わたしの光が幸せであるように


 名前が俺の名前を呼んでくれる声が好きなんだよね。
 悠仁くんはそう言って、ちょっと照れ臭そうに笑っていた。だから私は何回だって何度だっていつだって彼の名前を呼んでいたかったのだ。それなのに、彼が死んだと聞かされた時はそういう小さな決め事とか、驚きと絶望と喪失感とかがいっぺんに襲ってきてどうにかなりそうだった。「私が名前を呼んだって、聞いてくれる悠仁くんがいないんじゃ全然話にならないじゃないか」と彼を詰る言葉は沢山出てきたのに、涙は一滴も出なかった。自分たちだって傷ついていただろうに、そんな私を心配してあれこれと気を回してくれた同級生二人と、悠仁くんが死んだと聞かされ酷く傷ついた私が馬鹿みたいだと怒るのも仕方ない。だって悠仁くんは生きていた。腹立たしくて嬉しくて嬉しくて、私は今度こそ泣いてしまったけれど、ちっとも嫌な涙ではなかった。悠仁くんが目の前でわたわたと慌てて、困ったように眉を下げて謝るので仕方ないなあと許したのも、ほんの少し前の話。もう途方もなく昔のように感じられるのは、京都校との交流戦で色々あったことも一因にあるのだろうが、今までよりずっと一緒にいる時間が増えたからもあるのかもしれない。
 つい今年の春まで、仙台で全日制普通科の高校に通っていた彼には、私の知らない過去の時間が沢山ある。私は生まれた時からずっとこの世界に身を置いているせいで、そういう「普通」みたいなものがわからない。そしてその悠仁くんが過ごしていた「普通」の時間を自分が知ることも、もうできない。私が出会う前の悠仁くんに、私は絶対に出会えない。それが酷くもどかしいと感じる時があって、彼が一度死んでしまった時から余計に強く感じることが多くなって、そうして今のこの瞬間もいつか過去になる時が来るのだと、身に染みた。だからこそ、今少しでも一緒にいたいと願った自分に、悠仁くんは困ったような、照れ臭そうなそんな顔を浮かべて「俺も同じこと思ってたよ」と言ってくれた。少しずつ、お互い合間を縫っては顔を合わせて、名前を呼んで、そういう時間を増やしていった。
 悠仁くんと出会ってから、私の呪いに塗れた暗くて陰鬱とした世界が急に熱を持って色を持って、そして眼前で輝き出したのだ。私はもう二度とこの人が私の見えないところで傷ついたり、居なくなったりして欲しくないとそう思った。重たいと、病的だと詰られても構わないくらい私はこの人を、悠仁くんを大事にしたかった。あの日、悠仁くんが生き返って、初めて二人になった日。躊躇いがちに繋いだ悠仁くんの手のひらが、やっぱり私の世界の真ん中だと思ったのだ。
 彼が好きだと言ってくれるから、私は何度だってこの人の名前を呼びたいと思う。彼が私の名前を呼んでくれる声が私も好きだと言えば、彼も笑って「じゃあたくさん呼ぶよ」と言ってくれる。優しい人だから、傷ついて欲しくない。でも呪術界は、悠仁くんのたったひとつの命すら己の掌中にあるのだと、生殺与奪はこちら側にあるのだと言わんばかりで。悠仁くんは悠仁くんでしかないのに、お前は呪いだと、殺すべきだと言ってのける。それが腹立たしくて悲しくて、でもそれを理解してしまう私もどこかにいて。そんなことを考え始めてしまえば、根っこからこの世界に染まる私を赦せなくなって。掻き消すように悠仁くんの顔を見上げてしまう。アイスを齧る悠仁くんの横顔はぼんやりとしていて、どこか遠くを見つめていた。
 この人は、あの日から時折、こんな顔をする。

