幕間.距離
「参謀長、総長閣下がお呼びです」
「解った。すぐに行く。警備は任せた」
「はっ」
シャドウが夜の帳を降ろしルナが輝く深夜、外からかけられた声に寝息を立てるマユミの横をそっと抜け出す。
伝令役の兵士に警備を任せれば文句も言わずに天幕の前で警護に付く。教団のために汚れ役になることまで覚悟した男の仕事ではないだろうに、文句ひとつ零さない。
哀れだよね。こんなレプリカに下っ端みたいに使われてさ。ほんと、ゴクロウサマ。
テントを出た後、野営地から少し離れたところでヴァンが待っていた。要件については想像がついている。マユミのことだろう。
周囲に人気がないことを確認してから話を促せば、案の定ヴァンはマユミを利用するつもりらしかった。
けれど具体的な計画を話さない。ただ興奮気味に話すヴァンは、マユミがこの世界をひっくり返すのだと本気で信じているらしい。
人類の未来のためなんてお題目を掲げていた目の前の男。てっきりその本心は預言への復讐のためだと思っていたのに、この男は本当に人類の未来を憂いていたらしい。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
マユミはそんな大層な人間じゃない。あれは平和な世界で生まれ育って、頭の中まで平和にできてるただの人間だ。
けれどヴァンにとっては違うらしい。ヴァンは、マユミを祀り上げるつもりだという。
また緊張して石みたいに固まる姿が目に浮かぶ。緊張のあまり右手と右足を一緒に出すなんて器用な歩き方をしていたなとぼんやりと思い出す。
ヴァンはマユミを利用するためにも、僕をマユミの側に置いておくことに文句はないようだった。
最近詠師達から何度もマユミとの同棲をやめるように言われていたから、ヴァンまで同じようなことを言いださなかったことに密かに胸を撫でおろす。
実際、外聞が悪いことは解っている。同世代の男女が一室で暮らしているなどいくらでも邪推できる。
無理矢理引き離されないのは、僕がマユミの警護を請け負っていることと、マユミ自身が部屋を移ることを断っているからだろう。
ヴァンの演説を聞き終えた後、仮眠を取りたいと言って話を切り上げる。
けれど胸の内に蠢く暗い淀みに無意識のうちに舌打ちが漏れて、少しだけ寄り道をした。どうせ周囲からは憚りにでも行ったかと思われるだけだ。
煌々と輝くルナを見上げる。仮面越しに淡く光るルナは、被験者もレプリカも平等に照らす。きつく手を握り締めれば、黒手袋がぎちりと音をたてた。
マユミは僕のものなのに。
頭では解っている。既にマユミと僕の立場は逆転した。僕はただの神託の盾の兵士で、マユミは今や教団が有する唯一の装飾文字の読み手だ。
マユミは僕のものなのに。
このまま事態が進めばいずれマユミは僕の側から引き離されて、僕の手の届かないところで大事に大事に教団に囲われるのだろう。
マユミは僕のものなのに。
イオンが作り上げた御大層な名目の元に素顔を晒すことを憚ることなく、過去の声を現代に届け未来に繋ぐ聖女のような立場に祀り上げられる。きっとそこに、僕の渡した首輪は存在しない。
マユミは僕のものなのに。
「クソッ」
腹立たしい。苛立たしい。この上なく不愉快だ。アレは僕のものなのに、どいつもこいつも無遠慮に手を伸ばす。
ベタベタと汚い手で触れて、僕から取り上げるのだ。僕よりも少しだけ高い声が気遣うように名前を呼ぶのも、いずれ滅多に聞くことはなくなるのだろう。
最初から何も与えちゃくれなかったくせに、折角手に入れたものすら容赦なく奪っていく。ああ、なんて憎たらしい世界!
