雨月の夕


 雨季になるとそれまでのポカポカ陽気が消え、ジメジメとした空気が辺りに流れ始める。春の終わり、梅雨の始まり。季節の変わり目に当たるこの時期は、私にとっての地獄でもあった。
 私は雨が嫌いだ。髪の毛は嫌に跳ねるし憂鬱な気分になる。ただでさえ呪霊討伐で精神がすり減っているのに、どんよりとした空気すら吸わなくてはならない。気分が乗ることも無いし、濡れる事が多いので雨は嫌いだ。しかも梅雨に入るとそれが毎日なので、私の気分は今奈落の底に転落していた。
 木でできた机に顔を伏せて、頬を擦る。ひんやりとした机が私の気分を少し落ち着かせ、和ませてくれた。この時間が一番の癒しと言っても良いだろう。雨の音が耳に入るのは癪だが、見なければ良いだけなので――私は極力窓から顔を背けた。
 と教室で一人黄昏ていると、突然音がして扉が開いたのだ。ゆっくりそちらに視線を向けてみるとそこには伏黒くんが居た。

「名字か」
「どうも伏黒くん任務お疲れ様。他の二人は?」
「虎杖は先生と話し込んでる。釘先は見かけてないな」
「そっか。って服びしょびしょじゃん、どうしたの?」
「服……あぁ、傘忘れてきた」
「だからそんなに濡れて、着替えてきた方が良いんじゃない?」
「そのつもりだ」

 淡々と受け答えをする伏黒くんは、そのままカバンを机にかけて窓の外を見つめた。窓の外は相変わらずの土砂降りで、寮に帰ることすら煩わしく感じる天気だ。あと少し雨足が収まれば多少気分も良くなるのに、なんて思いながら伏黒くんに近付く。
 この雨の中で傘をささないまま帰るのは少し酷だ。まぁ呪術高専には寮と学校を繋ぐ廊下もあるにはあるが、何せ遠い。普通に濡れてでも寮へ行った方が早いし楽だった。
 ――でもこれ以上濡れられて風邪を引かれたら困る。私の傘はどうせ今日は使わないんだから貸そうかな。思考し辺りをキョロキョロと見つめる。ついで傘立てに私の傘が入っているのを確認してから開口した。

「でも寮まで距離あるよね、濡れちゃうし。あ、私の傘使う?」
「お前の?」
「うん。私どうせ今日は学校に居るから使い時が無いの、だから使ってよ。あ、ちなみにちゃんと無地のやつだから伏黒くんが使っても違和感無いよ」

 言いながら傘立てに近寄り傘の柄を握る。この傘は以前街の方へ行った時に買った物だ。安売りをしていて、ついつい買ってしまった事をぼんやり思い出す。あの日からほとんど雨なんて降らなかったから、使い時が無かったんだよね。良かった使い時が来て。
 傘立てから傘を引き抜いて、それを伏黒くんに差し出す。傘は無難に茶色で誰がさしても違和感を感じない物だった。

「はい、これ」
「悪い」
「良いよ。また返してね」
「あぁ」

 私の傘を受け取った伏黒くんは、教室の扉を開けて足早に廊下へと出ていった。木で出来た床に彼の足音が反射して、やがて消えて行く。
 これでまた教室に一人だ。ちょっと寂しいなだなんて似合わない言葉を並べ、机の方に足を向けた時。遠くから足音が聞こえてきたのである。しかも足音は先輩方の教室などで止まることは無く、段々と大きくなって来た。
 この足音……伏黒くん、忘れ物でもしたかな。荷物まとめて置いていってたし、と椅子に座りながら頭を巡らせる。ついで資料に手をかけると教室の扉が勢い良く開いた。一旦資料を置いて、私は扉の方へと振り返る。

「どうしたの伏黒く……じゃない虎杖くん!」
「よっ」

 片手を上げて入って来たのは伏黒くんでは無く虎杖くんだった。ピンクの様な金髪の様な淡い髪に大きな瞳。身長は伏黒くんと同じくらいで、特別筋肉ががっしり付いている訳では無いが――しかし、どこか男の子らしさを感じる。
 梅雨で少し肌寒いのにも関わらず彼の服装は半袖で、私は「半袖で寒くなかった?」と問いを投げた。虎杖くんは席の方に移動しながら口を開く。

