高校時代に仲の良かった出水公平



 大学図書館の正面入り口を入ってすぐに見える広い階段を登って折り返し、哲学の本が置いてある書架を通り過ぎる。ひらけたところに出たので今日の自習場所を確保しようときょろきょろ辺りを見回してみたけど、そこに設けられた一人用の自習スペースはいつもの閑散とした様子と違って試験を前にした三門大の学生によって一つ残らず埋め尽くされていた。図書館の自習スペースが埋まるのは、少なくともまだ一か月とちょっとしかこの大学に在籍していない私にとっては稀なことだ。いつもは喋りながら勉強できる食堂や空き教室で席を探す方が難しいくらいなのに、今日に限ってはここに居場所を見つけられそうもない。

 騒がしいところで集中することが苦手な私にとってこれほど良い自習場所もなかったけど、席が確保できないなら仕方がない。一応ぐるっと一周してみて、どこの席も空いていないことを確認したため踵を返して元の道を辿る。初夏になる手前の季節特有の紫外線が肌に突き刺さる感じを鬱陶しく思いながら、横着して日傘を持ってこなかった私はなるべく陰に入りながら駅までの長い道のりを早足で歩いた。

 駅に着いてホームに繋がる階段を降りていると、ちょうど電車の到着を知らせる音楽が流れてきたから慌てて電車に飛び乗った。三門大は家から徒歩で行ける距離だけど、今日は数駅隣にある市立図書館で勉強することにしたのだ。

 バタバタしながら飛び乗った電車でちょうどぽっかり空いていた座席に落ち着いて数秒、揺れ動く電車の向かいの窓に自分の顔が反射している。切ったばかりの前髪が割れていたから手で撫でつけて整えてやり、そのままなんとなくぼーっとしていた。するとぱちりと音がしたみたいに窓の中の自分の隣に座っている男の子と目が合って、その顔に見覚えしかなかった私は思わずあっと声を上げてしまいそうになって慌てて顔をサッと下に向けた。


  



 出水公平は何を隠そう高校時代の同級生で、彼とは昔かなり仲が良かったのにある時期以来なぜか一気に疎遠になってしまった。……いや、なぜかなんて言うのは嘘だ。彼と疎遠になった原因は、一言で言うと同級生から付き合ってんじゃねえの、茶化されまくった結果私が彼を避けるようになったからである。
 出水とは高校一年の頃に同じクラスになった。出会った当初、正直出水みたいなタイプとは一生仲良くなれないと思っていたし、そもそも私には異性の友達が一人もいなかった。けれども彼と話せば話すほど、私は出水が思ったよりも頭の中で色んなことをちゃんと考えていて、思ったよりももっとずっと大人だということを思い知らされた。 

 私たちは学校の外で会って仲良く遊ぶような仲ではなかった。私は出水がボーダーで何をしているかとか、出水が何と戦っているのとか、そういう一切のことを今でも理解していない。あの店に行きたい、と言えばいいじゃん、友達と行けよと返ってくるような、見方によってはそれって仲良いの?だなんて距離感を感じる付き合いだったのかもしれない。でも、私たちは朝に会えば昨日の夜の出来事を喋りながら通学路を歩いて、文化祭の準備期間はダルいダルいと言いながら二人で資材を調達しに行った。お互いが学校の外で何をしているかだなんて考えたこともなかったけど、アイスの当たり棒が出ただけで気軽にラインを飛ばせる相手は出水以外にいなかった。
 出水とは友達としてすごくいい付き合いができていて、しかも自惚れじゃなかったら多分お互いに曖昧ながら友達の垣根を越えていたんじゃないかと思う。その証拠に、出水とのラインのトークルームでは他の人となら話の種にすらならないようなしょうもない写真を山ほど送り合った履歴が確認できて、なんなら眠れない、だなんて理由で朝まで夜通し長電話をしたことだってある。同級生に付き合ってるんじゃないかと茶化されたくらいで切れるような縁じゃなかったはずなのに、敢えて切ったのは何を隠そう私自身だ。

