016
ばしゃりと、本来なら聞こえる筈のない水音が聞こえた。
何事かと廊下の角から顔を覗かせれば、水溜りとそれを避けたらしいサラと、バケツを持って固まっている導師守護役の制服を着た軍人もどきが数名。
即座に状況を把握して、どうしたものかと迷った。
沈黙が流れる中サラが一瞬視線を向けてくるものの、口を出すべきではないと判断して肩をすくめるだけに留まる。
「いい加減懲りてくれませんかね?」
「うっるさいわね!アンタが悪いんでしょ!?つーか避けるなし!」
「成る程、これは正式な抗議であると。では査問会を開きますか」
「な、何でそうなるのよ!?」
「上官に対する不満があるのならば査問を開き、状況改善を図るのが軍というものですから」
「私たちは守護役でしょ!?」
「守護役も立派な神託の盾騎士団の一員、つまり軍人です」
呆れたように言うサラに対し、ピンク色の集団はきーきー喚いている。
姦しいことこの上ない。ため息を漏らさないだけ拍手を送りたい。
「つーか何でアンタが上官なワケ!?無表情の癖に!」
「私の方が階級が上だからです」
「元傭兵の癖に生意気なのよ!」
「元傭兵だから階級が上なんです」
「何でよ!?」
「戦闘や護衛の経験があるからです」
こいつ等、真正の馬鹿…?
思わず出かけた言葉を飲み込む。いちいち律儀に応えてやるサラは実は優しい性格をしているのかもしれない。
自分ならとっくに掌底を喰らわせている自信があった。
第五師団ってまともな軍だったんだなぁとどこか現実逃避気味に考える。
「貴方達!何をしているんですか!」
そんな事を考えていると、反対側から自分と同じ声が聞こえた。
聞こえた途端、眉間に皺が寄ってしまうのはもう既に反射のようなものなので勘弁願いたい。
セブンスイオンは珍しくも僕と同じように眉間に皺を寄せ、音叉の杖を片手に歩み寄ってくる。
「イ、イオン様…これは、その…あの子がっ!」
「サラスティアが、なんですか?」
「その、あの…私たちに水を掛けようとして!」
「……では、貴方の手にあるのは何ですか?」
「え?あ、こ、これは!違うんです!」
バケツを片手に必死に弁明を試みる馬鹿共と、一礼をして動かないサラと、睨みつけるようにして守護役達を見るセブンス。
どう見てもバケツの水をかけようと、というか掛けたのはバケツを持った人間だろうに。
言い訳が馬鹿すぎる。本当に脳味噌が詰まっているのだろうか?
やがて僕と同じ思考回路に至ったのか、セブンスはため息をついて片手を挙げた。
セブンスの背後から現れた神託の盾兵がそれを見て礼を取り、セブンスの前で止まる。
「何が違うかは詠師達に弁明してください。仕事中すみませんが、彼女達を頼みます」
「はっ」
暫く見ない間に少しばかり導師役に板がついたらしいセブンスは痛むらしい頭に手を当てつつ、無言を貫き通しているサラに歩み寄った。
喚く守護役達は声を聞きつけて何事かと集まってきた神託の盾兵達に押さえつけられていく。
「サラスティア、怪我は…無さそうですね」
「はっ。導師のお手を煩わせてしまい、申し訳ございません」
「構いません。僕も貴方に頼りきりですから…」
深く頭を下げるサラに対して頭を上げるように言い、セブンスは柔和な笑みを浮かべた。
姦しい軍人もどき共の声が聞こえなくなったのを見計らい、セブンスは肩の力を抜く。
「まだ幼い僕が導師で居られるのは貴方のフォローがあってこそです。事実、トリトハイムも最近の僕は以前の貫禄が少し戻ってきたのではと言ってくれましたし」
「全ては導師の努力の賜物です」
「それでも僕は貴方にお礼が言いたいのです。こんなことしかできないのが心苦しいのですが…サラスティア、いつもありがとうございます」
「身に余る光栄です」
微笑みを浮かべるセブンスと、膝をつき頭を垂れるサラ。
成る程、サラがセブンスに色々と入れ知恵をしていたのかと、先程のセブンスの様子に納得が言った。
話の流れから見てセブンスがレプリカであることを知っているとすでに暴露したのだろう。
「ただ…」
きゅっと音叉の杖を両手で握り締め、セブンスの表情が曇る。
何事かとサラが顔を上げた。
「アニスが、どうも貴方に恨みを持っているようなのです…どうか気をつけてください」
「タトリン奏長が、ですか」
「彼女は以前何も知らない僕が傍に置いていた守護役です。しかし今の僕は彼女が守護役に相応しい存在ではないと解る…なので遠ざけたのですが、どうもそれに不満を抱いているようなんです」
「導師が心配されるようなことなどありません。彼女もまた、導師守護役…導師のお心を騒がせるようなことはしないでしょう」
「だと良いのですが…此処だけの話、アニスはモースの子飼いです。軍事訓練も最低限しか受けていないとのことですから、僕は不安で…」
「導師、私が危害を加えられるところを、想像できますか?」
サラが僅かに口の端を上げるだけの笑みを浮かべ、セブンスは目をぱちくりさせた後廊下に飛び散った水へと視線を移し、再度サラへと視線を戻す。
その後ふにゃりと力の抜ける笑みを浮かべた。
「…………できませんね」
「その予想が外れないこと、此処に断言させていただきます」
「そう、ですね…ありがとうございます。それでは部屋に戻りましょうか…次の公務まで時間がありますし、前の話の続きを聞かせていただけませんか?」
