呪専夏油はずる賢い
エイプリルフール。毎年四月一日に嘘をついてもいいという、その風習の起源は全く謎である。けれども起源は謎のくせして、イベント好きの日本人は、毎年こぞってその風習に乗っかっては、身内の間でささやかな嘘を楽しんでいる。今こうして、ひとつ上の先輩である夏油傑ととある画策を企む名前も、例に漏れず嘘を楽しむ人々の中の一人であった。
全ては夏油が、朝早くから花壇の水やりに勤しむ名前に声をかけたことから始まった。
夏油傑。ひとつ歳上の、呪術界における新たな期待のホープ。
名前は実は夏油のことを、あまり詳しく知らなかった。戦闘向きの術式持ちではないために、普段から主に呪符の作成や結界の展開に鍛錬の時間を充てている名前は、それこそ夏油や五条、更には術式の性格上任務に出ることなく高専に駐在することの多い家入とも、あまり関わりを持っていない。
だから名前は、咲いたばかりのチューリップに水をやっている最中に声を掛けてきた夏油に、「名字さんのこと好きなんだ」と言われた時、思わず水のなみなみ入ったジョウロを落としてしまった。
「エイプリルフール?」
「そう。名字さんは知らないだろうけど、去年色々とやられてさ。今年はどうしても悟と硝子を騙したくて……」
恥ずかしさを誤魔化すように頬を掻きながら笑う夏油は、彼とあまり交流を持たない名前から見ても正真正銘の好青年である。歳上の庵や冥冥にこのようなことは頼みづらい。何なら一緒に七海や灰原も騙そう、と魅力的な誘いを付け加えた夏油の話を聞いて、名前はその場で心を決めた。
「じゃあ、私と付き合ってくれる?」
「はい、もちろん。あとで教室でってことでいいですよね」
「うん。本当にありがとう」
付き合いたてのカップルを演出すべく細かい設定を一から十まで決めてしまって、最後に連絡先を交換した夏油と名前は、そうしてその場で解散した。
♢
「えっ名字マジなの?」
「本当に?騙されてんじゃない?本当に夏油でいいの?このクズで?」
昼休みの暖かな空気の中、呪術高専東京校新二年の教室では、名前が五条と家入、それから同級生の二人に、まるでツチノコなどの珍獣でも見るかのように周りを取り囲まれて、これでもか、というほど真剣な表情で、かれこれ二十分は詰問されていた。ただしその中でもただ一人、灰原だけはニコニコ楽しそうに笑っている。名前と共謀している夏油本人はというと、五条と家入の後ろ側で灰原と同じようにニコニコと笑みを讃えながら、その塊を遠巻きに眺めていた。
「だから言っただろう?日付が日付だから疑わしいかもしれないけど……別の日に言えば良かったかな」
「本当に本当に正直に答えてほしいんだけど、マジでエイプリルフールじゃないの?」
「はい、この間からお付き合いしてます」
「へー…………すげー」
「同級生にこんな風に言うのもなんですが、名字さんって案外趣味が悪いんですね」
「はげど」
「何ソレ?」
「激しく同意。こないだ一緒になった補助監督の人が言ってた」
七海や灰原はともかく、あまり親しくない五条や家入を騙すのには少しだけ罪悪感が湧いたけれど、思いの外上手く騙すことができたようで、名前は楽しくなってきていた。結局その後休み時間いっぱい馴れ初めや好きなところなど、夏油に関するありとあらゆることを根掘り葉掘り聞かれ続けた名前は、朝の綿密な打ち合わせが功を奏したのか、それにも上手く返事を返すことができた。
特に、夏油のどこが好きなのかと問われた際に、嘘だと分かっていても恥ずかしくなってしまって、吃りながら「優しくて、かっこよくて、強いところ」と答えた名前を見て、四人はまんまと騙されてしまった。こうして名前と夏油の交際は、二人の同級生たち全員が知るところとなったのである。
♢
おかしいな、と思ったのは、次の日の任務に出かけた時のことだった。朝から七海と灰原に前日の嘘のネタバラシをして、七海はホッとしたように、灰原は残念そうにしながらも少し立ち話をした後、名前はすぐに任務があるからと、顔見知りの補助監督に連れられて東京の郊外まで足を運んでいた。その最中に補助監督に言われた言葉に、名前はあれ?と首を傾げたのである。
「名字さん、夏油さんと付き合ってるんですよね?全然そんな素振りなかったのに、私気づきませんでした」
「え?なんで知ってるんですか?」
「もう昨日から、補助監督の間ではその話題で持ちきりですよ。いつから付き合ってるんですか?」
「いや、あの、それ実はエイプリルフールの嘘なんですけど……」
