人魚姫と王子様(仮)
それは一瞬だった。
視界に映る、爆炎。怒声。鮮烈なまでの、光。
圧倒的な熱量でその場を支配した彼は、荒々しくも美しかった。
私の初恋と声をいとも容易く掻っ攫っていった彼は、一目くれることもなくその場を後にして。
この日をずっとずっと恐れてきた私は、意外なほど凪いだ心地で天を仰いだ。一点の曇りもない、快晴の青空。肌を焼く、強い日差し。
その日私は先輩に恋をして、その代償に声と足を失った。
ほろりと零れ落ちた涙は、真珠の形をしていた。
※
『この学校には人魚姫がいるらしい』
そんな下らないこと、俺には一切関係ない。そう、思っていた。アホ面が嬉嬉として語るその話は、一つ下の普通科にいるという人魚姫の容姿や噂について。仮に個性が『人魚姫』だなんて馬鹿げた話が事実だったとしても、俺の進む道のりには何の関係もない。色恋にかまける余裕なんて存在しないし、サポート科でもないのなら関わるメリットもない。件の人間に会うことは一生無いだろうと、そう考え殆ど話を聞き流していた。
「でさ、実はその子、俺達の体育祭見に来てたらしくて! その後から声が出なくなったらしいから、もしかしたら俺たちの誰かが相手なんじゃないかって話があんだよ! な、な、もしかして惚れられちゃったかな? 突撃してみるべき?…あっバクゴー、どこ行くんだよ!」
「便所」
今日は一段とギャンギャンうるさい。いつもはストッパーになるクソ髪も、興味があるらしく今日は前のめりになって耳を傾けていた。…めんどくせぇ。
今日の課題はそこそこ難問だったから、静かな場所で取り組みたかった。かと言ってこのまま教室でやるにも周りが煩いし、自室でやるにはクーラーが効くまで蒸し暑い。図書室にでも行こうかと荷物を纏めて席を立つと、気付いたクソ髪がこっそり手を合わせてこちらを向いていた。フンと鼻を鳴らして教室を出る。夏の暑さがまだ燻っているこの季節は、嫌いじゃない。が、集中するには少し不便だった。
雄英は設備が整い校舎が広いせいで、移動するにも時間がかかる。利便性を追求するならもう少しどうにかならなかったのかとも思うが、仕方ない。廊下を走ればクソ眼鏡が五月蝿いし、先生に見付かれば面倒だ。大人しく歩いて階段に足をかけると、不意に視界が陰った。
「…はァ!?」
咄嗟の反射神経で受け止める。落ちてきたのは人間だった。どくどくと五月蝿い心臓を宥めて、声も上げずに落下してきた野郎に向かって罵詈雑言を浴びせてやろうと口を開いた。
普通、叫ぶなりなんなりするだろうと。下にいる人間が俺だから良かったものの、一般人なら巻き込まれて怪我をしていたに違いない。ンなことも分からねぇのか馬鹿がと、罵ってやろうと思った。
その言葉は全て、相手を見た途端脳内から消え失せていた。
「……っ!」
ぽろぽろと、目尻から真珠が零れている。はくはくと絶えず吐息を零す唇は、確かに何かを訴えようと動いている。それなのに、言葉にならない。まるで声を奪われたように、音になる前にその勢いを失っていた。
零れ落ちた涙は、かつんと床に落ちて、跳ねた。そのままころころと転がって俺の膝に当たり、止まる。指で摘んで拾い上げてみれば、光に反射して薄らと虹色に染まっているようにも見える。まるで本物の真珠を手にしているようだった。
かつん、かつん。女が泣く度、零れ落ちた宝石が床に当たって硬い音が生じる。
「…泣くな。俺の言っていることは、理解できるな?」
「っ!」
こくり、一つ頷いた女は瞬きして涙の残滓を散らすと、ゆっくりと頭を垂れた。恐らく謝罪だろう。
「あー…」
仮免の補講で、幾つか習ったことがある。そのうちの一つが、手話だった。『障害者』と呼ばれる立場にいる人達とも上手くコミュニケーションが取れるように、必要ならツールを叩き込まれたのだ。
招来ヒーローとしてやっていく上で、色んな人間と関わっていくのだからと。まさかこんなに早く使うことになるとは、思ってもみなかったが。
「………」
それなのに女は、困ったように眉根を寄せて黙り込んでいた。…この歳くらいまで話せない状態で暮らしてきたのなら、手話は学んでいると思ったのだが。
考えられる可能性としては、最近声が出なくなったばかりで、まだ己の意思を伝える手段を持っていないか。ちらりとばら蒔かれた相手の荷物を見回せば、小さいサイズのスケッチブックとペンケースがあった。そして、投げ出された杖らしきものも。…こいつ、歩くのにも不自由してるのか。
「…確認だ。イエスかノーで答えろ。首を振ればいい。」
