迫り来る春


虎杖悠仁と初めて会った時の衝撃を名字名前はまだ覚えている。
なにせ死んだと聞かされていた後輩が、五条が突然運んで来た箱の中に入っていたのだから。そしてそのまま交流会に参加すると言うのだからまた驚いた。

死んだと聞かされていた人が生きていたなんて経験はもちろん初めてのことだった。
それは喜ばしい話のはずなのだが、何故このタイミングでこんな現れ方をしたのか。名前は元担任を睨みつけ、目に涙を浮かべる野薔薇の肩を慰めるように優しく叩いた。
人数が増えたことで作戦を立て直さなくてはいけない。そもそも三年生が停学になったあたりから混乱してばかりだなと名前は頭を抱えた。
三年の先輩をかなり頼りにしていた所があったので戦力の損失は大きい。その上ほとんどど素人の一年生が直前で追加されるなど、思ってもみなかった。
東堂をどうするかという相談をしている間、彼女は視線を時折感じた。そちらを見やれば悠仁が大きな目をパチパチさせて名前の方を見ているものだから、彼女は首を傾げる。

「なに?」
「いや、先輩大きいなと思って。何センチ?」

その途端、場の空気が固まったのを二人以外の全員が感じていた。
名前はかなり背が高い。真希も女性にしては長身の部類に入るが、名前はさらに大きい。おそらく悠仁と同じくらいだろう。
そして彼女はそれを気にしているので、身長の話は誰も口にしないようにしていた。

「虎杖、デリカシー」
「名字先輩に身長の話は禁句だ」

野薔薇と恵が小声でそう言って虎杖を小突くのを見て名前は羞恥で顔が熱くなり泣き出したくなった。
彼女は幼い頃から他の子たちよりずっと背が高くて、もう少ししたらみんなも大きくなると信じていた。だがいつまで経っても名前だけが大きいままだった。
それは肉体が資本の呪術師にとっては歓迎すべきことなのだろうが、名前も女の子だ。背が高過ぎて嫁の貰い手が無いと貶され、可愛げがないと馬鹿にされ、そんなことを繰り返されてきた。
つまるところ名前にとってこの大きな背丈は最大のコンプレックスだった。それを初対面で容赦なく指摘されれば、恥ずかしくなって泣きたくもなる。
だがとうの本人は明るく、本当に悪気のかけらも無さそうな顔をしていた。

「なんで?背が高い女の人かっこよくない?俺、めっちゃ好きなんだけど」

その時、名前は死んだと思っていた後輩が生きていた事を知った時より衝撃を受けた。
ずっと呪い続けていたこの身長を好意的に受け止める異性がいるなんて思ってもみなかったからだ。

悠仁と名前以外の全員が、人が恋に落ちる瞬間というものを見た。
悠仁としては思ったことを言っただけで、彼女を口説こうなどという意図はなかったのだから厄介だ。まるで実ったリンゴが木から落ちるように簡単に名前は恋に落ちた。

こうして交流会直前の、夏に二人は出会った。


交流会が終われば、僅かばかりの閑散期を楽しもうと悠仁達はよく連れ立って遊んだが、二年生の先輩達も一緒にという場面が多かった。
「俺がいない間に伏黒と釘崎は先輩達と打ち解けたんだな」と彼は解釈し、そこには野薔薇と真希のある思惑があったことには全く気が付かなかった。

二人の思惑がほんの少し思い通りに運んだのは、彼らが棘の部屋に集まってゲームをしていた時のこと。
狭い寮の部屋で7人も集まり、スマブラ交流会と銘打って代わる代わるプレイしていたのだが、突然真希が野薔薇に目配せした。

