横顔美人


猫のような瞳が活字を追ってキョロキョロ動くところを見るのが、名前の密かな楽しみだった。
普段は大抵笑っている顔から表情が消え、真剣に本を読む横顔が綺麗だと思っていた。

中学生なのに髪を染めて、学ランの下にカッターシャツ代わりのパーカーを着ている、いかにもちょっと悪めの先輩。
他校の生徒をボコったとか、ヤクザをシメただとか、嘘か本当かわからない噂が絶えないひとつ年上の、同じ図書委員の男の子。

図書委員は順番で図書室の受付業務をやらされる。くじ引きで昼休みになるか放課後になるか、誰と一緒なのか全て完全にランダムなはずなのに、名前はこの例の怖い先輩と被る時が多かった。

初めて一緒に当番をした時、「おれ三年の虎杖悠仁。よろしく」と向こうから挨拶されて、たったそれだけの言葉に名前の虎杖への印象は180度変わってしまう。
もっと怖くて愛想も悪いものだとビクビクしていたのに、実物は人懐っこい笑顔で明るく挨拶をしてくれたので、名前は内心胸を撫で下ろした。
図書室という空間はあまり大っぴらに話し込む事はできない。虎杖が話し掛けてくる時は顔を寄せてきて内緒話のようにヒソヒソ話すものだから、それがまるで少女漫画のワンシーンのようで名前は少し楽しかった。

貸出や返却の業務が無い時は大抵どちらかが本を読んでいる。読むものは腐るほどあるのだ。
虎杖は大抵笑いを堪えながら漫画を読んでいたけれど、時折小説を読み耽っていた。
夢中でページをめくる指や、やや伏せられた瞳、少し短いまつ毛をこっそり眺めていても気付かれないのはありがたい。
学園のアイドルとまではいかなくても虎杖はそこそこ人気のある男子生徒で、友人からはよく羨ましがられていた。

「はー、おもしろかった」
「虎杖先輩って意外と本読みますよね」
「たまにだけどね。ほんとは漫画の方が好き」
「こないだは漫画の三国志読んでましたもんね」
「漫画の方がわかりやすいんだよなー」

小声で話していると、下校のチャイムがスピーカーから鳴り響く。

「名字さんって家どっち方向?」
「ウチですか?駅の近くですよ」
「ああそっち方面ね。チャリの後ろ乗ってけば?送ってく」
「重いからいいですよ」
「大丈夫、俺力持ちだから!」

じゃあ、お願いしますと言ったものの、適当な理由をつけてはダイエットをサボりがちだった事を心底後悔した。
自転車は名前を乗せてもスイスイ走る。虎杖の肩に手を置かせてもらうと、制服の下で少し汗ばんでいるのが感じられた。
普通なら人ひとり乗せて自転車を漕ぐとなると多少はしんどそうにするもののはずなのに、虎杖は息も乱さず普通に話しかけてくるので本人が言っていた「俺力持ちだから」という言葉に嘘はなかったのだと感心する。
きっと他の男の子ならこうはいかないだろう。
髪や肌を撫でる爽やかな風が気持ち良くて、名前はどこまでも走っていって欲しいと、家が近い事を少し恨めしく思った。

自転車に乗せてもらってから、2人の距離がぐっと縮まった気がした。
校内で会えば声をかけてくれる。頭を撫でられたり、頬をつつかれたり、さりげないスキンシップが増えていく。
虎杖に触ってもらえると嬉しくて恥ずかしくて、胸がキュッと縮こまる。
いつの間にか彼に恋しているのだと気付くのには、さほど時間はかからなかった。

授業中にグラウンドをぼんやり眺めていると、丁度虎杖が体育の授業中なのが見えた。
友達と馬鹿笑いしているのをこっそり見つめていたら、虎杖がこちらに気付き大きく手を振ってくれる。名前は先生にバレないようにこっそり手を振り返した。
グラウンドから見えるいくつもの教室の中から、自分を見つけてくれるなんて。
今日ほど窓際の席に感謝した事はない。
水曜日の数学の授業は、虎杖が体育の日。忘れないように、ノートの隅に走り書きしておいた。



夏休みは大量の宿題のおかげでただダラダラと休める訳ではないが、図書室の開放日は指折り数える程楽しみだった。

1学期最後の委員会の集まりは夏休み中の開放日の当番を決める内容だった。
部活など各々の予定を考慮して、夏休みの当番はくじ引きではなく順番にカレンダーが回され自分の希望日に名前を書き込むスタイルだ。
まず3年生から記入していく。3年生全員の記入か終わると、虎杖が2年生の名前の元へとカレンダーを手にやってくる。

「名字さんどの日にすんの?」

特に大きな予定もなく、どの日でも構わないと思っていた名前は「ずっと暇なんで逆にいつにしようか迷ってます」と正直に話した。

「じゃあ俺と同じ日な」

虎杖の男の子らしい、少し汚い字で名字名前と勝手に名前が書かれた。
夏休み中、たった3回の当番は全て虎杖と過ごす事が確定した瞬間だった。

エアコンの効いた図書室で、ふたりきり。
図書室開放日、と言っても近隣の図書館の方がうんとたくさんの本があるから生徒はわざわざこんな小さな所へ本を借りに来ない。
図書館へ行った方がよっぽど選び放題なのは誰の目にも明らかだ。
開放日だなんて、わざわざこんなところ開ける意味はないと思っていたけれど、こうして虎杖と会えるから名前にとっては大いに意味はあった。
このまま誰も来ないで、2人きりでいさせて、と願わずにはいられなかった。
午前中だけの当番を終え、帰り道のコンビニでアイスを買う。
自転車が壊れたらしく、今日は歩きだと笑っていた。自転車だとあっという間に家に着いてしまうから、たまには歩くのも悪くないなと内心思いながらアイスを齧る。