そうなんですか?と驚く補助監督を横目に、名前は思わずといった風に眉間に皺を寄せる。誰に聞いたんですか?という質問には別の補助監督の名前が挙がり、噂の発生源がハッキリと分かりそうにはない。名前は、消去法的に五条さんかな、と、少しだけ面倒になってきた展開に溜め息を吐いて、急いで任務を終わらせた。
「え、俺言ってないけど」
「そうなんですか?」
「俺補助監督に知り合いってほどの知り合いいないし。つーか、やっぱ嘘なんじゃん」
「それはそうですけど…えっ、夏油さんに聞いてないんですか?」
「なんも。多分硝子も知らないと思うけど。あいつ今日何も言ってこなかったし」
名前が任務終わりにたまたま談話室で捕まえた五条に話を聞いてみると、なんと夏油は、まだ前日のネタバラシを済ませていないとのことだった。名前は少しどころか、かなり厄介になってきた展開に顔を歪めたくなったけれど、親しくもない先輩の前でそんな顔をするわけにもいかない。とにかく、あれは嘘ですからと何度も念押しをして、名前は談話室を後にしたのである。
♢
一週間経っても、高専内は名前と夏油の噂で持ちきりだった。あれが、夏油さんと付き合ってる。たしか、二年の子だよね。ヒソヒソとまことしやかに囁かれる噂のその渦中にいる名前は、こんなはずじゃなかったのに、と頭を抱えて、昼食のおにぎりを口にいっぱい頬張った。もう一人の主要人物である夏油とは任務の関係ですれ違いが続いており、直接顔を合わせることは一日の日からできていない。前の晩に夏油にメールしてみたところ、「何でだろう。もしかして誰かが聞いていたのかな」と要領を得ない回答が返ってきたため、名前は噂の発生源すらも掴めずにいた。
「名字、そんな落ち込むなって〜。人の噂も七十五日って言うじゃん?あれ、七十五日だっけ?」
「その七十五日が苦痛なんじゃん……しかも夏油さんとだからさあ、絶対、あいつじゃ釣り合わないとか、散々言われてるんだよ」
「そんなことないって!俺は聞いた時からお似合いだと思ってたしい。それに、顔ファン多い五条さんと噂になるよりマシじゃない?」
「不幸中の幸いってやつ?」
「それそれ」
「そんなことより、誰が噂を流したのかが気になりますね。どうも、あの場に他に人がいたようには思えなくて」
「そう、そうなんだよ………夏油さんも、知らないって」
「………まさか」
「?何、心当たりでもある?」
「いえ。当たらない方がいい予想は、口に出さないに限りますから」
苦々しい顔をしてパンを口に運んだ七海の言葉に、名前は心底同意する。会う人会う人の誤解を懇々丁寧に解いてはいるものの、なぜか次にその人と会うと、またその人の中では名前と夏油が付き合っていることになっているのだ。前に言ったじゃないですか、エイプリルフールですよと強く主張したとて、「大丈夫、恥ずかしいんでしょ?分かってるから」と、聞く耳を持たずに生温い視線を向けられてしまう。
名前は夏油に申し訳ないやら、でも発案はあっちだしと少し腹立たしいやら、ちくちくと刺さってくる他人の目に日に日にイライラが募っていった。おにぎりを完食して卵焼きに箸を伸ばす名前を見て、七海がひっそりと口を開く。
「名字さん」
「ん?」
「関わる機会も少ないでしょうから、一応。夏油さんは、あなたが思っているよりずっと、ずっと優しくない人間です」
♢
それは、名前がたまたま高専内でも人通りの少ない廊下を歩いていた時のことだった。午後の暖かい気温は名前の眠気を誘い、自然と瞼が下がってしまう。そんな名前の意識をハッキリと覚醒させたのは、角を曲がった先に居るであろう、誰かの話し声だった。
「夏油さん、その後名字さんとはどうです?」
「ああ……まだ恥ずかしがっていてね、エイプリルフールですって触れ回ってるみたいで。私としては早く堂々と言いたいんだけど、なるべく彼女のペースに合わせてやりたいから」
「うわあ、優しいですね……早く名字さんも、ちゃんと付き合ってますって言えるようになったらいいなあ」
「好きだからね、いくらでも待てるよ。とはいえうかうかしてると他の人に盗られてしまいそうで、それだけが今の悩みかな」
「大丈夫ですよ、もうめちゃくちゃ噂広まってますし。私も勘違いしてる人見かけたら、名字さんが恥ずかしがってるだけって言っときます!」
「ありがとう、助かるよ」
名前と同い年らしい補助監督と夏油との会話を聞いた名前は、胸の辺りがごうごうと燃えるように熱く、反対にその他の部分がすうっと熱を失って冷えていくのを感じた。
付き合ってるって、誰が?