息を長く吐いて心を落ち着かせる。早く戻らなければならない。
自分の腕を痛いくらいに掴んで、その痛みで無理やり思考を切り替える。慣れたことだった。
けれど胸の内に蟠るドロドロとした気持ちはなくならない。それを無理矢理押し込んで、マユミの眠るテントへと足を向けた。
「ご苦労。あとは僕が引き受ける。仕事に戻りな」
「はっ」
テントの前に立っていた兵士に声をかけて、テントを捲ろうと手を伸ばす。
そこで突如空から降り注ぐ大量の音素を感じて、ハッと顔を上げた。視認できるほど音素の塊が、空を裂いてふってくる。
乱暴にテントを捲れば何故かマユミは起きていて、両掌を胸の前で合わせた姿で天を仰いでいて。
「マユミ!!!!」
膨大な音素が降り注いだ。音素の濁流に弾き飛ばされた身体が地面を数度バウンドする。
痛みを無視し無理矢理身体を起こしてテントを見る。何事かと集まった兵士たちは、次々に倒れて行った。
「これは……」
「まさか、音素意識集合体からの接触か」
駆けつけたヴァンが腕を掲げて身体を庇いながら零した推測に、何故兵士たちが次々に倒れていったのか理解した。大量の音素に体内音素を狂わされているのだ。
事実、ヴァンもその辛さからその場に膝をついている。僕はまた舌打ちを漏らすと、そのまま音素の濁流に駆けだした。
天から降ちてきているのは、第一から第六音素の塊だ。ならば純粋な第七音素のみで作られているこの身体ならば。
「マユミ……ッ」
それでも身体にかかる圧。暴力じみた音素に眩暈と嘔吐感が湧き上がる。眼前で腕をクロスさせて頭を庇いながらゆっくりと進む。
音素の濁流の中で、マユミは手を合わせたまま天を見上げていた。その身体を包む淡い燐光は、まるで音素乖離を起こしかけたレプリカのようで。
カッと腹の奥から怒りが湧き上がった。お前も僕から奪うのかと。
「僕から……奪うなっ、マユミは僕のものだっ!!」
軋む身体を動かして一歩二歩と前に進む。内臓がひどく痛む。けれど緩やかに光る身体を取り返そうと手を伸ばす。いつの間にかマユミの髪は恐ろしい程に伸びていた。
ゆっくりとマユミがこちらを見る。僕と同じ新緑の瞳と視線がかち合ったかと思うと、心底嬉しそうにマユミが笑った。
突然空から降ってくる音素が切れた。いや、終わったのかもしれない。
たたらを踏んだ足を何とか動かして、ふらりと傾いたマユミの身体を抱き留める。瞼の落ちかけた彼女は苦痛を覚えているようには見えない。
そのことに安堵していれば、マユミがふんわりと笑って冷えた指先で僕の頬を撫でた。
「シンク……私、お願い、したから」
「は? 何を」
どうやらこの事態はまたマユミの軽率な行動によって引き起こされたらしい。
「この世界が、少しでも……シンクに、優しくなりますようにって。だから、もう……」
だいじょうぶ。
最後に音にならない吐息のような言葉だけ残して、そのままマユミの瞼は閉じられた。
慌てて呼吸を確認するが、その息は正常で首筋に手を当てて確かめても心音の乱れもない。どうやら寝ただけらしい。
今度こそ全身から力が抜けてその場で脱力する。かと思うとせり上がってくる痛みに耐えきれず、僕は口から思い切り血を吐いた。
びしゃりと溢れた血を吐き出す。口の中が鉄臭い。第七音素だけで出来た身体とはいえ、やはりあれだけの音素を浴びるのは身体に悪かったのだろう。
「マユミ……」
自分の吐いた血がゆるゆると音素になって溶けていくのを横目に、ぎゅうとその身体を抱きしめる。
僕のために祈ったらしいマユミ。僕が好きだという馬鹿なマユミ。
君の祈りは僕と違ってこんなにも純粋で、そしてまた、こんな奇跡を起こした君は僕から遠ざかっていくに違いない。
「僕のもののくせに、なんで置いていくんだよ。馬鹿じゃないの、ほんと」
それが嫌で。嫌で嫌で仕方がなくて、僕と違う柔らかな身体をきつくきつく抱きしめる。
零れ落ちた言葉は、みっともないくらいに震えていた。
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