「先輩って、こういう当番とかサボるタイプだと思ってました」
「んー…まあ、どっちかっつーとサボるタイプだけどさ。今日はなんで来たと思う?今日だけじゃなくて、普段もさ」
「読みたい本があるから?」
「ブッブー、はずれ」
「えー?じゃあ…内申点気にしてたり?」
「残念はずれー」
「わかんないです、教えてくださいよ」

虎杖はとっくに食べ終えたアイスの棒を名前に向けた。

「名字さんがいる時は来てる。名字さんがいない時はサボってる。意味わかる?」

友達からも「絶対脈ありだって!いける!」と囃し立てられていた名前は、嘘のような現実に心が浮き立って仕方がなかった。

「なんとなくわかりましたけど…なんで、私なんか」
「名字さん、よく本読んでるじゃん。読んでる時の横顔が綺麗だなって思って、ずっと見てた。そんで、気づいたら好きになってた」

名前が虎杖に惹かれた理由と同じ。
些細な事で運命を感じてしまう恋愛脳は本当におめでたい作りをしている。
私もそうです、同じです、私も好きです、言葉はポンポンと頭に浮かんで来るのに、なかなか口から出てきてはくれない。

「ごめん急にこんな事言って。忘れて。帰ろっか」

名前が無言でもじもじしている間にフラれたと認識した虎杖は、眉を下げて悲しそうに笑う。

「待って、待って先輩、私の話も聞いてください…!」
「え?」
「私も虎杖先輩が好きです、私も、先輩が本読んでるところ見て…好きになったんです」
「ホント?すご!一緒じゃん!じゃあ俺ら両思いってこと!?」
「そうなりますね」
「マジ!?やった!」

心臓が煩くて、体が熱くて恥ずかしくてたまらないのに嬉しくて、頭がバカになりそうな気がした。
虎杖の猫のような瞳が嬉しそうに細められる。耳が少し赤いのはこの熱さだけのせいではなさそうだ。

「手繋いでいい?」
「はい、どうぞ…」

恐る恐る差し出した手は熱くて大きな手のひらに包まれた。汗でしっとりしている感触が、生々しくこの現実を伝えてくる。

「恋人になって初めての帰り道かあ〜…ヤバい、俺めちゃくちゃ嬉しいどうしよう」

喜びを抑えきれない虎杖が、空いている方の手でどうしてもニヤニヤしてしまう口元を覆った。
名前は恥ずかしくて顔から火が出そうで、ひたすら下を向く。

「私も嬉しいです。絶対無理だと思ってたから」
「俺もそう思ってた」

繋がれた手にばかり意識が集中して、何を話しながら帰り道を歩いたのかほとんど思い出せない。気付けばもう家はすぐそこだった。

「ねえ、昼からヒマ?」
「暇です」
「じゃあどっか行こうよ。デートしよ」

思ってもみないお誘いに、「行きます!」と食い気味に返事をしてしまった。名前の勢いの良さに虎杖が笑う。

「後でまた連絡する」
「はい、待ってます」

部屋に入ってすぐにクローゼットをひっくり返して服を見繕うも、彼の好みの服装がわからない。ああでもないこうでもないと鏡の前でファッションショーを繰り広げた。
汗で少し崩れているであろう化粧も手直しして、髪もセットして、時間はいくらあっても足りない気がした。
スマホが軽快な通知音を立て、虎杖からの連絡が来た事を知らせる。
画面に表示された"今から名字さんちの近くの公園向かうね"の文字を見て、やっと服を着替え始めた。

大急ぎで公園に向かうと、自転車に跨って待つ虎杖の姿。

「あれ?自転車壊れたんじゃないんですか?」
「あー…ごめんあれウソ。今日、告白しようかなって考えてたから、ゆっくり歩きながらの方がいいかなって思って…」

バツが悪そうにボソボソと話し終えると、ハンドルに顔を突っ伏してしまう。
隠しきれない耳が赤く染まっているのが見えて、実は虎杖も恥ずかしがり屋なのかもしれないと、名前は彼の知らない一面を新しく知れた気がして心がむず痒く感じた。
いまだ突っ伏したまま、無防備に曝け出された髪を撫でてみる。ピクッと虎杖の体が反応したが、されるがまま。

「先輩、どこに連れてってくれるんですか」

虎杖はその問いかけに気を取り直したように顔を上げたが、ほんのり頬は赤い。

「デートといえば海でしょ!」
「海!?けっこう遠くないですか?」
「虎杖号ならひとっとびだべ。ほら、後ろ乗って」
「はーい。先輩、私水着なんて持ってきてないけどいいんですか?」
「泳ぐのはまた今度にしよっか。今日はなんかこう、雰囲気のあるとこで親睦を深めんの!…ごめんな、俺正直こういうの慣れてないから他のとこがいいなら言って」

素直にそういう事を打ち明けてくれる所が、年上なのにかわいいと思った。
いつもは肩に置く手を、虎杖のおなかに回す。

「私だって男の子と付き合うの初めてだから全然なんにもわかりませんよ。だから、先輩とならどこでもいいんです」
「そういう言葉に男は弱いんだって…」

照れ臭そうに唇を尖らせつつも、ペダルを踏み締め自転車が真夏の風を切って走り出す。
夏休みは始まったばかり。新学期まで時間はまだまだある。
花火大会に行こう。夏祭りも楽しそうだ。プールもいいし、海で泳いでもいい。涼しいショッピングモールをぶらぶらするだけでも、2人ならきっと楽しい。暇を持て余した2人で、人生でたった一度の今年の夏、たくさん思い出を作ろうか。


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