隠岐孝二とある一日



 玄関に入ると、リビングに繋がる扉の曇りガラス越しにオレンジ色の光が細長く漏れ出ているのが見えた。あれは完全に見た目に惹かれて買った機能性を度外視した間接照明の色だ。大学用のノートやらバイト先の制服やらが入った鞄が右肩でずしりと重さを増した。短い廊下を歩いて光に吸い寄せられるように扉を開けると、部屋の真ん中あたりに置かれたソファーからブランケットを被って眠っている孝二くんの足が飛び出していた。
 
「おかえり〜」
「あれ、起きてたの?」
「うん、なんかうとうとしとった。今日遅ない?なんかあった?」
「いや、なんか十九時から入る子が熱出たらしくて」
「あ〜」
「そう、それでちょっと伸びてって言われた」
「そっか、お疲れ様。ごめん、いつ帰ってくるか分からんかったからご飯作れてないねん」
「え、全然!むしろ作ってくれようとしてただけでありがたいよ」
「あと眠たくて無理やった」

 目を擦りながら、寝転んだままの孝二くんがこちらにもう片方の手を広げてくる。彼の意図しているところは理解できたけど、まだ服を着替えていなかったから近付いて右手でそれを握り返した。手のひらに温かい温度が伝わってくる。

「赤ちゃんだ」
「ん?」
「赤ちゃんって眠いと体温高くなるんだよ」
「そうなん。じゃあ俺赤ちゃんやわ」
「ふふ」

 やわやわと握り返してくる力が心地良くてそのままソファーの前に座り込んだ。一度座るともうそこに落ち着いてしまって、立つ気力もないままぼーっとする。

 私が大学生になってから、孝二くんは休みの前の日にたまにこうして一人暮らしの家に泊まりに来るようになった。そもそも物件を決める時に親よりも張り切って選んでいたのが孝二くんで、絶対にこれだけは譲られへん、と言いながら「人通り多くて明るいとこやろ、セキュリティしっかりしてるとこやろ……」と指折り条件を挙げていたのはまだまだ記憶に新しい。正直なところ、私が大学生になるとちょっと距離ができてしまうんじゃないか、だなんて要らぬ心配をした時期もあった。でも孝二くんは忙しいのに時間を見つけて結構頻繁に泊まりに来てくれて、あとボーダーでもたまに顔を合わせる機会があったから、幸いなことに私たちの距離は今でもずっと変わらないままだ。

「動きたくないわ」
「ね。私服着替えなきゃなのに」
「俺もご飯作らなあかんのに」  
「コンビニ行く?」
「コンビニ行くのもめんどない?」
「わかる」
「今さ、あれ欲しい。ドラえもんのさあ、なんかココナッツみたいなの割ったら中から食べたいご飯出てくるやつ」
「あー、劇場版で出てくる」
「そう。あれあったら今何食べたい?」
「今は……参鶏湯とか」
「あー、いい。俺は……あかん、韓国料理食べたなってきた」

 孝二くんのお腹の上に頭を乗せるとその上に手が乗せられた。ゆっくりゆっくりと撫でられて、それこそ赤ちゃんみたいに寝かしつけられている気分になる。頭を撫でられる、というより髪を触られるのは苦手だったけど、孝二くんにされるなら話は別だ。呼吸に合わせて上下するお腹に、当たり前だけど孝二くんが生きているのを感じた。

「よし、半なったら動こ」
「んー」
「ご飯どうしよか。ウーバーする?」
「うーん……あれは?前孝二くんが買ってきてくれたやつ」
「え、俺なんか買ったっけ?」
「なんかあの〜……ちょっといいとこのさ、いっぱいくれたじゃん」
「あー!はいはい、分かった分かった」

 一人暮らしを始めてしばらくしてから、孝二くんが百貨店で売っているお惣菜の詰め合わせセットを持ってきてくれたことがあった。曰く、「名前さん自分でこんなん買わんやろ?」。それは本当に仰る通りと思いながら何でいきなり?と聞いたら、孝二くんはにこにこ笑いながら「名前さんが疲れた時に助かるかな〜と思って」と言っていた。まさに予言的中である。

「何食べよ。前ハンバーグ食べたけどめっちゃ美味しかったんだよね」
「お、食べてくれたんや」
「そりゃあもう……四月とか大活躍だったよ」
「まだある?また買ってこよっか?」
「いや自分で買うよ。……うーん、コーンスープにしようかな」
「お腹空いてきたわ。あ、半や」

