隠岐くんに告白される
お手洗いに行こうと重い腰を上げて教室から出た私に、隣のクラスの隠岐くんが声を掛けてきたのは今日の昼休みのことだった。
「あんな、俺隠岐って言うんやけど。ちょっと話したいことあって、放課後時間ええかな」
人の少ない廊下の真ん中、そう言って柔和に微笑んだ隠岐くんは同じ学年のちょっとした有名人だった。かっこよくて優しくて、ボーダーでも有名な関西から来たイケメン。そういえば去年委員会が一緒だったなあとか、毎日通学路で見かける気がするなあとか、思い返してみれば隠岐くんとの接点はこれまで結構あったかもしれない。でもその時はそんなことより周りから投げかけられる好奇の視線が気になって仕方なくて、とにかくここから逃げたいと肯定の意を返した私に、「終わったらそっちの教室行くわ」と言った隠岐くんは照れたみたいに笑うとそのまま来た道を戻っていった。
「好きです」
「嘘やろって思うかもしらんけど、ほんまに名字さんのこと好きなんです」
「俺にチャンスください」
人がいなくなってから教室を訪ねて来た隠岐くんの表情を見て、何の予感も湧かなかったのかと問われれば正直そんなことはない。放課後の学校に反響する運動部の掛け声をBGMに、震えた声でそう言った隠岐くんの視線が私の左胸にある心臓を射抜く。手のひらにじっとりと汗が溜まるのを感じた私は無意味にそれを拭いてみたりするけど、拭いても拭いても汗は噴き出る。
黙り込んだ私を見るに見兼ねたのか、目の前の隠岐くんは何度か唇をむずむずさせたあと、申し訳なさそうに眉を下げて「ごめん、困らしてもうたかな」と言った。そして教室に静寂が訪れてしばらく時間が経過した今、私はいい加減目の前で俯いている隠岐くんにちゃんと返事を返さないといけなかった。
♢
「名字さん」
「、隠岐くん」
「どうしたん?誰か呼ぶ?」
「数Bの教科書忘れたから友達に借りようと思って」
「あ、俺持ってんで。ちょっと待っといて」
あの日あの場で私の返事を聞いて、一瞬だけ諦めたみたいな顔をした隠岐くんはやっぱりなあ、と貼り付けたみたいに綺麗な顔で笑った。だけどそのあと諦め切れない風に食い下がってきた彼が「じゃあ友達から」と崩れた口角を無理矢理上げて笑うものだから、それがなんとなく傷ましくて断り切れなくて、あれから一ヶ月経った私たちは結局友達みたいな妙な関係に落ち着いていた。
「はい、これ」
「ありがとう。今日そっち数Bある?」
「うん、5限にある」
「じゃあそれまでに返しにいくね」
「待ってるわ。なんやったら俺が行ってもええけど」
「いや、普通に私が行くし。じゃあね」
「めっちゃ塩対応やん!またあとで」
いつも、というほどでもないけど、二人だけで何かを話す時の隠岐くんは割と好意が漏れ気味だ。でも今みたいに教室で話してたり、はたまた第三者を交えてだったり、そういう時の隠岐くんはとにかく普通の態度を崩さない。多分だけど隠岐くんは、女の子たちが自分のことをどう思っているのか、そこをちゃんと理解してるんだと思う。そういう気遣いのできるところ、私が無駄に陰口を叩かれないよう人前ではあまり話しかけてこないところを見ていると隠岐くんは素敵な人だなと思わせられるし、素敵というか、まあ、なんというか。
……と、ここまでくればもうお察しじゃないだろうか。どういうことかというと、一ヶ月の友達期間を経て隠岐くんからの好意をちょっとずつ受け取るうちに、チョロい私はまんまと隠岐くんのことをいいな、と思うようになってしまったのである。こういうのは勝ち負けじゃないと頭ではちゃんとわかってるけど、結局のところすべては隠岐くんの作戦勝ちなのだ。だって自分のことを好きだと言ってくれる人に優しくされて、好意を伝えられて、オマケに隠岐くんはイケメンで、そんなのコロッといかないほうが難しい。
優しい隠岐くんはあれからもずっと優しいままで、この一ヶ月の間隠岐くんの目を見るたびに私は「あ、隠岐くんって私のこと好きなんだな」ということを本当に何度も実感させられた。だからこそそろそろ返事を返さないといけないのに、彼の好意に甘えたままの狡い私は今日言おう今日言おうと思いながらもそのことをずっと先回しにしていた。なんとなく後ろを振り向くと、まだ教室に入っていなかった彼と目が合って顔を綻ばせた隠岐くんがこちらに手を振っている。
「気ぃつけてな〜」
「いや、隣なんだからもう着いてるよ」
壁一枚隔てただけの空間を行き来するにも見送ってくれる隠岐くんに、今日こそちゃんと応えないといけない。笑う隠岐くんとあの日の俯いた隠岐くんが重なって、私は今度こそ隠岐くんがくれた大切な気持ちを拾い上げにいくことにした。
♢
放課後、私はあの日隠岐くんがそうしてくれたように誰もいなくなってから彼を教室まで迎えに行くことにした。あの日と逆になった立場を思うとなんだか少し不思議な感じがして、緊張のあまり心臓が口から飛び出そうになる。深呼吸をしてから荷物を手に取り、誰もいなくなった教室に鍵をかける。そうして満を辞して隣のクラスに足を踏み入れた瞬間、他にも人がいたことに気付けなかった私は隠岐くんの隣にいる可愛らしい女の子を見て文字通りサッと血の気が引いていくのを感じた。