「すきだよ」
「ぅえっ!? なに、とつぜん、どしたの?」

 唐突に、脈絡もなく、私の口は恋を囁いた。ぽろりと出ていった言葉だから私だって驚いたけれど、それ以上に目の前の悠仁くんは驚いたようだった。右手に持っていた溶けかけたアイスが棒を伝っていくのを見た悠仁くんは慌てて左手を器のように丸める。「ごめん、それで、どしたの?」と首を傾げた悠仁くんは、私が囁いた恋の理由を聞いているのだろう。
 
「何もないよ。言いたいこと言いたい時に言うようにしてるだけ」

 伝えたいことを言えないまま、また目の前からこの人がいなくなると思うと、不安で仕方なくなることが増えた。もっと自然に、そういう雰囲気になった時に言えればいいのに、唐突に恋を囁く私の口は不器用だった。
 ぱちぱちと目を瞬いて「そっかー」と相槌をうった悠仁くんは、溶けかけていたアイスを一口で食べ終えて律儀にそのアイスの棒を捨てた。私の隣に戻ってきた悠仁くんは、私の掌をぐっと握る。

「俺もすきだよ」
「あはは、バカップルみたいだねえ」
「いいじゃん、バカップルで」

 口を尖らせてそう言う悠仁くんに「そうだね、私たちバカップルだった」と笑えば、悠仁くんは笑ってくれたけど、ふと寂しそうな色を瞳の奥に覗かせる。

「悠仁くん」
「ん?」

 何かを誤魔化すように、強く握られた手が痛かった。
 呪術師の顔になった。ついこの間まで、私の知らないところで高校生だった悠仁くんが。きっと死んでいることにされていた間に何かあったこと、悠仁くんが私の知らないところで傷ついたこと、全部全部わかるのに、私では彼を救い導いてあげられない。私は呪術師だから、彼をこちらに引き込む側の人間だから。それなら、それなら、私はこの人に何が出来るだろう。
 笑っているのに、たまに不安定にぐらついている。ただでさえその身の内に到底人には御しきれもしない呪いを飼っているというのに、少しだって泣いてくれないこの人の戻ってくる場所になれたらいいと、そう思った。いつか、いつか、そんなことは考えたくもないけれど、この人がその身の内に呪いに喰われてしまう日が来たとして、そして戻って来れなくなる日が来たとして、それでも私たちが、私が、この人の帰ってくる場所になれたらいいと思った。
 強く握られた手を、私がぐいと引いて悠仁くんがぐらつくなんてことは無かったけれど、ゆらゆら揺れる瞳はこちらを向く。強引に首元を引き寄せれば、存外大人しく私に抱き寄せられる形に収まってくれた。

「今日まじで、名前さあ、どしたの?」
「はやく泣いてくれないかなと思っただけだよ」
「はは、なにそれ」
「なんで泣くのを我慢しちゃうのかなあ」
「かっこわるいじゃん」

 どんな格好でも、悠仁くんはカッコイイよ。いいんだよ泣いたって。だって私たち、こんな仕事しているけどちゃんと人間なんだから。傷ついたら泣いたっていいんだよ。呪術師って大抵どっかイカれてるけど、それでも私たちだって人間だ。
 抱き寄せた逞しい肩が震えて、私の肩口が生ぬるい熱を持った。私は悠仁くんのちょっと硬い髪の毛に指を入れて顔を埋める。
 何があったのかはわからないけれど、何かがあったのはわかる。でもね、私は生きていてくれてありがとうって、悠仁くんに言いたいよ。そんなふうに、小さく囁いた私の声は、悠仁くんが鼻をすする音で掻き消えた。

「……なんで泣いてるのか、わからなくっても、でも、ちゃんと意味があるよ。なんで泣いているのか、上手く言えなくても、でも、悠仁くんの今には意味があるよ」
「……うん」
「悠仁くんより力はないし、同じ歳だけど、私は悠仁くんよりちょっとだけ長くこっちにいるからさ。そういうの、麻痺したりしちゃうこともある。でも、悠仁くんはそのままでいいんだよ。麻痺なんかしない方がいいんだ」

