中学時代の同級生王子一彰とA
「あ、」
「……」
今日は朝からツイてなかった。中学の頃に友達とお揃いで買ったお気に入りの靴下にはいつの間にか親指の部分に穴が開いていたし、わざわざ鍋で沸かしたミルクティーが熱すぎて猫舌のくせに朝から舌を火傷してしまった。挙句登校中にいきなり土砂降りの通り雨に降られてしまうのだから、きっと今日はもう何もしない方がいいということだろう。
誰もいない朝、しんとした学校目掛けて水飛沫をあげながら一目散にかけていく。無事に屋根のある所まで辿り着いて靴箱近くの玄関口でびしょ濡れになった制服を絞り切った瞬間、人の足音を聞いた私は何の気なしにそちらに向かって視線を向けた。
「えーっと、」
「……」
そこに立っていたのは同じクラスでかつ私の天敵、昔色々やってたでお馴染みの白馬の王子こと王子一彰だった。濡れ鼠になった私を認識したはずの王子くんは、しかし珍しく一言も言葉を発さなかった。いつもはもう黙ってくれませんか?と言いたくなるほどによく回る口が、今は全くその役目を果たしていない。ぽかんと口を開けて大きな目をまんまるにしている王子くんなんて、きっと私しか見たことないんじゃなかろうか。
これが俗にいうアホ面では、と若干失礼なことを考えながらなんだか沈黙が辛くなってきてしまって、穴が開くほどの視線を感じた私が蚊の鳴くような声で「おはよう」と言った瞬間、今まで黙っていたはずの王子くんはこれでもか、というほどに顔を歪めてずかずかと大股で一気に距離を詰めてきた。何、本当に何ですか?
「こっち」
朝の挨拶も貼り付けたような笑顔も、「らしさ」を取っ払ったみたいに不機嫌な顔をした王子くんは私の腕を掴むとそのまま校舎に足を踏み入れた。靴も履き替えてないし、おまけに全身びしょ濡れのままだし。というか王子くんはなんか怒ってるし。目まぐるしく移り変わる展開についていけずに目を白黒させる私のことなど気にもしていないのか、機嫌を損ねた様子の王子くんは結局「更衣室」と書かれてある一階の階段横の部屋にたどり着くまで一度もこちらを振り返る様子を見せなかった。
「これ、使いなよ」
一切躊躇することなく更衣室の扉を開けた王子くんに押し込まれ、ややもつれ気味の脚をどうにか動かしながら中に入る。私に続いて中に入った王子くんは、持っていた鞄を漁るとそこから青色のタオルを取り出した。
「いや、あの、私持ってるから」
「一枚で足りる?早くしないと、寒いんだから風邪引くよ。僕は別にこれ、使う予定もないし」
「……ありがとう」
本当は借りなんて作りたくなかったけれど、王子くんの言っていることは一から十まで全く反論の余地もないほどに正しかったので私はひとまず謙ることにしながら青いタオルを受け取った。あと、王子くんがめちゃくちゃ怖かったので受け取らないとボコボコにされそうだなと思った。
置いてあったパイプ椅子を開いた王子くんは長い脚を組む形でそこに腰掛けた。その際に錆びた椅子が嫌な音を立てたけど、思わず顔を顰めた私のことをやっぱり王子くんは視界にすら入れていなかった。いつもはハムスターの回し車ですか?と言いたくなるほどに回る口も今日は全く稼働しておらず、先程からなぜか一度も目が合わない。
何で怒ってるのかな、というかそんなに怒るならほっとけば良くない?
あの日告白らしきものをされてからというもの王子くんから向けられる優しさに完全にあぐらをかいていた私は、初めて見た……というよりも初めて接した笑顔を貼り付けていない彼を目の前にして何だか戸惑いが隠せなかった。顎に手を当てた王子くんがいっそわざとらしいくらいに大きな溜め息を吐く。わかりやすくびくりとした私をようやく視界に入れたのだろう、ぎこちない笑みを浮かべた王子くんはあくまでこちらを見ないようにしながら視線を下げたままの状態で顔を上げて話をする体勢に入った。
「傘は持ってきてなかったの?」
「……折り畳みは学校に置き傘してたんだ。天気予報は晴れだったから、普通の傘は持ってきてなくて」
「ふうん。次からは毎回傘を持って帰ることをお勧めするよ」
「そうします……」
もう、めちゃくちゃ、嫌味!アンタは姑か!
