拝啓、あなた


「...名字?」

自分の名字を呼ばれて、びっくりした。知っている声じゃなかったから、一瞬頭が回らなくなって、条件反射で何も考えずにぱっと振り返った。目玉をせわしなく動かして、声の主の姿をとらえたとたん、かちんと身体がかたまった。全身の血が沸騰しているんじゃないかと錯覚するくらいかっと熱くなって、今ある事実に大きく目を見開く。雑踏のなか、そのひとは周りから切り離されたみたいに、力強く立っていた。薄茶色の髪、パーカーの上からでもわかる筋肉質な身体、黄色の猫目。彼はあのときよりずいぶん背も伸びて、首や腕が太く、立派に育っている。

「名字だよな?」

変わってしまったと思ったが再度私の名字をとなえる彼の笑顔には、面影が確かにあった。からっとした、人懐こい笑みはあのときのままだ。それに気づいたら、胸が鷲掴みにされているように苦しくて喉の奥がつんと痛んだ。懐かしさが、胸の奥の奥のくすぶっていた感情のひとかけらから湧き上がってきて、どうにも止められない。私はむりやりに口角をあげて口をひらいた。

「ひさしぶり。虎杖くん」

虎杖悠仁くん。彼は、中学のときの同級生で、私の初恋の人だった。
















十五歳なんてクソくらえと思っていた時代が、私にもあった。思春期特有の反抗心とちっぽけな孤高をほとんどの友達が持ち合わせていて、それは決して共有することはなかったけど、私たちの共通の心の闇だった。家族も友人も、教師も、学校も、政治家も世間も信用できなくて、疑り深く、気に入らないことがあれば逆らう───いわゆる「おとな」になるための過程を日々全力で過ごしていたあの時代に、私は虎杖くんと出会った。それはもう、流れ星のようなスピードで私のプライベートに躊躇なく飛び込んできたのだ。

「名字いつもさぁ、それ、なにきいてんの?」

たぶん、虎杖くんは何の気なしに尋ねたんだろう。当時の私はいつもイヤホンかヘッドホンを肌身離さず持ち歩いていたから、それがおかしくて気になったのかもしれない。夏だった。じっとりとした熱気が肌にまとわりつく暑い日。放課後、私は先生と進路相談をしていて、虎杖くんは忘れ物を取りに教室に帰って、ばったり出くわしたのだ。無言で帰ればいいのに、虎杖くんは私に質問をぶつけた。情けないことに、彼の澄んだ瞳から放たれる射抜くような視線にたじろいで私は「えっと...」を繰り返しとなえてうろたえてしまった。

「言っても、わかんないとおもう」

散々焦らして、弾き出した答えがそれだった。両肩にのせたヘッドホンをいじりながら顔も見ずに言ったのに、虎杖くんは明るい声で、

「言ってみて!わかるかもしんねぇ!」

と返した。ぱっと顔をあげると、虎杖くんはにこにこ笑顔を浮かべていた。仕方なく、私はぼそぼそアーティスト名をつぶやく。絶対わかんないでしょ、なんできくの。そんなことを思っていた。

「あー!それ、きいたことあるわ!」

予想外の反応だった。思わず「えっ、知ってるの?」とききかえす。今まで何人か似たようなやりとりをしたことがあるけど、誰ひとり知っている人はいなかった。

「この前ラジオつけたら流れたよ。歌詞がいいなーって思いながらきいてた!」
「ラジオ...そういえば先週SNSで宣伝してたな。初めてラジオに出るって」
「SNSまでチェックしてんの?本当に好きなんだなー。あ、オススメある?俺一曲しか知らないからさ。教えてほしい」
「えっ」

虎杖くんはポケットからスマホを取り出して、音楽アプリをひらいて私に差し出した。きいてくれるのかな。社交辞令かもしれない。嫌な葛藤をしながら、目についたアルバムをいくつか指さしておいた。横でうんうんうなずく虎杖くんと、思いのほか距離が近いことに気づいてぱっと離れる。伏せられた短いまつげがぴっしりそろってきれいだと分かるくらい、近かった。