 人が傷つかないように自分が傷つく悠仁くんがとても痛々しくて、苦しくなるけれど、そういう優しさが好きだ。それでもやっぱり、出来るなら傷つかないで、明るく、笑って、そして幸せでいて欲しいと思う。そしてその幸せの傍らに、出来ることなら私が居たいけれど。
 黙ったまま悠仁くんを肩口に抱き寄せて、その髪を撫でつける時間を過ごした。
 それから暫くして悠仁くんはぱっと私から体を離したけれど、それでも、手は強く握られたままだった。悠仁くんは着ていたパーカーの袖口で乱暴に目元を拭うと、赤くなった目元を弓なりにしてばつが悪そうに笑う。それを見て私もすこし口元を緩めてみせた。

「はー、泣いた泣いた」
「すっきりしましたかね」
「しました! あー、やっぱ俺かっこわる」
「そんなことないってば」

 そうかなあ、と顔を曇らせた悠仁くんはぽつりと、だってさ、と続けた。今度は私が悠仁くんの声を聞く番だった。

「俺、本当に、いっつも名前に貰ってばっかだよ。こっち来て、名前に会えて、本当に良かったって思ってる」
「なんだ、急に、改まってさあ……」
「なんか、なんてーか。……えー、なんて言えばいいんだろ?」
「ええ、わかんないよ」
「だよなー……」

 うーんうーんと、首を傾げては口を開こうとする悠仁くんを見上げた。その瞳は確かに光を湛えていて、ほっと息をつく。
 私は彼とのこれから築くはずだった思い出が、この人の声が、その目の光が失われた時間を知っている。それをもう一度失うかもしれないのは、とても怖くて、淋しくて、苦しいことを知っている。だからもう二度と、失いたくないものだった。

「なんか、こう、小さい時に思ってた未来とは、当たり前だけど違ってさ。でも爺ちゃんが死んで、伏黒に会って、宿儺の指食って……五条先生と会って、そんで、まあ、俺は一応死刑囚なんだけど。こっちに来て、それでもいいって言ってくれた名前に会えたこと、全部よかったなって、思える」

 辛いことがあった。悠仁くんは、詳細は語らなかったけれど、それでもそういうことがあったのだと、初めて零した。
 漸く呪術師に向き合えた気がする。でも俺は、この道を選んだことを後悔しない。間違ってない。生き様で後悔はしないって決めたから。だって今、ここに皆いて、名前がいるから。俺の帰ってくる場所がちゃんとあるって思うよ。
 そう言ってそっと口を閉ざした悠仁くんの眼差しは酷く真剣で、私もそれを真っ直ぐ見つめ返した。心臓は甘く締め付けられて、今この瞬間私たちは間違いなく二人だけの世界にいた。そんなの馬鹿みたいだって言うかもしれないけど、悠仁くんが傷つかないのなら、私が呪いから逃げられるのなら、ずっと二人きりの世界にいたいと思ってしまう。そんなことあるわけない、あるわけなくても、そう思ってしまった。
 だって、悠仁くんは、幸せだろうか。こんな、暗くて辛くて苦しいことばかりの、これから先もそれがある事だけは確約された世界で、そんな世界に染め上げられた私なんかと居て、そんな私を恋人にして、私はもう彼のことを諦めてあげることなんて出来なくて、それでいいのだろうか、と。そういうことを、時々考える。
 悠仁くんはふと目元を緩めて、私のおでこに悠仁くんのおでこをくっつけて、照れ臭そうな、私が一番好きな顔で、ひみつの宝物の在処を教えるみたいに囁いた。

「なんかさ」
「ん?」
「幸せってこういうことを言うのかな、って思った」
「……幸せなの?」
「幸せじゃん。だってどんなに遠くなったって、名前が俺のこと待っててくれるんだし」
「…………うん、そうだった」