 昔の自分の行動に対する後悔とか、出水と過ごした時間に対する懐かしさとか、そういう色々のことを考えていると電車がカーブで大きく揺れた。さっき絶対に目が合ったはずの出水は声を掛けてこなくて、突き放したのはこっちのはずなのに身勝手な寂しさを感じてそんな自分が嫌になる。電車が目的の駅に到着したので、立ち上がって軽く服を整えた。出水はスマホを横に倒して両手で持っていて、もう私の方なんて見向きもしなかった。
 






 図書館で勉強していると外が暗くなっていくのに気が付かなくて、家に着いた時には玄関灯に灯りが灯っていた。すぐに夕飯を済ませて、落ち着いた時分に風呂に入る。風呂から出てバスタオルで身体を拭き、化粧水やらなんやらを肌に塗りたくって寝巻きのズボンに脚を通す。そのまますぐに髪を乾かせばいいものの、どうにもそれが面倒でなかなかドライヤーを手に持つ気になれない。脱衣所に持ち込んでいたスマホのホーム画面をタップすると、明るくなった画面にライン通知が表示される。その内容と差出人を示す文字を視界に入れて頭で認識、そののち一瞬息が止まった。

『名字、今日三門大から電車乗ってた?』

 出水公平の四文字が最後に私のスマホに表示されたのは一体いつのことだっただろう。食い入るように画面を見つめていると、スマホが暗くなって下からのアングルの不恰好な自分の顔が目に入った。急いでロックを解除、緑のアイコンをタップ。なかなか既読をつける勇気がなくてトークルームは開けないけど、トーク欄の一番上に来た四文字の名前を目にするたびに心臓がバクバクと大きな音を立てた。

 いつもなら脱衣所を占領して長々とドライヤーをかける私がドライヤーを持って階段を上がっていくものだから、すれ違った兄は「ん?」と訝しげな目を向けてくる。それでも足が止まらなくて息が上がって、心臓がこれでもか、と存在を主張してくるんだから、脱衣所から部屋までの短い距離しか移動していないのに喉が締まってなんだか苦しい感じがした。

 部屋に着いて電気をつけるとすぐにベッドに潜り込む。髪から垂れる水滴がシーツを濡らすことなんて気にならなくて、今の脳みそでは『名字、今日三門大から電車乗ってた?』の十七文字すら上手く処理できない。悶えながら彼がラインを送って来た理由を考えること数分、高校時代の思い出を振り返って浮かれるやら萎れるやら情緒をかき乱されること数分、そしてなんと返事を返そうか悩むこと数分。すっかり半乾きになってしまった髪が傷むことなんて気にならなくて、ようやくトークルームを開いた私は出水の質問に肯定の意を返し、それから電車で隣座ってた?と打ち込んで、かわいこぶる時に使う余所行き用のはてなを携えたうさぎのスタンプを送信した。


 

 髪を乾かしながらベッドに置いたスマホを逐一確認しても一向に新しい通知は来ない。来たかと思えば美容院とか化粧品のメーカーからの公式ラインばっかりで他の友達からの連絡すら来ずに、ヘアミルクを丁寧に丁寧に塗りこんで待ってみてもやっぱり出水からの返事は来なかった。せめて既読がついているかどうか確認したいけど、ついていてもついていなくても結局凹むに違いない。大学用の鞄から授業のレジュメを取り出してベッドの上で眺めてみるけど、全然頭になんて入るはずもなかった。チクタク時計の音が鳴る。スマホの画面がパッと明るく光って、思わずそれに飛びついた。

『やっぱりあれ名字か』
『てか三門大だったんだ』

 続け様に送られてきた絵文字が添えられていないメッセージが昔の出水と変わっていなくてなんだかやけに安心した。すぐに開いて返事を送りたいけど、そうしたらキモいとか思われるんじゃないのかとか、なんとか。レジュメに皺が寄るのなんて気にならなくて、スマホの前でうんうん唸りながら画面を凝視する。意味もなくスクショを撮ったりなんてしちゃって、柄にもなくドキドキして嬉しいと思ってるのが自分だけだったらどうしようと思うけどやっぱり気持ちに嘘はつけなかった。相手が10のテンションで送ってきたメッセージには同じく10で返したいけど、出水がどのテンションでこのメッセージを送ってきたのか全く予想ができそうにもない。