「なんか、腹減ったな。一年誰かコンビニ行ってこいよ」

その視線の意味を正しく理解した野薔薇は小さく頷き、名前へ横目で合図を送る。

「虎杖、あんた力あるんだから行ってきなさいよ」
「別にいいよ。何がいい?」
「さすがに虎杖一人じゃ重いんじゃねぇの?」

真希も名前の顔を一瞥する。
名前はごくりと生唾を飲み込むと、大袈裟なくらい手を挙げた。

「わ、たしも行きます!」

授業中だってそんな風に挙手したことないだろ、と二人が部屋を出て行った瞬間にパンダが笑っていた。

「俺一人でも大丈夫だよ」

寮の外に出れば日が落ちたとはいえ汗が噴き出そうなほど蒸し暑かったので、悠仁は名前にそう言った。その台詞に彼の優しさと、自分に対する無関心を同時に感じてしまい名前は複雑な気分になる。
私なら暑くたって寒くたって、虎杖君と二人きりになれるなら喜んで着いていくのに。
心の中でそう思って少しだけ惨めな気分になった。

「自分で色々見て選びたくて」
「分かる。コンビニって見てるとワクワクするよね」
「そうなの。私、コンビニって去年初めて行ったんだけどびっくりしちゃった」
「去年初めて?」

しまったと名前は口を押さえるが後の祭りで、悠仁は不思議そうな顔でこちらを見つめていた。
彼女は古い呪術師の家系の生まれで、文学的に言えば深窓の令嬢、有り体に言えば度を越した世間知らずである。高専に入ってから同級生や担任に指摘され笑われたことは数知れず。名前はそれを思い出しカッと顔が熱くなる。

「ごめん。私、本当に物を知らないの。色々覚えてる所だから変なこと言っちゃうかも。ごめんね」

せめて世間知らずだと自覚はしていると強調したくて、しどろもどろになりながら弁明すると悠仁はまた不思議そうな顔をした。

「なんで謝んの?名字先輩、呪いのことすげぇ詳しいじゃん。色んなこと知ってるし教え方上手いと思ったよ。俺も色々教わってるし」

初めて会った時と同じように、悠仁は何の他意もなく簡単に人を肯定する。名前にはそれが眩しくてくすぐったくて、涙が出そうになるほどなのに彼には自覚がない。

「てか、名字先輩ってお嬢様なんだね」
「そんなことないよ」
「食べ方めっちゃ綺麗だなって思ってたよ。歩き方とかも」
「そうかな?普通だよ」

綺麗、など片思いの相手に言われて意識しないはずもなくつい背筋を伸ばしてしまう。今まで気にもしていなかった爪先の角度や自分の足音までと気になってくる。
去年真希とお揃いで買ったビーチサンダルのペタペタという音が下品ではないか気になった時、カラカラカラと前方から別な音が聞こえてきた。名前は何だろうとそちらを見やる。
自転車を押す少年と、同じくらいの歳の少女が手を繋いで歩いていた。おそらく二人とも自分たちと同じ高校生だろう。
その様子があまりに幸せそうで名前はつい見惚れてしまった。

「もしかして自転車も乗ったことない?」

だが悠仁はその視線を別な意味だと解釈した。その意味に気が付かれなかったのは名前にとって幸運であった。

「うん。虎杖君、乗ったことあるの?」
「マジで言ってる?めちゃくちゃあるよ」
「そうなの?すごいね」

本当に驚いた、まるで宇宙船にでも乗ったことがあると言われたような反応をするものだから悠仁が驚かされた。だが目をまん丸く見開いてキラキラした目を向けられるとくすぐったい気分になり、つい笑ってしまう。

「名字先輩って面白いね」

悠仁の大きな目が笑った時に少し細くなった。名前はその目に見惚れて、やっぱり私はこの人が好きだと思った。

この日、二人はコンビニでお使いを済ませてアイスを食べながら帰った。コンビニから寮まで10分ほどかかるので、アイスを買って寮まで戻ると溶けてしまう。だから暑い日なのに誰もアイスをリクエストしなかったのだ。
「パシリ組の特権だよね」と笑う悠仁の舌にアイスの青い色素が移っているのが見えて、名前はそれが堪らなく可笑しくて、このままずっと寮にたどり着かなければいいと思った。