「そこまで寒くは無かったと思うけど」
「じゃあ私も今度から半袖にしようかな」

 虎杖くんの基準で物事を考えたら少しズレてしまうかも知れないが、長袖で居るのもそろそろ辛くなって来た。まだ梅雨なので暑苦しさは感じないが、来週辺りになれば長袖は地獄になるだろう。今のうちに身体を慣らしておかねばならない。
 それじゃあ明日にでも衣替えしなきゃなと考えた時。ふと、虎杖くんの服からぽたぽたと雨水が滴っている事に気がついたのである。

「虎杖くんもびしょびしょだね。皆濡れて帰って来たの?」
「バスに乗ってたら急に降り出してさ、着いた頃には土砂降り。コンビニもねぇから傘も買えずじまいで結局走って来た」
「そっか。て事は野薔薇ちゃんもびしょびしょって事だよね、こっち来るかなぁ」
「いや、家入先生の所行くって言ってた気がするから多分そっち」
「えっ、また怪我したの?」
「見た感じは元気そうだったけどな」

 野薔薇ちゃんの術式は特に怪我をしやすい。無茶をする虎杖くん程では無いが、いつも小さな怪我を沢山作っていた。稀に大怪我をするので今回はそっちかと思ったのだが、そこまで悪くは無いらしい。一先ず大怪我しなくて良かったと安堵の息を吐きつつ、虎杖くんの姿に目を向ける。

「虎杖くんは大丈夫?」
「俺?」

 「うん」と頷くと虎杖くんは身体のあちこちを見回した。手のひらに肘、それから足や肩までじっくり見た後。まだ幼い表情を向けて口を動かした。

「俺は平気。痛みもねぇし、今回はそもそもあんまり戦闘してないからな!」
「へぇ、虎杖くんが戦闘しないなんて珍しいね」
「なんか伏黒と釘先が先々に行っちゃって、探してる間に終わったっぽいんだよ」
「あの二人が先にか……虎杖くんと伏黒くんが先に行くのはよく見るけど、それも珍しいね」
「だろ?」

 伏黒くんはともかく野薔薇ちゃんが先に行くのは珍しい。と言うのも任務に出て真っ先に狙われるのは私か野薔薇ちゃんなので、普段はなるべく後方で気を張りながら呪霊を探すのだが――どうやら今回は何か訳ありだったらしい。

「まぁでも、あんまり怪我なくて良かったよ。私もずっと心配してたから少し安心した」
「そういや名字は? 確か別件だっけ」
「そうそう。ちょっと私の術式でしか解決出来ない問題が起こってね、新幹線に乗って田舎の方まで行ってた」
「新幹線」
「久々に乗ったけど結構快適だったよ」

 今回の任務は私だけ別件だった。本来呪術高専の一年は団体になって任務に当たる。どんな簡単な物であれ必ず揃って出向くのだ。だが稀に別件で徴収される事がある。今回はそれだった。
 新幹線に乗って田舎にまで行った記憶を彷彿させる。最初こそ仲間が居なくて不安だったが、案外普通に任務をこなす事が出来た。いつもより動きは鈍かったかも知れないが、完璧に任務を遂行出来たので及第点だろう。
 虎杖くんは「そっか、お疲れ」とだけ声を掛けて机の上に白紙の紙を置いた。

「虎杖くんは寮に帰らないの?」
「俺はちょっと先生に用事があってさ」
「五条先生? それとも学園長?」
「五条先生の方。探したんだけど見つからねぇの」
「あー、それなら暫く帰って来ないかも。一時間くらい前かな、先生が教室に来て留守にするから宜しくって言ってきたんだよね。だから多分当分は帰って来ないと思うよ」
「マジか」

 すぐ会えると思っていたのだろう。虎杖くんは少し目を見開いた後手を後頭部に持って行った。なにか大切な用事だったのだろうか。もし早急に解決せねばならない事なら、先生を呼び出せない事も無い。「どうすっかなー」と頭を掻きながら言う虎杖くんに、私は質問を投げかけた。