怪我はあるか、現在痛むところはあるか。目視できる範囲でざっと確認を取りつつも、相手の返事を確認する。分かっちゃいたが、俺がしっかり盾になってやったおかげで相手に怪我はねェらしい。
「次、この杖があればお前は立って歩けるのか?」
こくり、また女が頷く。なら話は早い。さっさと荷物を纏めてやって、ついでに手も貸してやる。不本意だが、ここで放置して立ち去るのも寝覚めが悪い。なんせ自分が怪我をしそうな…打ちどころが悪ければ死んでもおかしくないような状況でさえ、声が出せなかったような女だ。周りに助けを求めることも、きっと儘ならないだろう。
「…、っ」
立ち上がったところで杖と、その後に纏めた荷物も渡してやる。いたれりつくせりだ。こんなこともう二度としない。
「…ンだよ」
立ち去ろうとすれば、ぐっと後ろから服の裾を引かれた。ゆらゆらと揺れる瞳の奥に見えたのは、憧憬とーーー。ああ、そうか。そういうことか。
すとんと理解してしまった事実に胸中で頷いていると、女が慌ててスケッチブックに何事か書き始めた。仕方がないから待ってやることにして、目の前にある旋毛を見下ろす。
『助けてくださってありがとうございました。お礼にもなりませんが、この真珠は一応本物なので良ければ売るなりなんなりしてください』
「いらねぇ。今後改めての礼も必要ねェ。てめェの気持ちは分かってんだ、だが俺はーーー」
「!」
女の瞳の奥にあったのは、俺への恋慕。これまで何度か向けられたことがあったから、確信があった。だがその気持ちは受け取らない。そんなもの、俺には必要ない。だからはっきりと、線引きしてやろうと思ったのだ。今後礼だなんだと理由をつけて俺の周囲をちょろちょろされても鬱陶しいと、そう思ったから。
はっきりフッてやろうとすれば、女は再び手の内の物全てを投げ出して、俺の口を塞いできた。当たり前のようにその身体が傾いで、今度こそ巻き込まれる形で俺たちは倒れ込んだ。
「ってぇな…!」
イラついて胸倉を引っ掴んで罵ってやろうとすれば、再び真珠が雨霰となって俺に降り注いできた。揺れる瞳にあったのは、振られることへの悲しみなどではなく、もっと原始的な恐怖。
カタカタと震える掌は、目の前の女が押し付けているとは思えないくらい強く、俺の口元を塞いでいた。
まるで俺が女の気持ちを否定するだけで、死んでしまうような。そんな有り得ない想像をしてしまうくらいに、女は青ざめ怯えていた。
「………ックソが! もう言わねぇよ。だからさっさと退け! また散らかしやがって…!」
二度目はないと思っていた親切心をこの短時間で再び発揮する羽目になるなんて、とんだ災難だ。図書館に行く気も失せた。さっさと自室に帰って落ち着きたい。無言で手を貸して、荷物を寄越してやる。
何も言わずに立ち去れば、後ろで女がおろおろしている気配がした。だが、無視した。これ以上調子を狂わされるつもりはなかった。
だというのに。
「クソが…!」
いつの間に入り込んでいたのか、制服のポケットの中から転がり出てきた真珠に頭を抱えた。
金輪際関わるつもりなどなかったが、これがどういうものなのか分からない以上、勝手に捨てる訳にもいかない。万が一あの女の体に支障が出てこっちが糾弾されるようなことになれば面倒だ。これまでの経験則で、俺に惚れた女は何故か己自身を犠牲にしてまでこちらへ献身しようとする衒いがある。ンなことは御免だ。
『珍しいな、お前から電話なんて。なんかあったんか?』
「アホ面、さっきのつまんねぇ話。詳しく聞かせろ」
「えっお前興味あったの? 早々に出てったからてっきり…教える分には全然良いけどよ。でも何でだ?」
興味津々な口調が腹立たしい。しかし女の正体はほぼ確信していた。個性、『人魚姫』。巫山戯た話だが、あの様子を見るに信憑性は高い。
「うっせぇ、変に茶茶入れしたらブッ殺す」
「こえーこえー。ったくしょうがねぇなー」
あの怯えようは尋常じゃない。余計なことをして、殺人なんてことになれば目も当てられない。勝手に死ぬのは勝手だが、その罪を己が被るなんて冗談じゃない。
「とりあえず個性のことは聞いてたか? 誰かに恋してしまうと、声が出なくなって、足も不自由になる。あと、これが恐ろしいんだけどよ…」
「その相手に振られたら、泡になって消えちまうんだってよ」
ーーーああ、クソッタレ。
やはり面倒事に巻き込まれちまったと、舌打ちが零れた。 窓の外から零れる月光が、手中にある真珠を淡く照らしていた。
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