ヤパロ夏油


夜の暗闇の中、街灯の光に照らされた細い道が目の前にぼんやりと浮かび上がっていた。左半分を欠いた月が空の高いところをぽっかりと切り取っていて、周りに人の気配はしない。思っていた以上に回ってしまった時計の針をちらりと確認した名前は、急ぎ足でこつこつとアスファルトの上を歩く。見知った道だから、急いでいたから。そんな油断がいけなかったのか、それともただただ彼女が不運だったのか──自分の住むアパートまで残り数十メートルというところ、いつもは避けて通るはずの停車中の車の傍らを通り過ぎようとした瞬間、名前は真っ黒な車に引きずり込まれた。
 



 


夏油はその日、朝から目に見えて機嫌が悪かった。その原因は前日の夜中にかかってきた、彼が経営に一枚咬んでいる夜の店からの一本の電話である。震える声で話し出したオーナーによると、なにやら数日前から店で人気の嬢に連絡がつかない。出勤日にも顔を出さず、不審に思って色々と調べてみたところ、彼女が消えたその日から週の売り上げの約二割がどこかへ消えてしまっていた。彼女の居場所は未だに分からず、売り上げの二割は十中八九彼女が盗んでいったのだろう。と、そういうことらしかった。

その電話を受けて事の全容を把握した夏油は、碌な返事も返さずプツリと電話を切ってしまった。どうして週の売り上げの二割も消えているのに報告が遅いのか。今までもこんなに杜撰な管理で店の経営に携わっていたのか。連絡がつかなくなった段階で手を打とうとは思わなかったのか。言いたいことはたくさんあったけれど、夏油の一番のストレスの原因はそれではなかった。A──仮に消えた女をAとしよう。Aは夏油のお気に入りだったのだ。
 
きらびやかな夜の世界でいっそ不自然なくらいに素朴。そうかと思えば自分にも臆せず喋りかけてくるし、媚を売っていると分かるのにそれが全く嫌味ではない。言葉の節々からは地頭の良さと、彼女の教養がちらちらと見え隠れする。Aとはそんな女だった。
夏油は彼女が店に来た当初、正直全然興味がなかった。しかし何度か彼女と接するうちに、もちろん淡いソレではなくあくまで経営者的な視点でだけれど、夏油はAをいたく気に入ってしまった。彼女の容姿が、この界隈では珍しいいかにもな清楚系だったのも良かった。
普段夏油の周りを取り巻く女性たちとはまるで違う物珍しさに、話していてイライラさせられることのない頭の良さに、夏油のみならずあの五条でさえも少なからず関心を抱いていたくらいである。

 
もっと頭が良いと思っていたのにな。
 

仮にもこの世界でそれなりに名の通った自分を騙し、自分の店から金を持ち出すなんていうのは馬鹿のすることである。清楚の皮を被ったずる賢い女狐をどう甚振ってやろうかと、懐からミントガムを取り出した夏油はそれを口に含んで、事務所へと向かうべく傷ひとつない黒塗りの車へ乗り込んだ。
 



 


「にしても、マジで命知らずだよなー。こんな何にも知りません、みたいな顔してんのに」
「あそこで働いてる時点でワケアリだろ。てか、夏油さん来るまで勝手に触んなよ」
「分かってるって。まだ死にたくねえし」
 

口にテープを貼られ、手足は完全に拘束され、自由の利かない状態で床に転がされた名前は体の震えが止まらなかった。車に引きずり込まれて、口を開く間もなく睡眠薬か何かで眠らされた名前が目を覚ました時、既に自由は奪われていた。
名前を攫った三人の男の話を聞いている限り、どういうわけか名前は長らくキャバクラで働いている系列店の中でも人気の嬢で、数日前に店から金を盗んで以来姿を眩ました怖いもの知らずの泥棒猫ということになっているらしい。もちろんそんな話は事実無根で、そもそも健全な大学生である名前は、キャバクラで働くどころか夜の街に近寄ったことすらもありはしない。
けれどもそうした名前の釈明を阻む口元のテープは、彼らが先程から話に出している「ゲトウさん」とやらが来るまできっと剝がされることはないのだろう。

 
このまま勘違いで殺されたらどうしよう。
 

脱走をするための脚も度胸もなく、床の冷たさが伝染して体が芯から冷えていく。恐怖のあまり泣きそうになって、けれども泣くことによって余計な危害を加えられては堪ったものではないと、名前は呼吸をすることで精一杯であった。
 