「急ぎの用事?」
「いや、いつでも良いっちゃ良いんだけど」
「そっか、じゃあ先に服着替えて来た方が良いかも。そんなに濡れてたら風邪引いちゃうよ……虎杖くんは風邪とか引かなさそうなイメージだけど」
「ん、そうする」

 素直に返事をした虎杖くんはそのまま廊下へと向かう為踵を返した。対する私は慌てて後を追いかけて、傘を貸すために傘立てを確認する。しかし、そこに傘は一つも入っていなかった。そう言えば伏黒くんに貸したので最後だっけ、と思考し息を吸う。

「傘……は伏黒くんに貸しちゃったから無いなぁ」
「すぐそこだし、俺足早い部類だから走るよ」
「結構な豪雨だよ? 大丈夫?」
「おう! 多分」

 屈託の無い笑みを浮かべた彼とは別に、私は眉を少し顰めていた。幾ら虎杖くんの身体能力が高いと言っても、この豪雨の中を送り出すのはさすがに良心が痛む。せめて代わりの傘があれば良いのだが都合よくそんな物は見つからなかった。

「心配だなぁ。身体能力は確かにあるけど、地面とかぬかるんでるから転んじゃいそう」
「帰って来た時も確かに地面ぐちゃぐちゃだったけど、大丈夫じゃね?」
「かなぁ。あ、暇だから校門までお見送りするね」

 一先ず自分の目でどれだけ酷いかを確認する為、虎杖くんと共に木でできた廊下を歩く。木特有の軋む音が雨音と混ざって、辺りに良く反響したのだ。そんな静寂の中で最初に口を開いたのは虎杖くんの方だった。

「名字は教室で何してんの?」
「んー。暇つぶしと呪霊の報告書を纏めてたの、結構な量あるし提出明日だから急ピッチで進めてた」
「……もしかして邪魔した?」
「ううん。丁度休憩しようとしてた所だから大丈夫」

 言いながらさっきまでの事を想起させる。私が行っていたのは過去十年程の呪霊に関する資料の纏めだ。紙が劣化しているもの、破けているもの、文字が消えてしまっているもの。そう言う資料を集めて再度新しい紙に書き写す。
 本来なら先生や補助監督さんがする仕事なのだが、今現在は繁忙期で誰も学内に居ない。ついで私は呪力操作がまだ不十分で、任務はあまり任せられない立場にあった。つまりこの仕事が今の私に最適だと言う事だろう。皆の様に戦って活躍出来ないのは残念だが、私の呪術は発動条件が厳しい。こうして裏方作業をしながら能力を鍛えるのが最も効果的だった。
 虎杖くんはホッと息を吐いた後、少しポケットに手を入れ込んだ。そう言えば虎杖くんは五条先生を探していたらしいが、一体先生に何の用事だったのだろう。様子を見るに急ぎじゃ無かったとしても大切な用事の筈だ。それが気になって、私は言葉を放つ。

「虎杖くんは先生に何の用事だったの?」
「今日出没した呪霊の話」
「報告する程強かったの?」
「んいや、強さはそこまで」
「……もしかして、あんまり公言できない話?」
「そう言う訳じゃねぇけど、ただ特級――つーか指に関係ありそうでさ」
「なるほど。あ、だから二人が先行したんだ」

 二人が虎杖くんより先に行った理由、それは安易に指を食べられ無い様にする為だろう。と言うのも虎杖くんが指を食べれば食べるほど、彼の中に眠る呪霊――宿儺の力が強くなる。虎杖くんは何千年に一度の確率で生まれる宿儺の器ではあるけれど、いつ呪霊に意識を乗っ取られるか分かったもんじゃなかった。
 しかも、過去には勝手に指を食べたと言う事案もある。そこを二人は警戒しているのだろう、と考えた所で虎杖くんが足を止めた。

「あ、傘」
「え? あ、本当だ。結構古い傘だね、埃も被ってるし――卒業した先輩のかな」

 廊下の隅にぽつんと置かれた傘はかなり年季が入っていた。所々サビもあるし、壊れているようにも見受けられる。けれど使えそうではあった為、私は柄についた埃を払って手に持った。ついで持ち手に名前など無いか探してみたが、書いている様子は無く――やはり卒業生の物だろうかと思考する。

