シトラスの香りが鼻を抜ける


※リセマラシンクから見たいつかの夢主のお話

こんこん、と軽くノックをする。そして返事を聞かないまま開ける。一拍置いてどうぞという声が聞こえたので、蝶番が軋む音を聞きながらドアを開けた。
ケセドニアの夜は寒い。相対的に見ればもっと寒い地域はたくさんあるのだろうけれど、昼間との気温差がありすぎるせいでとても寒く感じるのだ。
まあ、それも慣れたけれど。

「寝るとこだった?」
「いえ、大丈夫ですよ。何か?」
「明日からの依頼のことで少しね。何日か留守にするから先に生活費渡したり、とか」
「ああ、助かります。貯金から出して後から請求すべきか迷ってたんですよ」

ダアトから逃亡して早一年。傭兵生活も慣れ、僕の保護者として一つ屋根の下に暮らしている彼女との生活にも慣れた。
最初は殺風景だった部屋にも随分と物が増え、今もほら、破格で買ったという鏡台の前で髪を梳いていたようだ。
普段はアップにされていた鴉の濡れ羽色の髪がくるくると癖を主張しながら背中を覆っている。
そしてそこまで重要な話でもないと悟ったらしく、再度鏡台の前に座ってから櫛で髪を梳き始めた。鏡越しに目が合い、話の続きを促される。
音もなくサラサラと流れる髪、僅かに香るヘアケア用品の匂いを嗅ぎながら、櫛を通す必要があるのかと少し疑問に思った。

「あと今回バチカル方面行くんだけどさ。ほら、前になんか欲しいとか言ってなかった?」
「言いましたっけ?」
「料理に使う奴で欲しいのがあるとか言ってたじゃん」
「え?えー……?」
「ほら、僕が甘いの食べたいとか言ったとき。アレがあれば作るって言ってたの君だよ?」
「えー……あ、ああ……ハンドミキサー?」
「それだ。バチカルにならあるって言ってたよね?」
「言ってません。一応譜業扱いになるでしょうから、あるとしたらバチカル方面でしょうねと言ったんですよ」
「あれば作ってくれるんだよね?」
「あれはお菓子作りを断る口実だっていい加減気付いてください」
「気付いてて言ってるんだよ」
「その私を労働させるために全力で逃げ道を塞ごうとする労力を何故他の方面で使えないのか」

ため息混じりに言った台詞に、そうすればお菓子かいに行かなくて済むようになるじゃないかと更にため息をつかれた。
部屋の内側に入り、壁にもたれかかりながら更に軽口を繰り返しつつもう一度観察する。
ダアトに居た頃よりも少しやけたらしい肌は色が黒くなっている。しかしそれよりも黒いのは瞳だ。
感情を読み辛い瞳は平坦で、それでいて見ていると吸い込まれそうな気がする。

初めて会った頃はアニスとよく似ているという印象だった。けれど今はどうだ。
細い肩も、低い背も、黒い髪も、黒い瞳も、まろい頬も全て、似ているように見えて全く違うように見える。
一体何故。一年という月日を共にしたというのに、同時に一年という月日を共にした分解らなくなった気がする。
そこでようやく気付いた。そういえば、一人の人間とこれだけの月日を過ごしたのは一体何度目の生ぶりだろう、と。

一人の人間と関わり続けるのが久しぶりすぎて感覚が狂っているのかもしれないな。
そう結論付けた後、散々見つめられて僅かに疑問を持ったらしい黒い瞳に鏡越しに見つめられて、なんでもないと返しておく。

「じゃあ出てく前にお金は渡すから」
「はい、ありがとうございます」
「おやすみ」
「おやすみなさい」

ぱたん、と空気が抜けるような音を立ててドアを閉める。
おやすみなさいの言葉と共にほんの少しだけ上がった口角に気付けるようになったのはいつだったか。
初めて出会った頃には気付かなかったであろう彼女のその僅かな変化を、気付くことができるのは多分今は自分だけ。
ほんの少しだけ、気分が良かった。



シトラスの香りが鼻を抜ける


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