内心で憤りつつ、いやでもこの場合言われても仕方ないよな……と自分を鎮めた私は、とりあえず濡れに濡れまくった髪を拭くことにしてようやく鞄を下に下ろした。青色のタオルを手に取って一秒、しばし思考停止。
このタオル、めっっちゃいい匂いする………。
ダメだ、これは鞄とか拭く用にしよう。このタオルで私のこと拭くのはなんか多方面に申し訳なさすぎる。
一人でわたわた騒ぐ私の傍ら、パイプ椅子に座った王子くんは鞄からスマホを取り出して何やらそれを弄り始めた。朝の更衣室に静寂が訪れて、外で雨がしとしとと降る音がする。手元の機械が発するブルーライトに照らされた王子くんはやっぱりこちらを見る様子もなくて、一通り髪を拭き終わった私は何も考えず先程から気になっていたことを安易に口にしてしまった。
「王子くん、なんでこっち見ないの?」
私がその言葉を口にした瞬間、比喩ではなく室内の温度が一気に下がった。漫画みたいにぴしりと固まった王子くんはそこから微動だにせず、え?これなんかやばいこと言った?と悟った私はそこでようやく彼の顔を見る。
「……」
「……」
般若のような形相を想像していた私の予想に反して、王子くんの白い頬はなんだかちょっと赤らんでいた。青い目玉がよく見ないとわからないくらい小刻みに左右に揺れて、スマホを持つ手は何だか震えているような気すらしてくる。
え?これもしかして照れてる?なんで?というか、怒ってないの?
意味がわからない、といった風に首を傾げる私を見てとうとう観念したのだろう、本日二度目の大きな溜め息を吐いてから左手の甲で口元を隠した王子くんはいっそミュージカルか?と言いたくなるくらいわざとらしい動作でそのまま顔を右に背けた。
「透けてる」
「……」
「……」
「……」
「……」
「王子くんそういうの気にするんだ……」
すみません、今のは完全に悪手でした。
私の一言を聞いてとうとう頭を抱えた王子くんの体勢はもはや考える人の像みたいなフェーズに入っていた。そっか、王子くん、見ないように……というか、お目汚しすみません……。
反射的にタオルで胸元を隠した私は、その時に掴んだタオルから王子くんの匂いがしてなんだかいっそ死にたくなった。だって王子くんにそういうところを見られてるだなんて、今の今まで全く想像もしてなかったから。なんか生々しいというか、恥ずかしいというか、とにかくなんだかむずむずする。
「ここまで言ったからもう言っちゃうけど、スカートも夏用なのかな。……その、それも透けてる」
「殺してください……」
「早まらないでよ。僕は玄関で……一瞬見ただけだし、他の人には見られてない。というか、不可抗力とはいえ見ちゃってごめんね」
「王子くんのこと何怒ってんのこいつとか思ってごめんね……」
「そんなこと思ってたの」
とにかく早く拭いちゃいなよ。寒がりだろう、君。
ようやく表情を和らげていつもの調子に戻ってきた王子くんは、やっぱり目線を下げたままの状態で私にそうやって促した。私も大人しくそれに従う。濡れた制服が肌に張り付いて気持ち悪いけど、今日ばかりは朝早く登校してたこと、そして体育があることに感謝してもいいかもしれない。鞄の中の体操服に思いを馳せてちょっと和んでいた私が全身を拭き終わると、ずっと黙っていた王子くんはすくりと立ってそのままパイプ椅子を折り畳んだ。
「ここ、水泳部が使ってるから朝は開けっぱなしなんだ。もっとも今日は雨で誰も来ないだろうけど」
「へえ……」
「先に教室に行ってるから、着替え終わったらそのままおいで。……流石に体操服は持ってるよね、今日体育あるし」
「持ってる、持ってます」
鞄を持った王子くんはくるりとこちらに背を向けるとじゃあ、とそのまま手を振った。ちゃんとお礼を言わないといけないのに、喉に石が詰まったみたいに上手く言葉が出てこない。というか、なんか、王子くん今日……いや、なんでもない。かっこいいとか思ってないし、この人昔は不良だったし。これはヤンキーが捨て猫拾ってるとこ見てキュンとしちゃうみたいなアレだし。
脳内で色々言い訳をしていると白馬の王子様はいよいよ更衣室を出ていきそうになっていて、気付いた時には私は思わず声をかけていた。
「あの!」
「……ん?」
「えーっと、本当にありがとう。声掛けてくれたのが、王子くんでよかった」
「……名字さんさ」
声をかけられて振り向いた王子くんは、私からの言葉を聞いてまたもや真顔に戻ってしまった。今日は色んな王子くんを見るな……まあこの人昔不良だったけど。ごちゃごちゃ考えていると、恨めしそうに眉を下げた王子くんが困ったみたいに視線をうろうろさせているのが見えて私は体の芯の方がどくんと跳ねたみたいな感覚を覚えた。
「な、何?」
「名字さんが僕のことどう思ってるかは分からないけど、僕は思ったより普通の人間だよ」
「……そんなことないよ、王子くんは変わってるよ!」
「それ褒めてる?」
「だってこないだ変わってるは褒め言葉だって言ってたし……」
「ああ。そういうことじゃなくて」
そこで一旦言葉を区切った王子くんは今度こそしっかりと真正面から私を見据えていた。こういうところを見てしまうと、彼のことを案外誠実な男だと思ってしまう。そして、案外不器用だなとも。
「そういうことじゃなくて……好きな女の子にそういう風に言われると、普通に勘違いしちゃうよって。少なくとも僕は、君に下心があるから」
しばらく動く気になれなかった私は結局ホームルーム直前に教室に駆け込むことになった。当たり前だけど、体操服で授業を受けているのなんてその日は私一人だけだった。