中学時代の同級生王子一彰と@
午前七時の教室は心なしかいつもより空気が澄んでいる。春といえども少し肌寒さを感じて、寒がりな私はすっかりずれて床についてしまった膝掛けの埃を軽く払ってそれをそっと元の位置に戻した。
四月に入ってようやく諸々が落ち着いて、やっと生活がいつも通りのサイクルで回り始める。昔から人の多い朝の通学路が苦手だった私は、中学の頃から始業時間よりも早く学校に来て誰もいない教室で勉強することをかれこれ三年ほどの習慣にしていた。高校に入学してからは色々と立て込んでいて朝の早起きも中断せざるを得なかったけれど、それも全ては昨日までのこと。四月半ばの今日この日、ようやくそのルーティンを再開させることができて私は朝から気分が良かった。今日は絶対、いい日になるに違いない。
「……あれ、早いね。おはよう、名字さん」
そうしていい日を確信してから数秒後、教室に近付いてくる足音に気が付かなかった私はいきなり開いた扉に驚いたのちほとんど反射的に教科書をばたんと閉じてしまった。
王子一彰。なんでここにいるんだ?と頭の中で自問して、同じクラスになったからだよ、と自答する。かの有名な「王子くん」が爽やかな微笑みを讃えて私の机に近寄ってくる様は、大人しく模範的でかつ奥ゆかしい性格の私にとってさながら死刑宣告と言っても全くもって過言ではなかった。
中学時代の王子一彰を五十枚のオブラートに包んで表現するとすれば、まさしく「尖っていた」の一言に尽きる。物腰が柔らかく親切で頭脳明晰、少し天然っぽいところもなんだか可愛くておまけに抜群のルックスが最高。同じクラスの女の子たちが彼をそう評するのを聞いて本気で怪訝な顔をしてしまったのはまだまだ記憶に新しい。交わることのない人種だろうな、と決め付けて彼から隠れるように過ごした中学時代を嘲笑うように、王子一彰はすっかり丸くなって再び私の前に現れた。
そりゃあ、同じ中学の人と一緒のクラスになることもあるでしょうよ。でもさ、それは流石にズルじゃん。最悪のジョーカーでは?
棘をすっかり抜いてしまって白馬の王子様になった彼は高校入学初日、クラス分けを確認した私が教室に入るなり「名字さん、同じクラスなんだね」とあたかも数年来の友人のように朗らかに声をかけてきた。そのせいで同じクラスの女の子たちからはあらぬ疑いをかけられるわ、とにかく質問攻めにあうわ。疲れ切った私を見てニコニコと笑っていた彼のことを今でも私は許していない。王子一彰、今に見てろよ。
「朝早くからどうしたの?昨日は来てなかったよね」
「えっと、なんか…勉強みたいな……」
私の馬鹿、勉強みたいなってなんだよ。
私が一人でごちゃごちゃと考えている間にいつの間にか近くまで来ていた王子一彰は、おもむろに一つ前の椅子を引くとゆったりとした優雅な動作でそこにそっと腰掛けた。あ、もしかして今から話さないといけない感じですか?そうですか、そうですよね。
「朝早くからえらいね。そういえば中学の頃からそうだっけ」
幾分か近くから発されるようになった声が空気を震わせて、手元に視線が突き刺さる。目玉を右往左往させた後に恐る恐る顔を持ち上げると、王子一彰の伏せられた目元に並ぶ綺麗に生え揃ったまつ毛が目に入って私は柄にもなくまるで映画のワンシーンみたいだな、と思った。
「……王子くん、私のこと知ってたんだ」
「もちろん。中学一緒だったでしょ、初めて同じクラスになったよね」
「あ〜……はは、そうだね……」
これは新手の拷問か?と思いながら一向に退く様子のない王子一彰をちらちらと上目で伺っていると、不意にばちりと目が合ってしまう。お手本通りの笑みを返されてなす術のなくなってしまった私は、今後一生不用意に顔を上げないことを実家にいるおじいちゃんとおばあちゃんに誓った。というか、入学初日に声をかけられたのはワンチャン人違いでは?とすら思っていたのに、綺麗な笑顔と共にワンチャンどころかノーチャンにされてしまった。無念。
「受験終わっても真面目に勉強するんだ」
「……えーっと、なんかもう習慣みたいになってるから落ち着くんだよね」
「へえ、変わってる」
あなたの方がよっぽど変わってますよ!と声に出したいところをぐっと堪えて我慢する。というか、随分と明け透けな物言いをする人だな、今初めてまともに喋ったけど。
変わってる、と言われた私がちょっと機嫌を損ねていることになんて絶対に気が付かないであろう王子一彰は思いの外乱雑な動作で鞄を前の机に置くと、椅子を跨ぐようにして体の向きを変え本格的に私と話す体勢に落ち着いた。その一つ一つの動きに中学時代の片鱗を感じ取った私は意味もなく体を強ばらせる。というか、今思いついたけど、これもしかしてお前中学の時のこと喋んなよって牽制されるのでは?じゃないとこんな長々と私なんかと話さないよね?
