればシンクは咄嗟に防御したシンクは部屋の反対側に吹っ飛んだ。
 シンクの反撃を抑えるため、弟達が続いて飛び掛る。けれど予想とは裏腹にシンクは追撃してこない。
 自分の体を使って庇っていたシオリさまはアリエッタを見て驚いていた。

 なんで、と呟いたシオリさまに、なんて答えればいいのか少しだけ迷って――素直に答えを口にすることにする。
 黙っていろとは言われなかったし、シオリさまに嘘をついてもすぐにばれるだろうと思ったからだ。

「イオン様に、頼まれました」

 答えると、シオリさまは何も喋らなくなった。何でありがとうって言ってくれないのか解らなかったけれど、構わないだろう。
 シンクからシオリさまは守れた。イオン様の頼みごとを、アリエッタは無事やりとげたのだ。
 論師守護役たちが駆けつける音を遠くで聞きながら、満足感を覚えて笑う。
 抱きしめた人形は、いつもより温かい気がした。



 ※アリエッタ視点

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