その時、外の廊下を誰かがコツコツと歩く音がした。音はどんどん近づいてくる。三人の男たちは一瞬ぴたりと固まり、そのまま素早く姿勢を正した。表情からはすっかりと色が抜け落ちており、先ほどまでぺらぺらとよく回っていた口はぴったりと一文字に閉じられている。扉の前で足音が止まる。そのままゆっくり扉が開いた。
 



 


夏油は自分の足元にうつ伏せで転がっている女の頭を見下ろしながら、朝に収めたはずの苛立ちが腹の底から上ってくるのを感じた。夜の店で働く人間にしては珍しい、細すぎないけれども守ってやりたくなる華奢さも、艶々と伸びた夏油と揃いの黒髪も、かつては彼が好ましく思っていたものである。
 

へえ、一時でも私を騙したんだから店でだけあんな感じなのかと思ったら、私服もそうなんだ。
 

彼女の服装が妙に自分好みだったことも相まって、夏油は無性に目の前の女をめちゃくちゃに殴ってやりたくなった。あんな女に、と笑い話にできたら良かったものの、床に転がるAはドレスを纏っていなくともまさしく夏油が認めた清楚さをその服装に表していた。
 

殴って、殴って、土下座で謝らせよう。別の店に売ろうとしていたけれど、新しい薬を試してもいいかもしれない。

 
しかし夏油は、泣き叫び暴れ狂う彼女を見てもこの怒りは収まらないだろうとしっかり頭で理解していた。

 
「随分と立派なことをしてくれたね」
 

夏油が口を開いた瞬間、部屋の温度が一気に下がった。
 

私はね、君のことは割と買っていたんだよ。機嫌を損ねない処世術を上手く身につけているなあって。それから、人を騙すのもすごく上手だよね。実際私を騙してみせたわけだしさ。でも、おつむの方はどうやら残念だったらしい。すごいよね、ヤクザが経営してる店から金を盗んでおいて、顔も隠さず呑気に歩いているなんて。大金じゃなければ盗んでもバレないと思った?私相手に今後も生き延びれると思ったの?フィクションの世界じゃないんだからさ、ちゃんと現実見ればよかったのに。悪いことをしたらごめんなさいだよね。でもそれができずにズルしようとしたんだから、それ相応の対価を支払わないといけないよね。
 

わかる?と、厭にゆったりとした口調で問いかけると共に、夏油は女の細い背中に右足を乗せた。柔い肌に靴底が食い込み、女の口から呻き声が漏れる。
 

返事がないのはいけないな。

 
そう呟いた夏油は床に片膝をつき、女の頬を掴んで乱暴に表を上げさせたところで、ぴたりとそのまま固まってしまった。
 







 
「人違いです…」
 

息も絶え絶えにそう捻りだしたきり、女は堰が切れたように真ん丸の瞳から涙を零した。不謹慎にも──そもそもヤクザに倫理観だとかそういうものを求めるのはお門違いかもしれないけれど、夏油は心臓がどくどくと波打つのを自覚した。ちらりと見えた女の横顔を先ほどまでAだと思っていたのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、女はまったくの別人だった。そりゃ、一瞬でも夏油が勘違いしてしまうくらい、間違って連れてこられるくらいには傍目から見て名前とAは似ていたのだけど、夏油の目から見て、あの清楚なAが下品に映ってしまうくらい、名前はいたく可愛らしかった。
そもそも夏油はAの見た目は好みだったのだ。ただ、上手く媚を売ってくる、図太くて賢い女を恋人として横に置きたいとは思わない。それが夏油がAをあくまで「経営者的な視点で」好ましく思っていた所以なのだけれど──目の前の女はどうだ。好みより数十倍好みな容れ物に、か弱い中身が入っている。夏油がか弱い人間を好むかどうかは別として、彼女の泣き顔は確かに夏油の庇護欲をそそった。元来持ち物は自分で管理したい質である。好きな服を着せてやって、好きな食べ物を与えてやって。目の前の弱い生き物が自分なしでは生きていられなくなる様を想像して、夏油は思わずうっそりと笑った。女の肩をゆっくり抱いて、なるだけ優しく擦ってやる。

 
「そうみたいだね。…本当に、申し訳ない。無関係の女性を巻き込むつもりはなかったんだけど…どういうつもりなのかな」
「す、すいません夏油さん、違うんです、違うんです」 