色んな所へ行ったはずなのに、この夏の一番忘れられない記憶は近所のコンビニへ行ったことだった。


秋が来た。

徐々に任務も入り始め、悠仁と名前は高専でしか顔を合わせないような日が続いた。
だがその分見返りはある。任務とは呪術師にとって仕事なのでそれに見合った収入もある。悠仁はまとまったお金を手に入れて、せっかくなので何か大きな買い物をしてみようと思った。
そして大きな買い物をしようと思った時に、なぜか思い浮かんだのが名前の不思議そうに目を丸く見開いた顔だった。あの顔が、嬉しそうに綻ぶ所を見たい。

「名字さん、自転車乗ってみたくない?」

寮の談話室で顔を合わせた名前に、悠仁はそう尋ねた。
名前は質問の意図が分からず目をパチクリさせるばかりだったが、悠仁が彼女の手を引いて外へ連れ出そうとするのでドギマギしながら着いていく。触れ合った所から自分の鼓動の速さに気付かれやしないか気が気でならなかった。

「じゃーん!」
「虎杖君、これ」
「自転車買っちゃった。初乗りだから、せっかくだし名字さんとドライブしようと思って」

悠仁が選んだのは荷台とカゴのついた普通の自転車だった。だが名前には物珍しくてハンドルからタイヤまで舐めるように見つめる。これが自転車か、と不思議になり自分を誘ってくれたことが嬉しくなった。

「自転車に乗ることをドライブって言うの?」
「いや、サイクリングか。一緒にサイクリングしようよ」
「どうやって?」
「2ケツしてさ、どっか行こうよ。まあこの辺何もないけどちょっと遠いコンビニまで行こ」
「にけつ?」

聞き慣れない単語に名前は首を傾げ、また知らない言葉が出てきたなと無知な自分が恥ずかしくなる。
一方の悠仁は彼女のリアクションを見て、こんな俗っぽい言葉知ってるわけがなかったなと思い至って苦笑した。

「ここ、荷台乗って」

サドルに跨り自分の後ろを指差す悠仁に、名前は少し迷ってから横向きに座った。そっちかと悠仁は驚いたが、たしかに彼女が足を開いて荷台に跨るのは辛いだろう。スカートの裾を整えながら足を綺麗に揃えて荷台に座る様子はなんだか不釣り合いで妙に可愛らしく見えた。

「これで走るの?落ちないかな」
「俺に掴まって」
「え、でも、そんな」
「じゃないと落ちちゃうじゃん。ちゃんと掴まってて」

掴まると言うことは勿論体に触れることだ。名前は異性の体など授業内の組手くらいでしか触れたことがない。掴まる、とは腰に手を回すのだろうか。そんな触れ方をしたことがない。
しかも相手は自分の片思いの相手だ。触れた途端に気持ちが知られるのではないかと気が気でならない。

「ほら、早く」

だがそう急かされれば名前は嫌とは言えない。なにせ嫌ではないのだから。
恐る恐る悠仁の腰に腕を回した。なるべく体が触れないように、不自然なほど体を離したくせに腕だけがぴったりくっ付いているのが無格好だ。
一方で悠仁はてっきり肩に掴まられるのだと思っていたものだから、腰に腕を回されて驚いていた。予想外の所に触れられて思わず唾を飲み込む。

「これで、いい?」
「うん。行くよ」
「わっ!」

悠仁がペダルを踏み込むと不自然なほど離していた体が揺れて、思わず名前は悠仁の体に顔を寄せた。背中に耳をぴったり付けると、彼の鼓動がよく聞こえる。少しそれが早いように感じたのは、自転車を漕ぐのが大変だからだろうか。
顔が堪らなく熱いが、自分の脚では絶対に味わえない風を切って走る感覚が心地いい。景色があっと言う間に流れて行く。自転車に乗るのってこんな感じなのかと、名前は感動すら覚えた。
無意識に腕の力を強めていて、それに伴い悠仁の鼓動も早くなっていく。