 遠くなる、とは何を指しているのか。悠仁くんはこれだとはっきりとは言わなかったけれど、それでも何を言いたいのかはわかってしまう。
 進んで死にたいとは思わない。でも、死ななくてはいけないこととか、自分ではどうしようもなくて死ぬしかない時は絶対にある。死にたくない、と思わなくなる日も多分ある。自分を犠牲にしてでも、誰かの平穏を取り戻すのが私たちだから。でもそれでも、そうなったとしても、帰ってくる場所がどこかにある。それは私にとっての悠仁くんで、悠仁くんにとっての私で、お互いの終焉がそこにある。それは最適でいて最愛の証明で、約束だった。
 約束は、お互いを縛る枷であるけれど、約束を交わした相手との未来でもある。だって約束は、果たされるために交わすのだ。それが果たされようと、果たされずとも、大切な貴方と交わす約束だから意味がある。意味を持つ。貴方との未来を願っている、とそういう想いを全部詰め込んで、私たちは約束をする。
 ねえ、と目の前の年相応よりずっと大人びてしまった恋人に呼びかける。

「約束しようよ。たくさん」
「やくそく?」
「うん。悠仁くんとちょっとしたことでも『約束』したい。それを達成出来たら、また別の約束を、それも達成できたら、また別の約束を」

 そうすれば、きっと、帰りたいなって思えるよ。だって、約束は守るものでしょう。遠くに行きそうになっても、遠くに行くことになっても、それでも約束があれば、私たちはずっとどこかで繋がっていられるし、未来があるかもしれないって思えるよ。変なことを言っていると思うかもしれないけれど、私と約束をして欲しいの。悠仁くん、ねえ、ダメかな。
 縋るような声になってしまった。情けなく震えてもいる。重ねられた手のひらと、額の熱が悠仁くんに伝播しそうだと思った。震える瞼をそっと持ち上げて、悠仁くんの瞳を恐る恐ると見つめ返す。悠仁くんはきょとんとして、そうしてまた笑った。
 ああ、と私は息をつく。この人は、いつだって優しい。私にその笑顔を向けてくれたことが、凄く嬉しかった。

「うん、いいね、それは、すごくいいと思う」

 柔らかく微笑んだ悠仁くんは、するりと私の髪に指を差し込んで、囁いた。

「約束しよう。ひとつめ、名前が俺の名前を呼んでくれるのが、嬉しいから、これからも沢山呼んで欲しい」
「うん、約束する。……私もね、悠仁くんに呼ばれる私の名前が好きだから、沢山呼んで欲しい」
「うん、約束する」

 そう言うや否や、悠仁くんは勢いに任せたようなキスをした。そんな悠仁くんに驚いて目を瞬いていると、悠仁くんは真剣な顔でこちらを見つめる。

「あとさ」
「約束ふたつめ?」
「うん」

 俺も、名前も、二人で幸せになろう。俺は名前にたくさん貰ってばかりだから、たくさん名前に返したい。だから俺ばかりが幸せになるんじゃなくって、そうやって、二人で幸せになろうよ。
 そう言って今度は、どちらともなく唇を合わせて、二人で真っ赤な顔を見合わせて笑った。
 思い悩んでいたことすら、もうどうでもよくなった。だって悠仁くんは、私と二人で幸せになると言ったのだ。私だってそう思うのだから、それでいい。私がひとりで悠仁くんについて悩んでいたって、どうしようもない。それは諦めでもあり、最適解でもあった。

「悠仁くんの、それ、なんだかプロポーズみたいだね」
「えっ、あ、いや、……でも、うん。じゃあ、そんな感じみたいな意味にする」
「あははは、うん、そうだね。二人で幸せになろう」

 ゆびきりは、私たちには必要ない。ゆびきりのかわりに、もっと確かで、恋に満ちた、二人だけの口付けで交わすのだから。


topback