契約成立/前
ここは、暗い。
黴臭い空気が漂う暗く湿った部屋、光源は木箱の上に乗せられた今にも消えそうなランプだけ。
不快だったはずの黴臭さや湿気はとっくに慣れきってしまっていて、今感じるのは肌寒さのみ。
何とか暖を得ようと精一杯身体を丸めてみるも、自分の肌すら氷のように冷たくてあまり意味は無さそうだった。
恐らく、今私の目は酷く澱んでいるのだろう。周囲に居る人たちも同様で、絶望を瞳に浮かべて膝を抱えている。
私はフードを目深に被り直し、きゅっと唇を噛み締めて終わりを待った。
どうして、なんて疑問はとっくに尽きた。答えなど与えられないのだから、疑問を持つだけで無意味だと悟ったのだ。
そして時間を潰すように自分の歩んできた軌跡を思い出す。
私は日本の極普通の家で産まれ、そこいらの子達と変わらぬように学生時代を過ごし、後少しで就職先も決定するという時まで来ていた。
それなのに気が付けば私はぼうっと突っ立っていて、白衣の男達と奇妙な服装をした人達がなにやら物騒な話をしていた。
何故あんな場所に突っ立っていたのか、実は今でもよく解らない。
解らないがあの人たちは廃棄だとか火山に投げ込めば良いとか話していて、それが自分を含むその場に立っていた緑の髪を少年達の事だと理解した私は隙を見て逃げ出すことを選んだ。
ぼうっとしていて自我の無い、悪く言えばお人形のような同じ顔をした少年達を置いていくことは心が痛んだ。だってあの人達が話していたことが本当なら、彼等は火山の火口に投げ捨てられて"廃棄"されるのだ。
きっとぼうっとしていたのも、薬か何か打たれていたのだろう。もしかしたらあの人たちは奴隷商人とか、人体実験を行う危ない人たちだったのかもしれない。
逃げ出した私は貧民街に辿りつき、現実逃避と葛藤の末、ここが日本でないことを認めた。
ここはダアトという街で、ローレライ教団が治めている宗教自治区。
誰かに聞いたわけではない。頭の中にその知識があったのだ。
宗教関連は下手に首を突っこむべきではないと判断した私は、宗教とは程遠そうな酒場の下働きの職にありついた。
正直見た目が子供になった──むしろ別人状態──の私が酒場に雇ってくれること自体驚いたものだが、ここでは就業年齢などあまり関係ないようだった。
顔を見られた瞬間導師様だといわれたが、私は導師ではないと言えば女なのかと聞かれ、頷ければ何故か同情された。
そして私を雇ったマスターは値踏みするような視線で私を上から下までじっくりと眺めた後、キッチンの仕事を与えてくれた。
はっきり言おう。清潔第一の日本で生まれ育った私にとってそこは耐え難いものだった。
それでもここを逃せば雇ってくれるところがあるかどうか解らない。私は吐き気を堪えながら必死に働いた。
女たるもの家事はこなせて当たり前、男の胃袋を掴めてこそ家庭が持てると、母が鍛えてくれた料理の腕が役に立ったのは不幸中の幸いといったところだろうか。
芸は身を助けるという言葉を、私はその時になって実感したものだ。
平穏を求めて安い賃金で必死に働いて私だったが、しかしそれも突然に崩れ落ちた。
半年ほど働いた頃だっただろうか。仕事にも慣れ、同僚達と笑いあう余裕もできた頃のこと。
酒場のマスターが私を売ったのだ。
その時確かに私は絶望に襲われたが、酷く冷静な自分はやっぱりかと納得していた。あのマスターの値踏みするような視線が脳裏に走ったのである。
引きずられるようにして連れて行かれそうになり、抵抗しない私を見て自分で歩けと蹴られた。そして、この部屋につれてこられた。
私以外にも見目が良い男女が数人居る部屋。恐らく"商品"を置いておく"物置"なのだろうとあたりをつけ、部屋の隅で蹲る。
訳の解らないまま殺されそうになり、訳の解らないまま貧民外に辿りつき、この世界について少し解ってきたところで雇い主に売られる。
何だこの人生は。誰もこんな波乱万丈な人生なんて頼んじゃいない。確かに日本に居た頃は退屈だったが、退屈なりに平穏で幸せな人生だった筈だ。
このオールドラントに来てからの短い人生を反芻し、私はもう一度唇を噛み締める。強く噛み締めすぎて僅かに血の味がしたが、もうそんな事どうでも良かった。