椅子の背もたれに腕を乗せて、更にその腕に整った顔を乗せる形で私を見上げる王子一彰の意図を正確に汲み取った私は勇気を出すためにぎゅっとお気に入りのシャーペンを握った。このクラスで彼と同じ中学だったのはなぜか私一人で、何を隠そう高校デビュー(?)した彼は、多分それをペラペラと吹聴されると困るのだ。よし分かったよ王子一彰。不本意だけどあなたの秘密はちゃんと墓場まで持っていくから。
「そういえば名字さんって、」
「あの、王子くん」
「ん?」
「えー、その、もう大丈夫だよ」
「大丈夫って?」
「だから、その、私、言わないから……」
「?何を?」
「つまり、あの、王子くんが昔、結構色々やってたこと……」
決死の覚悟で捨て身タックルをした私を見た王子一彰は、しばらく目を丸くしてきょとんとしていたかと思うと一呼吸おいてなぜかその場で爆笑し始めた。
「え〜……王子くん?王子くん、大丈夫?」
「っひ、……ま、って。みょ、名字さん、もしかして、」
「えっ、何?何、私何か言った?」
「あっはは、待って。ダメだ、お腹痛い」
息も絶え絶えに文字通り抱腹絶倒している王子一彰の様子を見て、今ならワンチャン釘バットとかで勝てるのでは?と意味のわからない考えが私の頭に浮かんでくる。というか、釘バットは完全に相手の土俵だから奪われて速攻アウトになるだろう。だって王子一彰、昔色々やってたし。
一体全体何が面白いのか、涙を拭いながらひーひー笑う王子一彰は内側からの笑みを隠し切れずに「心底愉快」みたいな表情をしていて、一通り笑いの波が去った後、息を整えた彼は再び私と向かい合うってにこやかに笑いながらその形の整った唇を開いた。
「別に僕は口止めしようと思って名字さんに話しかけたわけじゃないよ」
「……そうなの?」
「そもそも君、わざわざそういうこと広めるたちでもないだろう。それこそ僕からの報復を恐れてるって感じでさ。……ふふ、報復だって」
何かのスイッチで思い出し笑いをし始めた王子一彰は、傍目から見ると全くもって変人そのものに違いなかった。何が白馬の王子様だ、何が薔薇の貴公子だ。いや、薔薇の貴公子は言ってるの一人しか聞いたことないけど。
とにかくそうやって口を開いた王子一彰から出てきた言葉は私にとって衝撃的で、口止めじゃなかったの?!と思ったのがそのまま顔に出ていたのだろう、王子一彰はまた「心底愉快」みたいな表情を作って私を見ると、そのまま流れるように綺麗な手でシャーペンを持っていない方の手持ち無沙汰な私の手をぎゅっと握った。……ぎゅっと握った?
「さっき変わってるって言った時、名字さんちょっとイラッとしてたよね」
「え、そんなことないよ」
「いや、いいよ、分かってるから。でも、変わってるって僕にとっては最上級の褒め言葉なんだよ。「普通じゃない」って、名字さんが思ってるよりずっと珍しいし面白いことなんだ」
まるでペットの犬を愛でるような、何か大切で愛おしいものに愛を注ぐような目つきで王子一彰は私の左手の甲をその綺麗な親指ですりすりと撫でた。意図せず顔に熱が集まる。いつのまにかこちらを見ていた彼の両の目に何かただならぬものが宿っているような気がして、私の膝から落ちた膝掛けがそのまま床に滑り落ちた。
「名字さんは昔から真面目とか変わってるとかって言われるの嫌がってたみたいだけど、それって僕にとってはちょっと憧れだったんだよね。そういうの、自分にできることじゃないから」
「……」
「あ、なんで知ってるのかって?ずっと見てたから分かるよ」
中学時代、王子一彰は私という存在の対極にいるみたいな人間だった。言うならば磁石のS極とN極。そしてそんな男が、今磁気を捻じ曲げて何やらこちらに近付こうとしている。頭の中でアラームが鳴って、それでも王子一彰は私の手を撫でるのをやめなかった。
「もっと分かりやすく言ったほうがいいかな。好きだよ、名字さん。……ずっと好きだったんだ」
金魚みたいに口をぱくぱくと開閉する私をまた愉快そうに眺めてから、王子一彰は名残惜しそうにしながらも今度こそ手を離してそのまま椅子から立ち上がった。あんなに寒かった教室はいつの間にか暑いくらいになっていて、顔からは火が噴きそうになっている。
「もう「色々やってない」から、話しかけてもいいだろう?中学の時はさ、君、ああいう人間嫌いだと思って話しかけれなかったんだ」
「……」
「あ、そうだ、言うの忘れてた。名字さんのことが好きだから、僕の彼女になってほしい」
ま、今言っても絶対断られるだろうし、これは宣戦布告ってことで。
そう言って軽やかに鞄を手に取り扉の方まで歩いていった王子一彰は、教室を出る前にこちらを振り向くとにこりと笑って私にひらひらと手を振った。王子一彰という嵐が去って五分後、私はようやく「今日はボーダーに所属している生徒は全員午後から登校する手筈になっている」と昨日のホームルームで担任が言っていたことを思い出してそのまま頭を抱えるのだった。