 そうしている間に画面が明るくなって、同じ相手から『電話していい?』という通知が増えたものだから、私は思わずスマホをベッドに放り投げてしまった。転がったスマホを取りにいく。急いでロックを解除。改めて見ると『出水公平さんがメッセージの送信を取り消しました』と通知が来ていて、私は思わず頭を抱えた。
   




 出水から送信取り消しのメッセージが来てしばらくの間は出水も私と同じ気持ちなんじゃないか、だなんて期待していたけど、もし送信相手を間違えただけだったらどうしようという考えに行きついてからというもの、その期待は空気の抜けた風船みたいにしゅるしゅる一気に縮んでいった。既に20分が経過している。そろそろ送ってもいいかな、と思って既読をつけて、萎んだ期待を抱えながらそうだよ、と返事を送った。それから「出水に似てると思ったけど違う人だったら嫌だから声掛けなかったんだよね」と打とうとする。すると、先に送ったそうだよ、の文字の横に白い既読の二文字がついた。指が震えて文字が打てなくなって、またマラソンの後みたいに喉がぎゅっと縮まった。早く打たないと会話が終了したと見做されて、そしたらもう、出水と話す機会なんて二度と訪れないような気がした。

「、うわ!」

 いきなり呼び出し音が響いたと思ったら、震えて着信を知らせていたのは手元のスマホだった。今日一日働きすぎの心臓はまだまだ元気に稼働するつもりらしく、体の芯がじんとしてなぜか涙が出そうになる。

「もしもし、」
「あー……名字?」

 ずっと向こうの方で久しぶりに出水の声がして、湧き上がってくる何かを堪えるために意味もなく唇をぎゅっと噛んだ。

「うん。えー、なんか、久しぶり」
「な。……ごめん、今良かった?」
「大丈夫だよ」

 下手なことを言いたくなくて上手く話せなくて、空白の時間ができてしまう時点でもう昔とは違うんだと悟ってどうしようもなく寂しくなった。つまらないと思われたくなくて、無言の時間を埋めるみたいに無駄に咳をして息を整える。

「何してた?」
「なんか、勉強?もうすぐテストだからやらなきゃいけなくて、プリントとか見てた」
「へー、……俺もそうだわ。てか、大学一緒だし」
「え、出水三門大?」
「うん。名字学科どこ?」
「欧米言語ってとこ」
「知らねえわ。つーか、名字市外行くのかと思ってた」
「悩んだけど、センター終わってから先生に勧められて変えたんだ。というか、出水も三門大なの知らなかった」
「授業被ってないからじゃね?般教何取ってる?」

 変なことを言わないように、出水が答えに困らないように一つ一つの質問をよく考えてから返したいのに、とにかく答えなきゃいけないと先走った口が止まってくれなくて結局すぐに答えてしまう。器用な出水は昔からどんな相手と話している時でもそこから話題を広げるのが得意で、今も一種接待じみたことをされているんじゃないかと心のどこかが薄っすら冷えた。それでも久しぶりに話せたのが嬉しくて、表面だけでもきちんと見えるように声色を繕う。スピーカーモードにしたスマホを枕元に置いて、うつ伏せに寝転がって肘を立てた。

「人権のやつは後期に取るよ」
「マジでヤバいから友達と取った方がいいと思う、あれは寝る」
「そんなに?」
「いや、ナメない方がいいからマジで。もしあれなら過去問貸すけど。大学で渡せるし」
「あー……ヤバかったら借りようかな」
「おー。……あ、中国語の先生誰?」

 出水が何の気なしに言った言葉に「それって大学でも仲良くしてくれるってこと?」と期待してしまって、自分から避け始めたくせに馬のいい奴だな、と本日幾度目かの自己嫌悪に陥る。ベッドの上に仰向けになって、右手でスマホを持った。

「全然違う話していい?」
「え、うん。何?」
「名字さ、高校ん時俺のこと避けてたよな」
「……あー……うん、うん」

 もにょもにょと歯切れ悪い返事しか返さない私をどう思ったのか、出水は電話の向こうで「いや、責めてるわけじゃないから」と慌てていた。

「なんつーか、その、何でかな〜みたいな……ずっと聞きたかったけど、聞くタイミング逃してさあ」
「うん」
「正直ちょっと……いやなんか、うん」
「うん」
「なんか俺は勝手に結構仲良いと思ってたから、ちょっとショックだったみたいな」
 