「すごいね、気持ち良いね」

いつのまにか名前は恥ずかしさよりも初めて乗った自転車から見る景色に夢中になっていた。どうしてこんな楽しくて気持ちいい乗り物を今まで知らなかったのだろうと、自分の世間知らずにまた少し嫌気が差したが、それをすぐ打ち払ってくれそうなほど爽やかで気持ちがいい。

「名字さん、子供みてぇ」

楽しそうに笑う悠仁の声に名前は胸が締め付けられる。
その言葉からは侮蔑など微塵も感じさせず、むしろ小さな子供を可愛がる時のような声色で、名前は自分の無知を許されたような気になってしまう。ぴったりくっついた体から、そんな思い上がりが伝わらないか不安になった。

「虎杖君」
「なに?」
「……今度、漕ぎ方教えてね」

「好き」と言いかけてやめた。それを伝える勇気はまだない。
悠仁が優しいのは全員にで、自分だけが特別などではない。思い上がって悲しい思いをしたくなかった。名前は顔を見られないように、悠仁の背中に額を押し付けた。それはがっしりした逞しい背中でますます好きになってしまいそうだ。

「うん。簡単だから大丈夫だよ」

悠仁の背中から伝わる鼓動が早い気がするのはやはり思い上がりなのだろうか。自分の鼓動も伝わっているのだろうか。
そんなことを考えながら、名前は高専に戻るまで目を閉じて鼓動を感じていた。

名前が自転車に乗れるようになったのは、秋が終わる頃だった。


冬が来た。

それなりに忙しい日々を送る学生達だが、最近は休みが合う者同士が集まって映画を見るのが恒例になっていた。
この日は珍しく一年生も二年生も全員集合できたので、五条がおすすめだと押し付けてきた映画を見たのだが、それが難解なフランス映画だったものだから早々に真希が停止ボタンを押した。
口直しに悠仁が部屋から持ってきたコメディ映画を流したら、そこそこ盛り上がり、いつも辛口な野薔薇すら笑っている。

「タイトルは聞いたことあったけど面白いわね」

悠仁は自分が選んだ映画を褒められて嬉しくなるが、ふと名前の方を見ると何とも言えない顔をしていた。それから改めて画面を見て、その時思わず「あ」と小さく声を漏らす。
この映画は人気シリーズではあるがスラング混じりの品のない台詞が多い。それがウケているのだが、きっと名前には理解出来ない言葉も多いだろう。
今更ながらそれに気が付き申し訳ない気持ちになってきた。

「悠仁、映画のセンスいいな」
「しゃけ」

男子の先輩二人はそう言ってくれたが、悠仁は心の底からは喜べなかった。名前さんならどんな映画を好むだろうと考えてしまって集中も出来ない。
一方で名前も悠仁が持ってきてくれた映画を楽しめないことを申し訳なく思っていた。分からない言葉が多いし、ストリップショーの場面など出てきた時は恥ずかしくてクッションを握り締めて画面が見られなくなった。
心ここにあらずな悠仁と、真っ赤な顔をしながらも画面を見ようと努力する名前。そんな二人の様子を見て真希は笑う。

「なんか、腹減ったな。一年誰かコンビニ行ってこいよ」

その笑顔の意味を正しく理解した野薔薇は小さく頷き、名前へ横目で合図を送る。

「虎杖、あんた力あるんだから行ってきなさいよ」
「別にいいよ。何がいい?」
「さすがに虎杖一人じゃ重いんじゃねぇの?」

いつぞやと同じやり取りだ。もう半年も前のことなのに名前は鮮明に覚えている。

「私行くよ。自転車も乗れるようになったし」

あの時よりはよほど自然に言えた気がしたが、二人が部屋を出たあと真希たちは大笑いしていた。
なにせ自然な風を装ってはいたものの、悠仁も名前も揃って赤い顔をしていたのだから。


悠仁の自転車はほとんど二人のものになっている。
スタンドを蹴り上げ、カラカラと音を立てながら自転車置き場から取り出すと悠仁はサドルに跨った。

「行こう」
「ねえ、今日は私が漕いじゃダメ?」

たしかに名前は自転車に乗れるようになったが、それはあくまでも一人で乗る話だ。後ろに人を乗せた事はない。それも悠仁は体重がそれなりにあるので、彼が乗れば不安定になるだろう。