「ありがとう名字。今日きけるとこまできいてくるわ!」
「きけるとこまでって......じっくりきいてよ。虎杖くんの言う通り歌詞がいいんだから」

言い終わってから、しまった、と思った。さっと血の気がひく。音楽のきき方なんて人それぞれなのに上から目線の物言いをしてしまった。さすがの虎杖くんも気を悪くしただろう。あわてて「あ、ちがうの、ごめん、」と弁解したとき、

「たしかに!歌詞が良いのにちゃんと聴かないなんてもったいねーな!」

後頭部に手を添えて明るく言うものだから、私は空いた口が塞がらなかった。虎杖くんはどの子とも違っていた。がんと頭に何かがぶつかったような衝撃だ。中学三年で初めて同じクラスになって、それでもあんまり喋ったことはなくて、今日まともに会話したけど、まさかこんなに純粋な子だなんて思っていなかった。

「...ありがとう」
「うん?何が?」
「なんでもない。明日、感想聞かせてね」
「おう!」
「それじゃ」

虎杖くんの笑顔がまぶしくて、きれいで、どうにもいたたまれなくなって私はその場を逃げるように後にした。駐輪場まで力いっぱい走って、ようやく立ち止まったとき、なぜだか涙が出てきた。息が上がっていたので、肺が押しつぶされそうに苦しい。

「馬鹿みたい」

私は呟いた。みんなにあるものが虎杖くんにはなくて、虎杖くんにあるものがみんなにはない。子どもみたいに純粋無垢で、素直で、優しい虎杖くん。心底羨ましいと思った。私はあんなふうに気持ちよく笑えない。闇なんてないみたいに、明るく照らしてしまう。ぽろぽろ涙が頬をつたって、服や地面をぬらしていく。私はそのとき、恥ずかしささえ感じていた。そう、つまりこの出来事は、自分を正すきっかけになったのだ。傍若無人で自分は他とは違うと思いこんでいたが、その日からやめた。十五歳の夏、私に大事な何かを教えてくれたのは、紛れもない虎杖くんだった。















これがきっかけで、私と虎杖くんの仲は縮んでいった。最終的には二人で映画に行くくらいには仲良くなれたけど、それまでだった。虎杖くんと話すうちに私は彼に惹かれていったけど、残念ながら進学する高校が違ったので、この想いはそのまま遠くに消えていった。消えたはずだった。

それで、今日。

「久しぶり。何年ぶり?五年くらい?」
「そうだね。まさか虎杖くんと東京で会うとは思わなかった」
「俺も。今、大学生?社会人?」
「大学生」
「都内の大学?」
「そう。× × 大」
「えっすげえ。そういえば名字、頭良かったもんな」

変わってない、はずだ。見た目以外はほとんど。そうでないと、こうして夜にカフェで呑気にお茶なんてできるはずがない。つるんとした硝子玉みたいな瞳には、不純物なんて一切ない。虎杖くんは、虎杖くんのままだ。

「虎杖くんは?何してるの?」

カフェオレをスプーンでかきまぜながら尋ねると、虎杖くんはちょっと困ったように「あー」と声をもらした。

「うーん、なんていうかな。ちょっと特殊な仕事、してる」
「特殊な仕事...?」
「あっ、いや違う!怪しい運び屋とかヤのつくやつとかじゃねえから!説明が難しいだけで!」
「わ、わかった。落ち着いて」

慌てた様子で身を乗り出し、弁解を始めたので私は両手でどうどうとなだめた。虎杖くんのことだ。映画の世界みたいな危ない仕事はしていないだろう。

「そういえばさ、名字まだあのアーティスト追っかけてるの?」
「...えっ、うん。よく覚えてたね」
「そりゃそうだろー。俺もずっときいてるし」

他意はない。他意はないのだ。こうやって心を惑わすような発言にはすこしも下心はない、はず。次第に赤くなっていく顔を誤魔化すように、私はカフェオレをひとくち飲んで、話題をそらそうと質問した。