「拝借しちゃおっか。見た感じそこまで壊れてなさそうだし、使われてる様子も無いし」
「一回使ったら壊れそうだけどな」
「その時は……その時だね。使われずに捨てられるよりはマシだと思うし、何より外は凄い雨だし」

 未だ降り続ける雨音を聞きながら、私は傘を再度持ち直した。少し頼りない傘だけれど穴が空いている訳でも無いし、何より使える。もし先輩の物でまだ使って居るのならば、使った後で謝れば良いし――と楽観的に考えて、傘と共に玄関へと向かった。
 呪術高専の敷地は広いが、校舎自体はそこまで広くない。だから教室から外への移動は容易な物だった。生徒数もそれほど居ないし快適に歩ける。特に呪霊の繁忙期には人っ子一人居なくなるので、その時期に廊下を歩くのは何とも爽快だった。
 そんなことを考えながら歩く事恐らく二分。私たちは雨の影響か、床がぐっしょり濡れた玄関に辿り着いたのである。

「思ったより酷い。先の道なんかぐちゃぐゃだし、よくこんな中走れたね三人とも」

 玄関を出て地面の様子を見てみると、そこは普段と打って変わって酷くぬかるんでいた。よく見ると小さな川も出来ている。随分と滑りやすそうにもなっているし、改めて良く走れたなと感心した。ついでボロボロの傘をさし、一歩外に出てみる。途端に大粒の雨が傘に当たって、そのまま弾けた。

「うん。傘は大丈夫、後はこの耐久度が寮まで持つか問題だけど」
「風強くなって来てんね」
「ホント、台風でも来るんじゃ――うわっ!」

 傘を少し前に倒し、風に反抗しようとしたその時。一気に風が吹き荒れて、バランスを崩してしまった私は地べたに倒れ込んでしまった。泥が背中にベッタリと付着したのか、体が途端に重たくなる。あぁ最悪だ。この服まだ新しいのにと小言を脳内で浮かべつつ、虎杖くんがこちらへ近付いてくる様子を見つめた。

「大丈夫か!?」
「大丈夫。言ってる側から滑っちゃったみたい……うわ、思ったより泥だらけだ」

 言いながらも肘や足部分を見て、多量に泥が付いている事に気が付く。この状態で校舎に戻るのは不可能だろう。汚してしまうし、何よりこんな姿誰にも見られたくなかった。しかし起こってしまった事は変えられない。諦めて寮に帰ろうと決意して立ち上がらうとすると、虎杖くんが手を差し伸べてくれた。その手に甘えて私は起き上がり、壊れかけの傘を再度持ち直す。

「流石にこの状態じゃ教室戻れないな。虎杖くん一緒に寮まで行っても良い?」

 「おう!」と快活に答えてくれた虎杖くんは、今度「傘いいか?」と私の手から傘を取って雨から身守ってくれる。無意識なのか傘はこちらに少し傾いており、ほんのりと彼の優しさを感じた。
 虎杖くんは誰にでも優しく平等に接してくれる。偏見をあまり持たないタイプなのだろう。どの任務に同行しても彼はそう言った“優しさ”を確かに持っていた。人間だれしも虎杖くんの様になれば、きっと更に平和な世界になるだろうな――と考えたのは数しれない。
 しかし、そんな虎杖くんには死刑が課せられている。理由は簡単、彼の取り込んでいる両面宿儺は特級呪霊の中でも危険とされているからだ。もしこの呪霊が復活すれば誰にも手出しはできないと言われている程、宿儺は強い。過去の文書を見てもそれは明らかだった。だから、宿儺が虎杖くんの身体にいる間に殺してしまおうと言う魂胆なのだろう。

「虎杖くん」
「ん?」
「実は買い置きしてたプリンが冷蔵庫に沢山あるんだけど、食べきれる自信が無いから虎杖くんにあげるね」

 けれど今の時間は、こうして皆と普通に過ごしている時間は死刑や悪いことを思い出さないで欲しい。彼にとって楽しいと思える時間であって欲しい。そう願いながら、今にも壊れそうな傘を虎杖くんと一緒に支えた。

topback