「それなら俺走って着いてくよ」
「ううん。虎杖君を後ろに乗せたいの」
「俺重いよ?」
「平気。ね、ダメかな?」
「ダメじゃねぇけど……大丈夫?」

心配になりながらも悠仁はサドルを明け渡すと、名前は嬉しそうにそこに飛び乗った。二人乗りで後ろになるなんていつ以来かなと思い返しながらも、悠仁は荷台を跨ぐ。
それから前を見て、はたしてこれはどう掴まるのが正解なのだろうと迷った。名前がしていたように腰に腕を回してもいいものか少し悩み、分厚いコート越しだからと誰にともなく言い訳をしながらそこに掴まる。
だがコート越しでも分かるほど、自分よりずっと細い腰に思わずドキッとした。

「掴まった?」
「うん。じゃあよろしく」
「行くね」

ペダルを漕ぐとその重さに名前は一瞬驚いたが、彼女も呪術師の端くれである。そこそこ力はある。思い切って踏み込み、もう一度逆の足でも踏み込めば自転車が安定した。
「一度漕ぎ出したら止まっちゃダメだよ」と悠仁は秋に教えてくれた。その通り、漕ぐのを止めれば自転車はすぐに不安定になり転んでしまう。名前の膝にはまだ練習の時についた傷痕が残っている。消えてほしいような、消えてほしくないような複雑な傷だ。

「名前さん、上手くなったね」

後ろから悠仁の声がして名前は心臓が止まるかと思った。それから、この子は一度本当に心臓を止めてしまったのだと思い出す。
一度死んだはずの子と出会って恋をして、色んなことを教わってますます好きになった。
なんて不思議な話なのだろう。

「虎杖君のおかげだね」
「俺ほとんど教えてないよ。名前さん運動神経いいんだって」
「初めて言われた」
「真希さんとかと比べちゃうとイマイチかもしんないけど普通に良いじゃん。俺乗せても平気なんだし、こんなすぐ上達すると思わなかった」
「私もびっくり。自転車って楽しいね」

名前は自分がこんなにすぐ自転車に乗れるようになるとは思わなかったので驚いたし嬉しかった。同時にもっと悠仁に教えてもらえると期待していたのに、とガッカリもしている。
放課後に悠仁に支えてもらいながら自転車の練習をしたこと、何度も転んで心配されたこと、原っぱに座って休憩したこと。全てがいい思い出だった。

「すぐ乗れるようになって、少し寂しいね」

自分の心が読まれたんじゃないかと、名前の心臓が跳ねた。悠仁の顔が見たくなり思わず振り返ってしまって、その途端に自転車がぐらつく。
慌てて前を向いて態勢を立て直そうとしたが、後ろに人を乗せているのだ。簡単にはいかない。
「あ!」と声をあげた時にはもう遅くて、ガシャンと大きな音を立てて自転車が倒れた。

名前はギュッと目を閉じてその衝撃に備える。途端に地面に叩きつけられるような感触があり、またやってしまったと後悔した。そしてすぐに後ろに乗っていた悠仁が気にかかり、急いで目を開けた。

「虎杖君!?大丈夫?」
「名前さんは?」

へいき、と言って体を起こそうとした時に自分の頭の下に悠仁の手があるのに気が付いた。体が倒れる時にとっさに頭を守ってくれたのだろう。
慌てて体を起こして悠仁の手を取ると、手の甲から血が出ていた。それはほんの少しの出血だったが名前は息が詰まりそうになる。

「ごめんね、痛いよね」
「これくらい平気だよ。名前さんこそ立てる?」
「どうしてこんなことしたの?」

名前の質問の意図が分からず悠仁は首を傾げた。
自分のせいで転んで怪我をしたのに、責めようとしない。それどころか自分が怪我をしてまで守ろうとしてくれた。
そういう所が好きなはずなのに堪らなく胸が締め付けられる。彼が一度心臓の鼓動を止めてしまった時も、誰かを助けようとしたからだということは知っているから。
こうやって自分を犠牲にして、それを何てことないような顔をしているのが悲しくて堪らない。

