ブルーヘヴン


 六月の東京は青いと感じるようになったのは、いつからだろう。雨の音、アスファルトと紫陽花のコントラスト、晴れた日の空の色。歳を重ねることで、少しだけ世界への解像度が上がって、昔にくらべるとうつくしいと思うものが増えた。悠仁が待つ家までの帰り道の途中、六月を彩る花や光や色を探して歩いた。そうやって、綺麗なものを見ていないと、泣いてしまいそうだった。しかたのないこと、しかたのないことだと言い聞かせて雨の中を歩いていた。


「名前、おかえり」
「悠仁、話したいことがあって」

 たぶんわたしはその時、相当深刻な面持ちだったんじゃないかと思う。悠仁も何かを察したように強張った表情になった。
 とりあえず、座って、と手招きされてふたりで選んだソファーに座る。お茶でも飲む?外暑かったでしょ、と聞かれたが断った。そして、重たい唇をゆっくりと開く。

「わたし、悠仁のことが本当に好き、結婚しようって言ってくれたことも本当に嬉しい」

 自分の左手の薬指を眺める。まだそこに指輪はない。花嫁には青色を纏うと縁起がいいと聞いて、デザインしてもらった水色のレース模様のジェルネイルがつやつやと光っている。

「わたし、正式に実家を継ぐことになったの」

 だから、わたしが虎杖になる日はこない。悠仁の顔をちらりとも見れずにそう言い切った。
 姉が急に結婚することになった。相当紆余曲折あったようだが、詳しくは知らない。愛する人と添い遂げることを決意したようだ。姉が愛した男は、自分の家よりも格が高い呪術師の家系の男だった。姉はその家に嫁ぐことになる。本来であれば姉が継ぐはずだった家督をわたしが継ぐことになった。言葉にすればたったそれだけのことだ。もちろん姉を恨んでいるわけではないし、虎杖悠仁という複雑な立場の人間を疎むことなく当たり前に家族として接してくれる両親のことも恨んでいない。しかたのないことだ。しかたのないことだけれど。

 わたしは。
 わたしは、虎杖名前として生きていきたかった。
 悠仁のお爺さんが眠るお墓の前で、永遠を誓ったことも、昔名字が欲しいと言ったことを、悠仁は律儀に覚えていて、同じ名字にならない?とプロポーズしてくれたことも、昨日のことのように思い出せる。人生で一番と言って差し支えないほど、嬉しかったのだ。何年も前にした口約束を覚えていてくれたこと。その約束が本当に叶う日がきたことが。
 それなのに、わたしはあなたの名字になる日は来ない。なんだかよくわからないけれど、心の底から寂しい。呪術師の家系に産まれなければ、と思ったけれど、そしたらきっと悠仁には出会えなかったと思い直す。
 ただの可愛いお嫁さんになれたら良かった。地獄のような日々の中で、背負った業の重荷を下ろせるような、悠仁にとってのそんな存在になれたら良かった。家を継ぐということは、可愛いだけではいられなくなるということだ。
 あなたの名字になる、世界で一番大切な約束だって守れないのに、このまま結婚したとして、わたしたち、本当に幸せになれるのかな。

「それだけ?」
「…それだけって、悠仁、虎杖じゃなくなるんだよ」
「結婚したくないですとか、別の男と結婚しますとか言われたらどうしようかと思った」

 そっか、俺、名字になるのかあ。なかなかかっこいいんじゃね?名前のお父さんとお母さん喜んでくれんのかな。
 父も母も、虎杖悠仁という人間のことを大層気に入っている。彼が名字家の一員になってくれるのなら、手を上げて喜ぶのだと思う。でもそれは、悠仁が気にすることじゃないのに。我が儘をいっているのはわたしたちなのに。

「ほんとに、いいの?家のことで嫌な思いたくさんさせることになるかも、それに、お爺さんひとりにしちゃう」
「…爺ちゃんは、大丈夫だよ、たぶん、どの家のお墓かとか気にしないタイプだと思うし」

 あ、でも、墓参りはこれからも一緒に行ってくれると嬉しいかな。悠仁は本当になんてことなさそうにそう言った。
 ほんとうに、いいのかな。数年経って、後悔したりしないかな。

「名前が俺のことで悩んだり怒ったりするのが、こんなに嬉しいことだって知らなかった」
「…あたりまえじゃん、そんなの」
「そっか、当たり前か」
「悠仁、本当にわたしでいいの」
「名前以外考えられないって、どんな状況でも一緒にいたいからプロポーズしたんだけど」

 涙を拭うのが間に合わなかった。しまった。絶対に、どんな結末になろうと泣かないと決めていたのに。頬を暖かい涙が伝った。

「名前、好きだよ」
「…わたし、悠仁のその言葉だけで無敵になれるよ」

 愛してる、と言ったわたしの言葉はちゃんと届いていただろうか。もしかしたら掠れて届いていなかったのかもしれない。それでも伝わっているという確信があった。
 無骨な指がわたしの指に重なる。指輪買いに行かなきゃな、わたしの左手を見ながらつぶやいた言葉の温度を、瞳の光の色を、決して忘れたくないなと思った。
 涙を拭って顔をあげると目が合う。悠仁の瞳の中には自分がいた。わたし、こんな風に笑うんだなあ。見慣れたはずの悠仁の笑顔が、こんなにも愛おしい。
 窓の外を見ると、さっきまで降っていた雨は止んで、澄んだ水色の空に虹がかかっていた。もうすぐ青色をしたこの街で、夏がはじまろうとしている。
 きっと幸せにする。大丈夫、わたしたち、幸せになれそうな気がする。



20200601
ブルーヘヴン


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