飄々と、何の気もなくペラペラと嘘をつく夏油が、自分の耳が、名前は何も信じられなかった。そうしてずるずるとその場にしゃがみ込んでしまった名前の頭上に、彼女をすっぽりと覆ってしまうくらい大きな影が差す。ふ、と顔を上げると、そこにはにこにこと、あの日と変わらない笑みを携えた、夏油傑その人がいた。夏油はその場にすっとしゃがんで、名前としっかり目線を合わせる。
「夏油さん」
「うん、なあに?」
「噂流してるの、夏油さんですよね」
「ごめんね。ちょっと荒療治すぎたかとは思うんだけど、こうでもしないと付き合ってるって公言できなくて、私ももどかしかったんだ」
「そうじゃなくて。私たち付き合ってないのに、エイプリルフールなのに、なんでそんな嘘つくんですか」
「え、嘘?」
名前の言葉を聞いて、夏油はきょとんと目を丸くした。
「付き合ってるって、五条さんと家入さんを騙すための嘘ですよね?」
「ふ、ふふ。違うよ。それが、嘘」
「え?」
「まだ騙されてたの?そっちのネタバラシはしてなかったよね、ごめんごめん」
そう言って笑った夏油は、まるで小さい子にでも言い聞かせるかのように、指を折ってひとつひとつ、易しい言葉で説明を始める。
「まず、私が君のことを好きなのは本当。で、悟と硝子を騙すっていうのが嘘。つまり、君は私に騙されて、悟と硝子を騙した気になっていたんだよ。でもあの時、付き合ってくれる?って聞いたら、もちろんって言ってくれたよね?あれは本気の告白だから、私の告白は受け入れられたと思っていたんだけど」
名前は必死に頭を回して、あの日の場面を思い浮かべる。私と付き合ってくれる?と聞いてきた夏油に、はい、もちろんと返した名前。名前はぴくぴくと頬を引き攣らせながら、歪んだ愛想笑いを夏油に向ける。
「あ、ああ〜!なるほど、そういうことですね!でもあれ、私本気の告白って分かってなかったから」
「ダメだった?」
「え?」
「やっぱり、私じゃダメかな。付き合えたと思って、すごく嬉しくて、もう実家にまで報告してしまったんだけど」
夏油は態とらしく眉を下げて悲しげな表情を作り、名前の両手をぎゅっと握った。そのままするりと指を絡めて、手のひら同士を密着させる。
「ずっと好きだったんだ」
「………」
「私の勘違いだったのかな。惨めだね、恥ずかしい。笑ってくれていいよ、告白したのに本気とすら思ってもらえてなかったなんて。もう明日から、学校に行けないかもしれないな。悟と硝子に、なんて説明すれば良いんだろう」
目の前で可愛こぶっている図体の大きい男を見て、名前は苛立ちが天元突破した。
お前が、告白の間に嘘なんてつくから。
あの日の七海の苦々しい顔が、名前の脳裏にありありと浮かぶ。その日、額に青筋を立てた名前と、妙に機嫌のいい夏油が手を繋ぎながら並んで廊下を歩くところを、補助監督たちは目撃した。