「自分が怪我してまで、誰かを守ろうとしないでよ」

これくらいの怪我で大袈裟かもしれないが、いつかこの人は誰かのために命を投げ出すのではないかという不安があった。「危ないことしないで側にいてよ」と言いたかったのは我慢した。
そんなおこがましいこと、とても言えない。

「そんなかっこいいこと考えてないよ」

名前が泣き出しそうな目をしていたので、悠仁はすっかり困ってしまった。見たところ怪我はないようだが、まるで自分が怪我をしたような顔をしている。
痛いくらい心配されるのは困る。だが嬉しいとも思ってしまう。複雑な気持ちで、悠仁は乱れた名前の髪を撫で付けた。

「俺はただ、好きな子にはいい所見せたいだけ」

自転車を起こすことなく、地面に座り込んだまま二人は見つめ合った。真っ直ぐに名前を見る悠仁と、驚いて口が聞けない名前。冬の夜はひどく寒くて静かで、時間が止まったような感覚に陥る。
初めて会ったその日に名前は悠仁に恋をした。初めての恋だった。知れば知るほど好きになって、けれど何も言えないまま冬が来た。
そして今、悠仁は「好きな子にはいい所を見せたい」と言った。
それはあまりに名前に都合が良すぎてまた泣き出したくなる。何か自分が思いあがって勘違いしてやしないか不安になってきて、手放しに喜べない。

「虎杖君、好きな子、いるの?」
「それ聞く?」
「聞きたい」

不安そうに揺れる名前の目に自分が映っているのを悠仁は見た。彼としては勇気を出したつもりなのだがまだ足りないらしい。
ごくりと唾を飲み込む音がやたら大きく感じた。

「名前さんだよ。名前さんが好き」

名前は悠仁と知り合った夏を思い出す。
あの時、彼は自分を「名字先輩」と呼んでいた。いつのまに名前さんなんて呼ばれるようになったのだろう。そこに下心が含まれていたのはいつからなのだろう。
考えても答えは出ない。代わりにポロポロと名前の目から涙が出てきた。

「ごめん、俺変なこと言った。忘れて」
「やだ。忘れられない」
「泣いてんじゃん。本当ごめん」
「違う、違うの。嬉しいの」

嬉しい時も涙は出るのだと本で読んだことはあるが、実感したのは初めてだった。

「私もね、好きなの。虎杖君が、ずっと前から好き」

きっと好きになったのは自分からだ。それなのに向こうから言ってくれるなんて。
嬉しい、なんて言葉じゃ足りない。どうにか適切な表現を探したいがとても思い付かない。思い付くのは悠仁の好きな所だけ。

自分ですら好きになれなかった所を好きだと言ってくれた。
自分の無知を呆れずいい所ばかりを見てくれた。
知らないことを付きっきりで教えてくれた。
笑った顔とか、明るく弾むような声とか、大きくクリクリとした目が動く所とか、映画を見る時は口を開ける所とか。
そんなことばかり思い付く。

「名前さんの泣いてる所、あんま見たくないんだけど」
「ごめんね、なんか、止まらなくて」
「あんま無防備に泣かないで。俺、こういうの慣れてないから」
「私だって、慣れてない」

悠仁はどうにか名前を慰めようと彼女の頭を撫でる。子供のようだとは思うが、ほかに上手い方法が思い付かなかった。

「じゃあ一緒に慣れようよ。このままじゃ俺心臓もたないし、名前さんは涙腺枯れちゃうじゃん」

大真面目な顔でそんなことを言われたものだから名前は涙をこぼしながら笑った。悠仁もつられて笑うから、二人の口から白い息が漏れる。
二人はしばらく地面に座ったまま笑い合って、すっかり体が冷えた頃ようやく立ち上がって歩き出した。今度は二人とも自転車には乗らず、手を繋いで歩いて行く。
真冬だというのに二人とも異様なほど体が熱くて不思議でならなかった。