一度坂から転がり落ちた石は、砕けるまで止まらない。転落した私の人生も、きっと死ぬまで転がり続けるんだろう。どうせなら、最後くらい苦しまずに死ねたら良い。
諦めを胸に、私は膝に顔を埋める。全てを拒絶するように目を閉じて世界を遮断する。
そうしてどれくらい膝を抱えていたのだろう。不意に聞きなれない音が耳に届いて、私は反射的に顔を上げた。
それは何かが崩れる音、壊れる音、野太い叫び声と金属の擦れる音。明らかに何か荒事が起きているのが解る物音に、思わず眉を顰める。
見れば周囲の人たちも何が起こっているのかと不安そうな顔をしていて、私は億劫ながらも立ち上がってドアの方へと向かった。柵付きの小窓からそっと外を覗き、どよめく他の人達に静かにと言って耳をすませる。
僅かに人の声が聞こえた。
聞こえた声を確かめるように反芻する。
「……オラクルが、来た?」
「神託の盾が?」
「助けに来てくれたんだわ!」
「俺たち、助かるのか……!?」
私の呟きに男女数名の顔に希望が満ち溢れる。オラクル……神託の盾、そう、確かローレライ教団の抱える軍事組織だった筈。
頭の中にいつの間にかあった知識を反芻し、今起きていることを推測する。
「つまり、神託の盾が人身売買組織の強制捜索に来た、ってこと?」
「そうだ……きっとそうだ!」
「助かるのね! あぁ、ユリア様……!」
歓喜に涙を濡らす女性を見て、私は密かに眉を顰める。
預言を与えるローレライと、預言を齎した始祖ユリアをあがめるローレライ教団。
私はこの教団があまり理解できない。
だが助かるのは、嬉しい。しかし同時に思う。助かった後、私はどうなるのだろうか?
助けられた後、無一文のまま放り出される未来が自分の脳裏に思い浮かぶ。元の職場にだって戻れないだろう。
奴隷として売られるのと、無一文で放り出されるのとどっちが良いんだろう? 普通に考えると、どっちも嫌だ。
私が頭を捻っていると段々と物音が近付いてくる。そして金属の擦れる音が近くなり、ゆっくりと木の扉が開かれた。
「皆さん、ご無事ですか? もう大丈夫ですよ」
兜の中から聞こえたくぐもった声が私達を安心させるように告げる。ワッと歓声に包まれる室内で、私だけが浮かない顔のまま鎧の神託の盾兵を見つめていた。
それに気付いたのか、視線が向けられて慌ててフードを目深に被る。顔を見られれば面倒ごとに発展するというのは、貧民街に居る間に嫌というほど学んでいた。
「どうぞこちらへ。お疲れのところ申し訳ありませんが、後ほどお話を聞かせて貰うことになります。それまでは我々が用意した部屋でゆっくりと休んでください。少しですが、温かいスープも用意してありますから」
神託の盾兵に連れられ、歓喜に涙を流す人達と一緒に部屋を出る。窓のある黴臭くない部屋に通され、タオルケットを肩にかけられてホットミルクの入ったマグカップを渡された。
もう少しでスープもできるから待っていてくれと言って兵士は出て行く。これから先のことを思うと陰鬱な気分になるものの、劣悪な環境から解放されたことと久々に飲むまともな飲み物に私はほうっと息を吐いた。
「ねぇ、もう大丈夫なんだからフードは取ったら?」
「あぁ、そうだ……もうそんなに警戒しなくて良いんだよ」
安全が約束され、ようやく周囲を見る余裕ができたのだろう。私と一緒に閉じ込められていた男女がそう声をかけてくる。
私はミルクに口をつけるのを止めて俯いた。
「ごめんなさい、見せたら……きっと面倒なことになる、から。お気持ちだけ受け取らせて頂きます。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げれば、困惑した空気が伝わってきた。多分どう答えて良いか解らないのだろう。
そう、とか、悪かったとか言いながら男女はそれ以上の追求はしてこなかった。何となく気まずい空気が流れ、暫く無言が続く。
そんな中、そんな空気を払拭するように神託の盾兵が入室してきた。
「コチラです」
「ご苦労」
鎧を着た兵士が頭を下げるのを見て、上官でも連れてきたのかと思った。