 割と思い切りのいい出水がここまで遠回しな物言いをするのは珍しかったけど、喋らなくなった数年間が出水をこういう風にさせた可能性を考えて私はまた身勝手に悲しくなった。ベッドの上でうつ伏せになる。枕を抱え込んで、その上に顎を乗せた。

「いや、なんか出水は全然悪くなくて……ほんとごめん。ほんとになんか、私が頭おかしくて」
「そこまで言ってねえよ。お前マジですぐネガティブになんのな」
「いや、……なんとなく。本当に私が悪いし」
「で、なんで?」
「……なんかあの時、出水と付き合ってるみたいなめっちゃ言われてて。その、あんまり一緒にいない方がいいかなみたいな」
「……それだけ?」
「うん」

 こういう時の出水は私が話を逸らすのを見逃してくれるような甘さを持ち合わせていないから、だいぶ言い淀んだけど素直に理由を話すことにした。出水が思いっきり溜め息を吐くのが聞こえる。同じように勢いを殺して肺から息を吐き出した。言葉にしてみるとあの頃の私が悩んでいたのは本当にちっぽけなことで、いっそ自分が馬鹿らしいとさえ思う。

「俺のこと嫌いになったとかじゃねえんだよな」
「いや、それはもう、全然」
「本気?」
「本気」
「じゃあいいけどさ、……いややっぱ全然よくねえわ。何、俺めちゃくちゃ悩んでたんだけど」
「ほんとごめん。……いや、ほんとに、ごめん」
「無理。……え〜、もう、マジで何。俺結構本気で悩んだわ。てか今日も目合ったのに無視されるしさあ」
「お腹とか切ります」
「ポップにハラキリすんな」

 出水は捲し立てるみたいにいかに自分が悩んでいたかを打ち明けてくれて、声のトーンこそ冗談を挟む余地をくれていたけどそれが出水の本音だって本当はちゃんとわかっていた。こういう時に絶妙に逃げ道をくれるのが出水で、それが出水の優しさだけど改めて真剣に謝るタイミングを逃してしまって困る。

「別に外野には好きに言わせとけばいいじゃん」
「うん」
「俺マジで仲良いと思ってたから何かしたかってめっちゃショックだったし」
「うん」
「正直に言うとそんなんで避けられてたんだって今も結構腹立ってる」
「ごめん。……本当に、出水何も悪くないし、普通に私が色々気にしすぎて、なんか出水の気持ち全然考えてなかった」
「うん」
「嫌な思いさせてごめん」
「うん」
「本当に馬鹿なことしたと思うし、本当はずっと後悔してて謝りたかったけどそれもしなくてごめん」
「うん。……もういいよ。正直色々言われてたのは事実だし、居心地悪かったのは俺も分かるから」
「……うん」
「また仲良くなりたいんだけど」
「……いいの?」
「うん」

 ごめんねって謝ったら、出水はいいって、と笑った。マラソンの後みたいな息苦しさが消えて、今度は喉がきゅっと狭くなる。

「でも今度飯奢りな」
「うん」
「焼肉な」
「うん」
「あと俺ディズニーも行きたいんだけど」
「行けるの?」
「ん?」
「いや、ボーダーみたいな」
「あー……まあ事前に申請すればいける」
「お金貯めるから待って」
「いやそれは流石に自分で出すわ。一緒に行こうって」

 逃げられたら困るから今度書面契約な、と出水が言ったから、冗談でしょと返したら本気だと言われた。出水と意味のない電話をするのは本当にすごく久しぶりのことで、明日の一限の授業のことなんて天秤にかけるまでもない。

「明日何限まで?」
「二限だよ」
「四限まで待っててくれたり」
「四限は流石に長くない?」
「だよな〜。てか俺ボーダーだし」
「さっきも思ったけど出水ってまだボーダー続けてたんだね」
「まあな。俺結構アレだし」
「アレって?」
「アレじゃんアレ……自分で言うのもあれだけど」

 スピーカーモードをやめてスマホを耳に当てると出水の笑い声がもっと近くで聞こえる気がする。まだまだ話すのをやめたくなくて、ベッドの上に仰向けに寝転んでそのまま部屋の電気を消した。真っ暗な部屋で出水の声を聞いているとなんだか高校生の頃に戻ったみたいだった。