 
実を言うと、夏油の怒りは名前を目にした瞬間にすっかり萎んでしまっていた。もちろん普段ならこのミスは決して許されるものではなかったけれど、手違いでこんな上物が手に入ったのだから、怒るどころか褒めてやりたい。いや、もちろんAを許すつもりはないので、この件については後でしっかりケジメをつけさせるが。
そんな色々のことを考えながらも大げさに威圧してみせたのは、いわゆるパフォーマンスの一環である。ここで自分を車に引きずり込んで拘束した男たちを夏油が簡単に許してみせたとして、名前は夏油に嫌悪感を抱かずにはいられないだろう。身に覚えのない濡れ衣を着せられてヤクザの事務所に連れ込まれた時点で、彼女の夏油に対する好感度は間違いなくマイナスだ。じゃあそんな夏油がマイナスイメージを払拭するには?彼女に対して誠実であって、身の安全を保証してやる必要がある。

 
「どうして連れてくる時点で確認しないのかな。私は盗みをした人間を連れてこいとは言ったけど、関係のない人間を連れてこいとは言ってないよ」
「すみません、夜で暗かったから見間違えて…背格好も似てるし、住んでるところも近かったから」
「それが彼女を連れてきてもいい理由になるのかな?」
「…」
「なんで黙ってるの?まさか、私が来るまでに乱暴を働いてはいないだろうね」
「そ、それはないです、拘束はしたけどそれ以外では触ってません」
「…って言ってるけど、本当?」
「はい、触られたり殴られたりは、ないです」
 

ふうん、と呟いた夏油は、我慢していた分未だに涙が止まらない様子でしゃくり上げる名前をよしよしと胸に抱き寄せて男たちを睨んだ。今日はこのまま、落とし前については後日。頭上で交わされる色々の会話の断片を聞き取りながら、夏油に優しくハンカチを当てられた名前が覚えているのはここまでである。
 





 
目が覚めて真っ先に目に入ったのは木目の揃った天井である。なんだかやけに体が熱い。寝返りを打とうとして思ったよりも自由に動けず、不思議に思った名前は横を向いて思わずぎゃあと叫びそうになった。同じ布団に、男がいたのだ。男──夏油はいつからそうしていたのか、眠る前に男たちを詰めていた時とは違ってにこにこと目尻を下げて彼女を見つめており、あまりの距離の近さに名前は咄嗟に距離を取った。
 

そんなに離れないでよ、もっとこっちにおいで。
  

柔和な笑みで手招く彼の本性を、しかし名前は知っている。
 

「あの、ここは」
「ああ。もう夜も遅かったし、女性の家に勝手に押し入るのはどうかと思って私の家に連れてきたんだ。大丈夫、名前ちゃんがこれ以上危険な目に遭うことはないよ。本当にすまなかったね」
 

すまなかった、と言いながら頭を下げる夏油が思いの外真面目な顔をしていたものだから誤魔化されそうになった名前は、しかし違和感に首を傾げた。今この男は、自分の名前を呼ばなかったか。
 

「…なんで名前知ってるんですか?」
「少し持ち物を拝借して。そうだ、スマホのロックはもう少し難しいものにした方が良いよ。身分証に載っていた誕生日を入力すれば一発だったから」 

 
昨日の日付にでもしようか、私たちが出会った記念に。
 

寒くはないのに体が冷えて、暑くはないのに汗が伝った。
夜の暗闇の中で男の目がぎらぎらと輝いて、その奥底にはどろどろとした熱が宿っている。
いつの間にか、夏油が目の前まで来ていた。緩い着流しの向こうに覗く、肌の上には黒々とした花が描いてある。

 
「映画が好きなんだってね。友達が映画に詳しいから、今度会わせてあげよう」
「そうだ、どうせだからそれっぽく言ってみようか。悟はよくこの言い回しを使うんだよね」
 

いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?

 
喉の奥で細く呟いた、一言は夏油に聞こえていたのか。
 

「悪いニュースは、君をカタギに戻してあげられない。ほら、一般人を攫ったとなるとまずいんだよね。今はそういうの、厳しくなってるから」
 

「いいニュースはね、君はこれから働かなくていいよ」
 

可愛いなあ。ほんとうにかわいい。
 
名前を腕の中に抱きすくめて、夏油はうっとりと頬を擦り合わせた。