が、鎧の兵士の影から現れたのは、圧倒的に小柄な少年で……予想外すぎる人物に思わずミルクを飲むのも忘れぽかんとしてしまう。他の面々も困惑が隠しきれないようだ。
仮面をつけた少年は私達を睥睨すると、神託の盾騎士団第五師団師団長のシンク謡士だと自己紹介をした。何でもこの人身売買組織摘発をしたのは第五師団の人たちで、今回の任務の責任者でもあるらしい。
どこからどのように連れて来られたのか教えてくれた後には、故郷まで送ってくれると彼は言う。他の人達が喜ぶ中、故郷という言葉を聞いて私は再度俯いた。
故郷? 日本だなんて言える筈が無い。
私には帰る場所が……無い。
「……そっちの奴は?」
「は。救出の際からずっとあの様子で……」
「ふぅん。アンタ、何で顔見せないわけ?」
俯いていたのがいけなかったのか、私は彼に声をかけられてしまった。導師と同じ顔だからです、なんて言える訳が無く私は口を引き結ぶ。
同じように私にフードをとっても平気なんだよと言ってきた男女が先程の私の言葉を伝えたが、彼はそっけない返事の後ゆったりとした足取りで私に歩み寄ってきた。
「……フード、取りなよ」
「……できません」
声変わり前の声に命令され、私はそれを拒否する。
彼は神託の盾騎士団の一員だという。導師と同じ顔を見られれば何をされるか解らない以上、迂闊に素顔を晒すわけにはいかない。
助けてくれた彼らに対しとても不誠実なことだとは解っていたが、私は自分の身を優先する。
「何で取らない」
「……言えません」
「それは疑ってくれって言ってるようなものだって解ってる?」
彼の言葉に私は首をかしげた。
彼は腕を組んで私を見下ろしていて、仮面をしているせいで瞳を探ることもできない。
「こっちとしてはアンタは連れてこられた被害者たちが逃亡を図ろうとするのを妨害する見張りで、今回摘発された組織の一員、なんて見方もできるんだけど? 見目が良くないから同じように連れてこられた被害者として信頼を得ることができないと考え、ずっとフードを被って顔を隠している……組織が摘発された以上、無関係を装うために被害者のふりをしている、とかさ」
その言葉に私はハッとして、咄嗟に首を振った。彼の言葉を聞いた周囲から疑惑の視線が突き刺さる。
「違います! 私は……私は貧民街にあるバーで働いてました。下働きで、キッチンでジャガイモの皮を剥いたり、掃除をしたりしてっ、けど雇い主であるマスターに売られたんです!」
「へぇ? そのバーって?」
「ストレっていうバーです。そこの二階にある物置で寝起きさせて貰ってました」
その言葉にシンクが背後に居た兵士を見て、兵士がこくりと頷いた。
「確かに、今回応酬した顧客リストの中にありました」
「成る程、一応筋は通るね……でもアンタがフードを取らない以上、怪しいのには変わりない。元々知っていた情報をさも現実のように語っている可能性もある」
真実を話したというのに、彼は疑いを晴らしてくれない。
疑われる悔しさに歯噛みしていれば、彼の手が私のフードにかかる。咄嗟にフードを抑えようとしたが遅く、彼はフードを取り払い私の顔を露わにした。
マグカップを取り落としながら、私は他の人に見られないようその場にしゃがみこむ。
「……成る程ね、顔を隠したがるわけだ」
頭を抱えてしゃがみこむ私の上で、彼の呟きが落ちてくる。
彼は乱暴な手つきで私にフードを被せると、私の腕を取って無理矢理立ち上がらせた。
「コイツは神託の盾が……いや、僕が保護する」
「は? しかし、故郷に返さなくて宜しいのですか…?」
「故郷? 無いよ、そんなもの」
シンクが断言し、その言葉が事実か伺うように兵士の視線が私に向けられる。
私はシンクに腕を捕まれたまま、逡巡の末こくりと頷いた。
「顔を見て解った。事情持ちって奴さ。隠していたのは無用な混乱を招くのを避けるためだろう。だから教団で保護、もとい僕が保護する。解ったね?」
「は。畏まりました」
「じゃあ業務に戻りな。アンタはこっち」
話が終わり、神託の盾兵は部屋を出る。
私はシンクに手を引かれ、こけつまろびつ彼の後に続いた。
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