幸せになりなさい


 冬のポニーテールは寒い、とかつて笑っていた名前の髪はいまやばっさりと切られた。清々しい気分だと笑う彼女はとても綺麗になったな、と思う。逆に私の髪の毛はあの頃よりも少しだけ伸びた。
 ふたりきりで話したいと珍しく弱った声で任務の終わりに誘われた。名前とふたりでご飯に行くことはよくあるけれど、こんな風に弱った名前を見るのはいつ以来だろう。

「野薔薇、聞いてよ」
「どうしたのよ」

 手荒れをしらない美しい指先でピンク色のカクテルが入ったグラスを傾ける。あんたはお酒弱いんだからほどほどにしときなさいよ、私は釘を刺しておいた。
 今日虎杖はどうしたの?と聞くと、明日の夜まで出張だと教えてくれた。だったらなおさら飲ませすぎないように注意しなければ。迎えに来てくれるやつもいないんじゃ、私が酔っ払った名前を送り届けなければならない。それはごめんだ。

「わたし、普通のお嫁さんになれる気がぜんぜんしなくて」
「はあ?」

 虎杖と名前が結婚することを決めたのは最近のことだ。ようやくか、と伏黒と笑い合った。高専を卒業してからは一緒に住んでいたし、喧嘩したなんて話も聞かない。側から見ていてもお似合いのふたりだと思う。自分以外の人の幸せを思える、そんなふたりだ。
 虎杖になんてプロポーズされたの、と聞くと、恥ずかしそうにふたりだけの秘密、と微笑んでいた名前はあんなに幸せそうだったのに。それに、あんなに嬉しそうな虎杖の顔なんて、私は初めて見たの。

 普通のお嫁さん、ねえ。
 そもそも、普通のお嫁さんってなんなのよ。私たち、わりと特殊な仕事してるし、名前が想像する普通によっては、相当ハードルが高いんじゃないかと思うんだけど。

「この前お姉ちゃんの家に行ったんだけどね、わたしがいてもずっと忙しそうに動き回ってたの。お茶を出したり、ご飯を作ったり、赤ちゃんが泣いたら作りかけのご飯の火を止めて赤ちゃんの方に一目散に行ったりして」

 足りない食材があったらお姉ちゃんの旦那さんが買ってきてくれて、一緒に台所に立ったり、赤ちゃんを抱きしめたりしてて、そういう普通の結婚生活をしてみたいって、思ったの。
 それにくらべてわたしたちは、任務ですれ違うことが多くて、ふたりで住んでるのにぜんぜん会えなくて。ふたりでお休みの日なんてめったになくてね、どっちかが休みの日に溜まった家事をするの。洗濯とか掃除とか色々クリーニングに持ってったりとか。料理も適当で、安くなった惣菜も買うし、自分たちで作ったとしてもパスタとか、そういう簡単なやつばっかりで。同棲してた時は仕方ないって思ってたけど、結婚するってなったら、なんか。わたしぜんぜんお嫁さんらしいことできてない。どうしよう。野薔薇。

「こんなんじゃなんのために結婚するのか、わかんないよね」
「馬鹿ね、あんたはご飯を作ったり毎日シャツにアイロンをかけるために結婚するわけじゃないでしょ」

 それはそうなんだけど。
 相変わらず名前の声は弱々しい。長い睫毛が頬に影を作っている。彼女が言う普通の幸せは、なんて難しいのだろう。

「…わたし、ちゃんと悠仁のこと幸せにできてるのかな」

 名前が吐くため息の濃度がいっそう濃くなった。名前の耳には彼女の誕生石で作られたピアスが光っている。いつだったか、悠仁がくれたの、と照れ臭そうに話していたピアスだ。その時は、あいつもなかなかセンスがあるじゃないと思ったものだ。温度が高いと錯覚させる光を浴びて、左手の薬指のシンプルな指輪は発光している。
 相手に何をしてあげたから幸せにできるだとか、そんな単純な話じゃないことは名前だってよくわかっているはずだ。幸せの形なんてきっとどこにも定義はないから、そんなに苦しまなくてもいいのに。
 ああ、これがマリッジブルーというやつなんだろう。どうしたものか、私はグラスの底に少しだけ残っているお酒を飲み干した。まだ生涯を共にする相手を見つけられていない私からすれば、たったひとりのことでこんなに悲しくなったり悩んだり、嬉しくなったりできるのは、とてもすてきなことだと思うのだけれど。

 大丈夫、絶対に、だいじょうぶよ。あんたたちは絶対に幸せになれるわ。私が言うんだから間違いないないでしょ。だって、あんたの隣にいる虎杖の顔はあんなに。
 どうせ明日の夜に虎杖が出張から帰ってきたら、ふたりは手を取り合って笑い合うのだ。大丈夫。私がそれをちゃんと確かめてあげるから、あんたたちは安心して、幸せになりなさい。


20200601
幸せになりなさい



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