 時計の長針が真下に来たのを見た孝二くんがそう言ったから、固まった身体を動かしてのろのろと起き上がった。疲労が一気にのしかかってくる。

「孝二くんも疲れた顔してる」
「そう?いやそうかも、最近全然会ってなかったやん」
「ね。本部でもすれ違うくらいだったもん」
「予定も合わんかったしな。そうや、俺今度行きたいとこあんねんけど」
「え、行こうよ。とりあえず先に着替えてくるね」
「分かった。あれどこになおしてる?」
「えーと、レンジの下の棚」

 床に置いてあった鞄を手に持って自室へと向かう。途中でリビングの電気を付けたら、ずっと暗いところにいた孝二くんがうわー!と眩しそうにしていた。

 


「何食べよ」
「スープ二人前なんだけど孝二くん何がいい?コーンポタージュか、かぼちゃのスープか、ミネストローネ」
「え〜、悩むな。名前さんどれがいい?」
「うーん、こっちかこっち」
「じゃあかぼちゃの方がいいな。あ、俺これ食べたい」
「豚の角煮?足りる?」
「これとなんかとご飯にする。ご飯ある?」
「チンするのならあるよ」

 悩みまくって、別々に作るより同じやつの方が楽だねということで結局二人ともカレーにすることにした。孝二くんがカレーを袋ごと湯煎にかけてくれている間に白ご飯をレンジで温める。

「ねえ、トンカツやってカツカレーにしようよ」
「天才なん?」

 冷凍庫からチンするトンカツを引っ張り出してきて、それからカレーを温めたお湯でゆで卵も作ることにした。一人だと確実にかけることのない手間も孝二くんと二人なら何故かちっとも苦にならない。

「え、めっちゃ美味しそう」
「な。はよ食べよ、お腹空いた」

 二人で向かい合って手を合わせる。一人で食べる時はわざわざいただきますだなんて言わないから、なんだかこうして手を合わせるのが久しぶりな感じがした。家に帰ってきた時はそんなにお腹が空いた感じがしなかったけど、いざ食べ物を目の前にするとやたらと胃袋が収縮する。分かっていたけど、いいとこのお惣菜だから自分で作るよりずっとあったかくて美味しく感じた。

「めっちゃ美味しい」
「ね。また買お」
「最近バイトどう?」
「ねえ聞いてくれる?!」
「めっちゃ怒ってるやん」

 久しぶりに会うということもあって、しばらくは専らお互いの近況報告になってしまった。私も孝二くんもそんなにマメに連絡を取る方じゃなくて、毎日何度か連絡は取るけどずっと互いの近況を把握しているわけじゃない。孝二くんは普段穏やかであんまり怒ることがないけど、私がバイト先のお客さんに嫌なことを言われた話をしたら真顔で「その人絶対友達おらんで」と言った。私が偏見!と笑ったら「いやほんま、俺そういうのほんまにわかるから」と言ってその後もつらつら偏見を垂れ流すものだから、「自分より怒っている人を見たら逆に落ち着くの法則」で私の怒りはすっかり鎮火してしまった。

「そんでな、イコさんが猫や!言うからめっちゃテンション上がってんけど、いざ見に行ったらビニール袋やってん」

 逆に孝二くんの近況報告は専ら生駒隊に関することだった。というより、私が分かる話題ということでわざわざボーダーの話をしてくれているのかもしれない。学校のことを聞いたら学校は別に普通、今まで通り、と言うからもしかすると本当に何もないのかもしれないけど、孝二くんのことだから多分気遣い説が有力だろう。

「勉強は?どう?」
「やばい。でも名前さんと一緒にキャンパスライフ送りたいから頑張る……」
「受験さえ終わったらほんとに楽しいから頑張って。まあ、そんなキャンパスライフってほどじゃないかもしれないけど」
「ほんまに?同じ学部にかっこいい男の子おるんちゃうん?」
「え〜、どうだろ。孝二くん見てるからハードル上がるな〜」
「ちょっかいかけられたら教えてな。来年自己紹介しにいくわ」
「めっちゃ喧嘩売るじゃん」

 私が三年で孝二くんが二年の頃は歳の差なんて気にならなかったのに、大学に入ってバイトを始めると高校生と付き合っているのが何だか途轍もなくいけないことのように感じられた時期もあった。でもこうして孝二くんと話すたびにそういうことなんて関係なく好きだと思わされて、垂れ下がった目尻とか柔らかい口調とか、孝二くんを構成する全てがまるで私のためにあつらえられたみたいな感じがする。

「お風呂めんどくさいな」
「一緒に入る?」
「ううん」
「え〜」
「うちのお風呂狭いもん。でも今度温泉とか行きたいね」
「え、行こや。俺が大学生なったら夏休みとかで行けるかなあ」
「温泉なら冬休みじゃない?」

 食べ終わってしばらくぐだぐだと話しているといつの間にかいい時間になっていた。いくら明日は休みといえども、真夜中にドライヤーをかけるのは近所に迷惑な気がして憚られる。孝二くんに先にお風呂を勧めたけど、この後に放送するドラマが観たいから、ということで私が先に入ることになった。

