猫目鋭角


 ぱらぱらぱら。
 私の眼下に広がる、あたり一面の真っ黒なアスファルト。細かい石が集合して固まったところへ、それよりもずっと細くて繊細な雨がとめどなく落下して、砕けている。ぱらぱらぱら。まるで時計の秒針みたいに規則正しく、けれど、砕けた雨は命を得たように好き勝手、四方八方飛び散る。無論、私もその影響を受けて、ローファーの爪先は濡れているし、夏服に変わったばかりの薄い靴下は、すっかり湿っていた。

 ぱらぱらぱら。頭上からも足元からもとめどなく聴こえて、なんだか私は世界でひとり取り残されたようにも思えて、少し、寂しかった。けれどなんだかんだ言って、私は雨の日は嫌いじゃない。理由も思い出せないけれど、嫌いではないのだ。

 どうでもいいことで時間を潰しながら、私はグレーの重たい雲に目を細める。雨は嫌いじゃないけれど、早くやんでほしい。せめて傘さえあればいいのに、と昨日の自分の準備不足を恨めしく思う。梅雨に入って間もないが、文字通りずっと雨が降っているんだから、忘れるなんてなんて愚かなんだろう。濡れて帰ってもいいけれど、バイトで疲れているし、パートから帰った母からお小言をもらうんだろうなぁと思うと水を含んだローファーをぐしゃりと音を上げてまで帰る気持ちは無に近くなってしまう。

「どうかしたの?」
「え、あっ………え?」

 もうなんもしたくないや、と大きくため息をついた時、突然、後ろから声がかかって肩が大きくはねる。ビニール傘をさしている同い年ぐらいの男の子。不思議な形の服を着ているけれど、よく見れば、それはバイト先のコンビニによくくる、この近所の私立高校の制服だ。

 彼の目が真っ直ぐ私を見ている。怖いというか、何もかも見透かされてしまいそうな目だ。怖い。いや、違う、“彼”の目は穏やかだ。ただ私を心配している。

 全く種類の異なる感情が私の中を駆け巡っていく。

 “彼”の目の下にある目の形をした傷へ、どうしようもなく脳内で警報がなる。
 中途半端な言葉しか言えない私に、彼は少し照れたように、目の下を掻いた。あー、うー、としどろもどろに呟いて、彼は口を開く。
 
「いや、なんか中途半端なとこで立ち止まってるから、なんか困ってんのかなって思ってさ。それで、あー、俺にできることなら手伝いたいっていうか」
「………なるほど?」
「迷惑だったらごめん!」

 彼はばっ、と勢いよく頭を下げる。上半身が折り畳まれて、挿していたビニール傘の先がが、アスファルトにぶつかる。脱色した髪と不釣り合いな態度に、なんだか、笑いがこみ上げてくる。ばかにしているわけじゃなくて、彼は紛れもなく善い人だと、不思議と確信したのだ。

「顔あげて、えと、君は……」
「あ、俺。虎杖。虎に杖って書いて虎杖」
「……虎杖くん」
「そう!あ、で、そっちは何に困ってんの?」

 虎杖くんは軽やかに自分の名前を名乗って、私の顔をあの目で覗き込む。琥珀色の目は雨のなかで薄暗かったけれど、とても綺麗に瞬いていた。ここまで心配してもらって、ただ傘を忘れただけとは少し言いづらいところがある。でもまっすぐ見てくれているのに、私が嘘をつくのは嫌だった。初対面の虎杖くんに嘘をいおうと、正直になろうと明日に影響なんてないはずなのに。

「お恥ずかしい話ですけど……えと、傘、をね」
「あ〜、そっか」

 心配して私に声をかけてくれたのに、ただ考えれば過ぎて落ち込んでいただけだと白状すると、少しだけ肩は楽になったけれど、反面、虎杖くんのいる方向に顔を向けられない。いや、さすがにこれは恥ずかしい。

「はい、これ使って」
「…………え?」

 さも当然みたいに、虎杖くんは私にビニール傘を差し出す。流石にこれには私も振り返って虎杖くんの顔をまじまじと見つめる。善い人だろうとは思ったけれど、これは、優しいが過ぎないだろうか。それとも雨の日に傘がなくて困っている人に誰彼ともわず話しかけて、傘を渡すボランティアでもやっているのだろうか。
 ボランティアでも、ただの良心でもあまりにも善い人がすぎる。

「いや、それは流石に申し訳ないというか!虎杖くんはどうするの?!」
「俺?俺はこのすぐ近くに寮あるから平気!」
「高専までそこそこの距離ありますよ?」
「なんで俺が高専って……?ああ、もしかして、そっちも関係者とか」
「私、ここのすぐのコンビニでバイトしてて…虎杖くんと同じような格好の人とかときどきくるので、それで」

 なるほど、と虎杖くんは納得したように頷く。「あそこのコンビニかぁ」と呟くので、少し耳が熱くなる。もしかしたら、今後も虎杖くんとは会えるかもしれない。ナチュラルにおかしい感情が湧いてきて、私は頭が真っ白になる。さっきのいまで私は虎杖くんのことをもっと知りたくなっていた。悪いことだとは思わない。おもわないけれど、強いて言えば、耳の奥まで、ううん、頭のてっぺんから濡れた爪先まで、全部が心臓になって脈打っているような、そんな、下手なポエムみたいな感情が、おかしいのだ。

「俺はコンビニで傘買うからこれは使ってよ」
「えっ?いいですって、私がコンビニ戻って傘買えばいい話だと思います!なんで今まで気づかなかったということもあるんですが……」
「ええ……つか、ここまできたら乗りかかった船だし……うーん」