「虎杖くんは、今東京に住んでるんだよね。どこ?」
「今は渋谷」
「すご。渋谷に住んでるの?リッチだねえ」
「ははっ、そんなことねーよ。寝に帰るだけの部屋だよ。出張が多い仕事だから」
「そうなの?それは大変だね」

出張が多いといえば銀行員とかだろうか。首をかしげて目をぱちぱちさせると、虎杖くんは私の視線から逃げるように目を伏せた。短い睫毛が、かすかに震える。

「いつか話すよ。俺のこと、名字にちゃんと知ってほしいから」
「...う、うん」

思い上がりそうになっちゃうなあ。そういう言い方は本当にやめてほしい。私だって今年二十一歳で、それなりに恋をしてきた経験から自惚れは身を滅ぼすとわかっている。虎杖くんはきっと無意識に女の子に期待させるようなことを言っちゃう人なのだ。姑息ではないから余計タチが悪い。

「虎杖くん、私、今から用事があるの。そろそろ行くね」
「..........用事?夜だよ?」
「え?うん」
「それって男?」
「えっ、いや、」

眉を八の字にして捨てられた子犬みたいな顔を向けられて、とたんに罪悪感でいっぱいになった。店に入って三十分もたってなかったけど、正直これ以上虎杖くんの発言に勘違いをしない自信がなかった。手遅れになる前に避難しようと思ったのだが、これは......。ぐるぐる目を泳がせて、う、とか、えっと、とかを繰り返していると虎杖くんが小さく吹き出した。

「名字、変わんねえな。動揺すると変な声でるの、なおってない」
「だ、だって」
「はは、嘘ついてもすぐバレるぜ」

右手を掴まれて、虎杖くんと手を組む形になった。びっくりして手を引っ込めようとするけど、思いのほか力が強くてびくともしない。じわじわ顔に熱が集まるのが恥ずかしくて見せたくなくて、ぱっと下をむいた。

「恋人は?」
「......いません」

敬語になってしまった。熱がひかない。どくどくとなる心臓がうるさくて耳を塞ぎたいくらいだった。きゅ、と確かめるように再度握られて、びくりと肩がはねる。

「名字」
「は、はい」
「今日は見逃してやるけど、次、また会おうな。あと連絡先教えて」
「...はい」

右手はそのままで、左手で携帯電話を差し出すと、虎杖くんはちょっと操作して私に返した。いれといた、という言葉に、どうも、とつぶやく。どうしてこんなことになってるの?虎杖くん、キャラが違う。だって私の知ってる虎杖くんは、ミネラルウォーターみたいな、きれいで、透明で、純粋な───────

「俺がずっと変わらないと思ってた?」

心を見透かされたような発言に、どくっと胸が高鳴った。こめかみに、冷や汗がつたう。おそるおそる顔をあげると虎杖くんが薄い笑いで、私を見ていた。

「ずっと好きだった女の子と運命的な出会いをしてそのまま帰すって、それ、もう男じゃねえから」

すり、と親指で私の手の甲を撫でる指の仕草が色っぽくてついていけなくて、沸騰しそうなくらい身体に熱が走った。唇を噛み締めて何とか虎杖くんの発言をに耐える。ふるふる震えていると、はは、と低い笑い声が鼓膜を刺激した。

「そんなに怖がるなよ。俺は優しく駆け引きするつもりだからさ」

安心して、と言われるが、何も安心できなくて絶望的な気持ちになった。

ああ私、どうなっちゃうんだろ。

未だ繋がれた右手が恨めしい。依然として力はこもったままだ。逃げるどころか話をそらすことも叶わないで、途方に暮れてしまった。これからの人生に、虎杖くんが介入してくるのか。甘い頭痛がする。胸が苦しい。手が震える。本当の恋が始まろうとしているのを私は今、全身で体感していた。



topback