「あ、隠岐」
「何?……あっ、名字さん」
「というか、今知ったけどそこ二人接点あったんだね?何繋がり?」
「何でもええやん。ほら、早よ帰り」
「隠岐冷た!しょうがないな〜、また明日ね」
「はいはい」
隠岐くんと一緒にいた女の子は一年の頃から他クラスの間でもたびたび話題になっていたような明るくて可愛い女の子だった。私が教室に入った瞬間探るような視線を向けて来た彼女に頭のてっぺんから爪先までをしっかりと眺められたような気がして、でも多分これは気のせいで済ませられるようなものじゃない。急に恥ずかしくなってきて、なんだか身分不相応な場に来てしまったみたいで、最初から最後まで可愛かった女の子が去った教室の中で私はいっそ泣き出したかった。
もしかして隠岐くんは、もう私のことなんて好きじゃないのかもしれない。自分でも情緒不安定すぎると思ったけど、あんなに可愛い女の子と性格まで卑屈な私だなんて、どっちが魅力的なのかは比べるまでもなく明らかだった。今までの隠岐くんを信じる気持ちと、どうしても自信が持てない自分。一ヶ月前の隠岐くんは、自分のことを好きかどうかもわからない相手にどうして告白しようと思えたのだろう。
うじうじと悩んでいるうちに俯き気味になった視界に誰かの上履きが入り込んできて、ハッと顔を上げると隠岐くんとばっちり目が合ってしまう。
「なんか話したいことあるんやんな?」
隠岐くんはいつもみたいに優しい顔で笑うと、こてんと首を傾げて私の顔を覗き込むみたいにこっちを見ていた。朝と何も変わらないはずの隠岐くんの本心が読めなくなって、じわじわとこみ上げてくるものがある。
別に今日じゃなくてもいいんじゃないか。隠岐くんが本当にまだ私のことを好きかどうか見極めて、それで好きだったら告白しよう。もし隠岐くんが私のことを好きじゃなかったら、その時は諦めたらいいだけなんだ。元々不釣り合いで、なんで私のことが好きなのかも分からなかった。
告白とは、私にとって閻魔大王の膝下に突き出されるも同然だった。上手くいけば天国、そうでなければ地獄。相手に選んでもらえるかなんてよほどの確信がないと分からないし、その相手は深く考えることもしないで私のことを門前払いするかもしれない。
あの日震えていた隠岐くんの声を思い出して、隠岐くんがどういう気持ちだったのかとか、そういうキリがないことをいつまでも考えてしまう。深く考えるまでもなく断ったのは何を隠そう私自身で、隠岐くんはあの日一回地獄に落とされた。
「好き」
「えっ」
「ごめん。……隠岐くんのこと、好きなの」
「えっ、?ちょ、……俺、のこと好きって言うた?」
今までのこみ上げてきた何かを抑えていた堰が切れて、気付けば口から滑り出していた。一度滑り出すともうあとはずっと止まらなかった。口に出せば出すほど隠岐くんのことが好きだと、いいなと思ってるとかじゃなくて本当に好きなんだと、そういうあれそれのことを私はやっと実感している。
「優しいところが好き」
「絶対に人を悪く言わないのも好き」
「変なノリに巻き込まれてもちゃんと断れるところも好きだし、」
「人によって態度変えないのも、……ちょっと嫌だなって思ったこともあったけど、好き」
心が揺れて、私は今初めて地獄の門番に謁見している。もしも地獄に落とされたら、私の気持ちは血の海の中を漂うことになるのだろうか。拾って掬い上げて、暗い夜でもちゃんとそれを見つけられる日は来るのだろうか。
「………めっちゃ、嬉しい」
音が鼓膜を震わせて、反射的に顔を上げると隠岐くんの頬はすっかり赤くなっていた。
「待って、ちょおこっち見んとって」
隠岐くんは萎んだ風船みたいにするするとその場にしゃがみ込むと、両手で顔を隠してそのまま何も喋らなくなってしまった。
♢
「絶対、もう友達やめよって言われるかと思っとった。……いや、しょうみ名字さんもちょっと俺のこと好きなんかな、とか思うこともあったけど」
名字さん色んな奴に優しくしすぎやから、そんな顔で見とったら勘違いしてまうし、そんなんほんまにやめてほしいし、なんかもう俺今何でも喋ってまうし、ほんまあかん、いっぺん殴ってみてくれん?
あの後お互いが一通り落ち着いてから、隠岐くんはそれまでの反動みたいに喋るのをやめなかった。ここが好き、ああいうとこが好き、とお返しみたいに事細かに説明されて、恥ずかしくなってしまった私が口をむずむずさせているとそれを見逃さない隠岐くんはすかさず「その顔も可愛い」と言ってくる。
隠岐くんが血の海の中から拾った私の心が月の光を受けて輝いているみたいで、その輝きを受けて全身がぽかぽかと熱を発している。あの日の隠岐くんの気持ちをようやく拾い上げることができたんだから、今度は大事にしないといけない。
「隠岐くん」
「ん?」
「私と付き合ってほしい」
「……えっ」
「?」
「そんなん付き合うに決まってるけど、」
「良かった。……いや、好きとしか言ってなかったから」
「……うわ!待って、そういうこと?そんなん俺が言いたかってんけど!」
教室の鍵を閉めて外に出ると、今度こそ校舎には誰もいなくなっていた。隠岐くんと並んで階段を降りながら、左胸にある心臓の音がずっと耳の奥で鳴り響いていた。