 私と虎杖くんの間にぱらぱらぱらと雨の軽やかな音が滲み出るように聴こえている。虎杖くんとはあって十分と経ってないないけれど、こういうところは決して譲らないのだろうということは想像に難くない。じゃあ。

「案はひとつだけあるんですけど」
「え!ほんと?!何?」

 虎杖くんが一歩私の方に近づいて、顔と顔の距離が縮まる。私は十分に口の中を湿らせてから、ゆっくりと発音する。間違えておかしな意味にしてしまわないように。

「とりあえず、コンビニまで一緒に行きませんか?」

 ぱちぱちと虎杖くんが瞬きを繰り返す。え〜と、なんて口をもごもごとさせながら、人差し指で虎杖くんは己を指して、そのあと指を私の方へ向けようとして、中途半端な角度で停止する。自分が言ったことの重大さがじわじわと耳へ、顔へ、熱となって迫り上がってくる。

 穴があったら入りたいし、今日が雨で地面が濡れていなかったらその場に座り込んでしまったかもしれない。

「一つの傘に入るって、意味?」
「ほんとごめんなさい突然こんなこと言って!!知り合いでも引くのについさっきあったばっかりの女で!!怪しくて!」
「いや怪しいのは俺もだし……!そいや名前聞いてなかったんだけど、名前なんていうの?」
「……名字です」
「下の名前は?」
「名前、名字名前といいます」

 よし、名前な。と笑うと虎杖くんの顔全体がくしゃりとなる。あ。目尻のシワ、かわいい。ちょっと怖いと思ったら目立ったのに、もう印象が反転していることに私は蓋をする。都合よくったっていいじゃない。

「うし、そうと決まれば。ほい名前」
「いきなり呼び捨て……わ、虎杖くんそれじゃ肩濡れると思いますけど」
「いーよー別にそんなの」

 知らない男の子と一緒に傘に入って歩いている。もう名前と人となりを知ってしまったけれど、見えないボーダーラインを踏んだまま、虎杖くんは私は傘の柄ひとつ挟んだ隣にいる。ちらりと様子を伺えば車道側にある虎杖くんの肩は、ビニール傘から飛び出して、次々落ちる滴で黒い制服をさらに黒く変えている。

 多分私がもうすこし虎杖くん側によればいいのだろうけれど、これ以上近づいたらきっと笑われてしまう。ぱらぱらぱら。雨の日特有の湿気を含んだ空気のなかでも、身体全体が燃えるみたいに熱いのは肩が触れたら一発でバレてしまうだろう。

 歩くたびに私の足元からはぐしゃとかぺちゃとかざまざまな水の音が聞こえてくる。これじゃあまるで小さい子どもが履かせてもらう歩くたびに音が鳴る小さな靴を思い出す。黒い車が私たちの横を通り過ぎて、前の小さな水溜まりを超えていくのを横目で見る。水の音を激しく立てて行った車を見送りつつ、濡れた指先をローファーの爪先に押しつけて私が出している音を小さくしてみる。まったくの無音ではないけれど、さっきと比べれば随分とかわいいボリュームになった。小さく息を吐いて、黒いマンホールを大股で越える。

「あ」

 虎杖くんの声だった。振り返ると、彼の掌にはスマホが握られている。私の視線に気づいて虎杖くんの目が細められる。うーん、と唸ってから、よし!と大きな声を上げる。せわしないな。

「ちょっと俺ガッコから呼び出されちゃってさぁ、後はこれ名前が使ってよ!」
「いやそういうわけにはいかないので……急ぎならこれ持って走って行ったほうが」
「それなら車きてるらしいから平気!」

 私の手を傘の柄に添えさせて、傘の外へ出てしまった虎杖くんはなぜかまだ私の前に立っている。それから、かがんで私の顔を覗き込んできた。優しい榛。傘を叩くぱらぱらと規則的な音。男の子見つめ合うなんて耐性がないから、顔から火でも出そうだ。榛から逃げるように彷徨わせたふにゃふにゃの視線は、目のすぐ下の怪しい何かに縫い付けられる。遠目からとはだいぶ印象が違って、切り傷というよりも閉じられた瞼のように見えた。

「名前」

 そのあとには、言葉は続かなかった。何か言おうとしているようにも、さよならをいうタイミングを探してるようにも見えた。「じゃあ」と笑って、虎杖くんはまた傘の外へ出た。細かい雨がぱらぱらぱらと止めどなく降っている。すぐに背中を向けて雨の中を走り去ろうとするのはなんだか漫画的で、ついてない日にはとても美しく映えていた。もう会わないかもしれない、笑顔が綺麗な人と一緒の傘のなかに入った。多分私の人生においてもう経験しないだろう、もうひとつの綺麗なこと。

 ただ美しいだけなら、それだけなら、写真だっていいんだ。笑った笑顔の目の角度が綺麗だとか好きだとかそういう話じゃないだろう。

「虎杖くん!!」

 離れて小さくなった背中を呼び止める。赤いパーカーの着いた不思議な形の制服をきた彼が振り返る。ぽかん、とした顔が遠くからでもよくわかって、そのままのボリュームで虎杖くんに話しかけた。

「この傘!必ず取りに来てね!」

 くしゃり。多分、虎杖くんの笑う動作に音をつけるとしたら、そんな音だ。顔全体で笑うそれは本当に綺麗で、かわいい。大きく両手で丸を作ってくれた。また、会える。

 そうこうしているうちに、虎杖くんの近くに停車した車から出てきた黒髪の男の子に頭をはたかれて、虎杖くんも車に乗り込む。虎杖くんはドアを閉める前に、私の方へ手を振ってくれる。勢いがいいから残像がいくつも重なっていて、私は口が緩むのを堪えられなかった。なんか、もう、犬みたい。虎って字を書くんだって言ってたのに。

 多分。まだ、雨はやまない。


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