「畏まりました」
背中を向けるセブンスと、立ち上がるサラ。
サラは此方に身体を向けると、そのまま僕に一礼をしてセブンスを追っていった。
二人の背中が見えなくなった頃、僕は息を吐いて壁に背を預けた。
胸の内にどろどろとした想いが渦を巻く。
息苦しさすら感じるほどの、醜い感情が悲鳴を上げていた。
唐突に理解した。理解してしまった。
今すぐセブンスの元から引き剥がしたかった。
セブンスが羨ましくて仕方が無かった。
僕の元に来いと声を大にして叫びたかった。
そのまま抱きしめて、二度と離したくないほどに。
セブンスがサラを見つめる瞳に熱が篭っている気がして、苛立って仕方が無かった。
ずるずると、その場に座り込む。
仮面を抑えながら強く歯噛みし、湧き上がるどす黒い感情を必死に押さえ込む。
脳裏にサラの姿がよぎる。
僕と居る時でさえ、笑顔を見せるのはほんの僅かだったというのに、セブンスには笑っていた。
「……くそっ」
悪態がもれるが、止められそうにない。
認めよう、僕はセブンスに嫉妬している。
彼に、同じ遺伝子を持つセブンスにサラを取られたくないのだ。
僕はサラが好きなんだ。
唐突に悟り、確信した。
こんな感情、知りたくなんてなかったのに。
* * * * *
「詠師達の許可は取れたか」
「大分渋られたけどね、まぁ許可は出たよ」
執務室にて、リグレットと淡々と話す。
アレ以来、サラを直視することができない。
前は遠目であろうとすぐに見つけることができたのに、今はピンクの制服が視界に入ることすら拒否してしまう自分が居る。
「シェリダンに向かう船上で決行する。
もし船に何かあってもすぐに対応できるよう第二師団の技師達に船内に待機。
アリエッタ率いる第三師団は少し離れた位置で船を囲んで貰って、非常時の援護をしてもらう」
「必要か?」
「馬鹿が落ちないとも限らないからね」
「成る程。第五師団は?」
「一般市民に扮して船内に。開始時間になったらテロリストに扮して導師を抑える」
「そこからいかに動くか、ね」
「名目上刃を潰した武器を持たせるけど、念のため拳法家をメインに組ませるから」
「何故だ?」
「素人に見えるし、いざという時は戦力になる」
「事実上第五師団が守護役、ということか」
リグレットに質問に答えつつ、作戦を展開していく。
後は第二、第三師団の連中に同じ内容を書かれた作戦立案書を回せば良いだけだ。
サラの顔が脳裏に浮かぶ。
彼女なら難なくこの試験も合格するだろう。
セブンスを守りきり、怪我を負うことなく、敵に手加減すら加えて。
あの澱んでいようとも抜け目のない隻眼で、マストの展望台で見守る僕すら見つけそうだ。
「…シンク?どうした」
「別に、これで怪我でもされて苦情が来たらまた一苦労だからね。もう少し工夫すべきか迷ってるだけ」
「これ以上はどうしようもないだろう。守護役に護衛を付けるわけにもいかんからな」
「第五師団がそれを兼ねてるんだけどね」
誤魔化しつつ、立案書をぼーっと眺める。
これが終われば守護役部隊も少しは落ち着くだろう。
次の守護役候補達も此方で選抜してあるから、彼女達の退団が終わり次第配置できる。
モースに手を回される前に此方で何とかしたい。
あぁ、そうすればサラをもう一度手元に引き戻すことができるかもしれない。
「そういえば」
「何?」
「サラスティアだったか、彼女も今は守護役なのだろう?」
サラと二人で任務に行って殺されかけたのを思い出したのか、リグレットは少し顔を青くしながら聞いてきた。
一瞬思考を読まれたのかと思ったが、違うだろうと自分に言い聞かせ平静を装う。
「居るね」
「暴走しないのか?」
「何のために刃を潰した剣を持たせると思ってるのさ、多量の血液に酔わなきゃ平気だよ。いざとなったら僕が宥めるから」
「……できるのか?」
「僕は報告したはずだよ。信じなかったのはそっちじゃないか」
僕の言葉にリグレットは眉を顰めつつも、口をつぐんだ。
いざとなったら殺せば良いとでも思っているのかもしれない。
しかしリグレットでは返り討ちにされるのがオチな気がする。
「じゃあこれをアリエッタとディストに」
「解った」
立案書を渡せば、リグレットは頷きながらそれを受け取った。
そのまま出て行く背中を見送り、深く息を吐いてソファに身を沈める。
「……サラ」
会いたい。会いたくない。
声が聞きたい。触れたい。逃げ出したい。
抱きしめたい。閉じ込めてしまいたい。
抱きしめて、髪をすいて、唇を重ねて、またあの身体を貪ってしまいたい。
相反する想いと邪念に満ちた欲望が湧き上がる自分が嫌になる。
いっそ喉を掻っ切って僕の人生にピリオドを打ってしまおうか。
何もかもに嫌悪感しか持てず、そんな事を考えてみるもののあのセブンスにサラを奪われると思うとそんな事をする気にもなれなかった。
セブンスだけには、取られたくないのだ。
取られるも何もサラはセブンスのものではないし、サラの心を占めているのはセカンドだと理解してはいるけれど。
つまるところ、これはくだらない意地だとわかってる。
自嘲するものの、何も変わりはしない。
「サラ」
呼んでも、返事など返ってくるはずもなく…。
膝を抱え、この苦しさに耐えるしかなかった。
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