結局、冬が終わっても強靭な心臓も涙腺も手に入らなかった。


もうすぐ春が来る。

まだ肌寒い日が続くが、真希やパンダは悠仁と名前を見かけるたびに「春だな」と呟く。
二人は夏に出会ったから春を一緒に過ごしたことはない。初めての春だ。

「もうすぐ悠仁君、誕生日だね」

強靭とは呼べないが、少しだけ強くなった心臓のおかげで名前はようやく悠仁を下の名前で呼べるようになった。だがいまだに少し緊張して、上手く喉から出てこない時もある。

「何か欲しいものある?」
「何だろ?映画のチケットかな。名前さんと見たいのあるんだよね」
「欲がないね。他には?」
「あとポップコーンとコーラ。最高の贅沢じゃん」
「ふふっ、悠仁君の贅沢って可愛いね」

ポップコーンを食べてコーラを飲んで、好きな映画を見て、隣に好きな人がいる。それは悠仁にとっては最高の贅沢なのだが名前には伝わらないらしい。
そんな最高の贅沢を「可愛い」の一言で片付けられるのは少し癪だが、そんなこと言う名前の方が可愛いとも思ってしまうのは惚れた弱みか。

「じゃあ悠仁君の誕生日は映画館ね。ケーキも買おうか」

手を伸ばせば触れられるほどの距離に好きな人がいて、その人が笑っている。そして自分の誕生日の計画を楽しそうに話してくれる。
悠仁は今この瞬間が一番幸せな気がした。

「ねえ名前さん」
「なあに?」
「いつから俺のこと好きになってくれたの?」

名前はクスクスと楽しそうに笑っていたが、そう尋ねられると急に押し黙ってしまった。それから目を逸らして、自分の手元を見つめて所在なさげにする。
「答えなきゃダメ?」と言わんばかりに悠仁の顔をチラリと見て、その申し訳なさそうな顔が可愛らしくて噴き出しそうになった。

「教えてよ」

もう少し粘れば教えてくれそう。悠仁は直感的に思った。彼は人の顔色を読むのが上手いのだ。
名前はもう一度自分の手元を見下ろし、落ち着かなそうに髪を撫でながら口を開いた。

「初めて会った時」

初めて会った夏の日を思い出す。
これから交流会が始まるぞと言うピリピリした空気の中、突然現れた男の子。あっという間に自分たちの懐に入ってきて溶け込んで、簡単に名前の心を奪ってしまった。
人が恋に落ちるというのは、白い布にコーヒーが染み込んでいつのまにか完全にその色を変えていくように、じわじわと変化していくものだと思っていた。だが実際は落雷のようにあっという間に落ちていってしまった。

予想外の答えに悠仁は目を丸くして、それから思わず破顔した。恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに顔をくしゃっと綻ばせて、感情を全く隠そうとしなかった。

「マジで?」
「こんな嘘つかないよ」
「うわ、マジか。びっくりしたけどめちゃくちゃ嬉しい」
「悠仁君は?」

悠仁のその顔がむず痒くて、名前は手で口元を覆いながら同じ質問をする。どんな答えをくれるだろうかとドキドキしながら悠仁の顔を見つめると、首を傾げられた。

「いつからだろ?分かんないや。最初は面白い人だと思ってて、気付いたら好きになってた」

雷のように恋に落ちた自分とは違い、悠仁はじわじわと恋に落ちたらしい。そのことが少し悔しいような、嬉しいような。名前はなんとも複雑な気持ちだった。
だが白い布に染み付いたコーヒーは簡単に落ちはしない。じわびわと染みが広がって、いつの間にか取り返しのつかないほど染まってしまった。

「なんだか余裕だね」
「そんなことないよ。俺いっぱいいっぱいだもん」
「年上のプライド傷つくな」
「もうすぐ歳の差一つ縮まるけどね」

染み付いてこびりついた気持ちが拭えないまま春が、二人がまだ共に過ごしたことのない季節が迫り来る。


topback