「いってらっしゃい」
「うん。あ、冷凍庫にあるアイス食べていいからね」
「やった〜。何のアイス?」
「なんかチョコのやつ」


 




 孝二くんがお風呂から上がるのを待って、ベッドに入ったのは結局日付が変わってからだった。もともと一人暮らしを始める前はシングルのベッドと孝二くんが来た時用の布団を買うつもりだったけど、孝二くんだってボーダーで疲れてるからゆっくり寝たいだろうし、と思って結局ダブルを買うことになった。孝二くんが思ったよりもたくさん泊まりに来てくれているからこの判断は結果オーライだったと思う。こういう時に高校生のうちからお給料がもらえるボーダーに所属していてよかったな、と現金なことを考える。
 枕元に置いてあるうさぎ型の間接照明は、私が欲しいと言っていたのを覚えていた孝二くんが去年の誕生日にくれたものだ。完全に機能性を度外視して見た目だけで家具を選んでしまうきらいがある私だから、この家には間接照明がやたらと揃っている。隣に寝転んだ孝二くんがこっちを向いて、頬っぺたのお肉が重力で下に下がっても孝二くんはかっこいいままだった。

「明日どっか行く?家で寝る?」
「孝二くん来てくれたしどっか行きたいなあ」
「そんなんいいのに。無理せんとってな、俺ほんまに家でおんのも好きやし」
「うーん、前来た時家で遊んだし」
「そっか」
「そういえば行きたいとこあるって言ってなかったっけ」
「あ、そうそう。あんな、猫カフェ……」
「また?!」

 照れたみたいにまたやねん、と呟いた孝二くんは、ベッドサイドに置いてあったスマホを手に取ってそのまま何かを調べ始めた。孝二くんと付き合う前は正直特別動物が好き!というわけじゃなかった私も、孝二くんに連れ回されるうちにだんだん猫が好きになってきたからまた?!というのは冗談である。

「見てここ。ケーキ名前さん好きそうやなと思って」
「え、めっちゃいい。おしゃれ」
「やろ。しかも……見て!」
「えっ、可愛いね」
「そう!もう俺こないだからずっとこの子に会いに行きたいねん」
「どこにあるの?」
「えーと、北の方。待ってな」

 孝二くんがGoogleマップで場所を調べ始めたから、私はインスタを開いてハッシュタグ、お店の名前で検索する。孝二くんが見せてくれた猫はすごく人気みたいで、ちょっと調べるだけでもその子の写真を山ほど見つけることができた。

「ここ」
「あんまりその辺行ったことないかも。猫カフェ行って、なんか適当に色々見てまたカフェ行く?」
「そうしよ。何時に起きる?八時とかでええかな」
「うん、目覚ましかけとくね」
「ありがとう〜」

 アラームを八時と八時五分、それから八時十分に設定してスマホを元の場所に戻した。目が悪くなるから暗い中で触るのはよくないのにいつも横着してしまう。

「寝よ」
「うん」
「おやすみ〜」
「おやすみ」

 孝二くんの方を向いたまま右手で自分よりも大きい手を握ると緩い力が返ってきた。私の脚の間にするりと孝二くんの脚が入り込んできたから、体を動かして孝二くんとの距離を詰める。広い胸元に顔を埋めると孝二くんの匂いがして、頭の上で孝二くんが笑った。

「名前さんさ、いっつもくっついてきてくれて可愛いな〜って嬉しいねんけど、ちょっとしたら暑い!って離れていくからおもろいねんな」
「なんかずっと同じ体勢でいるのしんどいんだよね。ポジションを探ってるというか……」
「いやわかんで。一人で寝てる時ってそんなことないねんけど人と寝たらなんか違和感あんねんな」
「そうそう、なんだろうねこれ」
「まあ無理矢理手繋ぐからいいねんけど」

 そんなことしてないで寝なよ、と言ったら孝二くんは俺ショートスリーパーやねん、と言っておでこに唇をくっつけてきた。そういえば今日はそういうことしてないな、と思い至って顔を上に向ける。考えていることが通じたのかそれとも同じことを考えていたのか、孝二くんの顔が近づいてきてそのまま唇同士がくっついた。

「ほんとに寝よ」
「うわ、照れてる」
「うるさい。おやすみ」
「はいはい、おやすみ〜。あかん、めっちゃ可愛いわ」

 目を閉じてしばらくは孝二くんの方を向いたままだったけど、数分して仰向けになった私の隣で孝二くんが笑っているのが分かった。捕まった手に温かい温度を感じながら目を閉じていると、そのまま意識が真っ暗なところに落ちていった。