五条悟は猫被り





「あの、名字さんって、付き合ってる人とかいますか」


名前が翌日分の仕込みのために真っ赤なトマトを切り始めたところで、隣から低くて、それでいて普段の彼のそれよりも少しだけ上擦ったような、羽が生えたみたいにそわそわした声が聞こえた。聞き慣れない声のトーンに何となく上手く内容が入ってこなくて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す名前を見た伏黒は、隣で十枚入りの大葉を細く刻みながら、少し慌てた風に「言いたくなかったら、大丈夫です」と言葉を付け加える。ようやく伏黒の言葉を飲み込めたのか、少し間をあけてから「いないよ」と返した名前の返事を聞いて、伏黒は、喜んでるみたいな、はたまた悔しがっているような、妙な塩梅の表情を作った。


「でも、珍しいね。伏黒くんからそういう話出てくるって」
「あー……まあ、そうなりますよね」
「?何かあった?」
「その、」


俺の知り合いが、名字さんと仲良くなりたいって言ってて。








伏黒恵は、名前の働く某コーヒーショップに一年遅れで入ってきた、歳がひとつ離れた後輩である。主にオープン寄りでシフトを出す名前と、クローズ寄りでシフトを出す伏黒との間に、アルバイト先が同じということ以外特筆すべき共通点はない。昼間のほんの数時間の間だけ肩を並べて働くことはあったとしても、名前も伏黒も本来真面目な質であるから、今日この日まで、名前は伏黒と業務連絡以外の雑談らしい雑談をしたことは、ただの一度もありはしなかった。


伏黒の話によると、こうである。
自分のひとつ上の先輩が、名前と仲良くなりたがっている。名前と同い年のその先輩は、伏黒がアルバイトをしている姿を見にこのコーヒーショップに寄った際に、たまたま勤務時間が被っていた名前が働いているのを見かけた。伏黒としては名前にこういうことを頼むのは不本意でしかないのだけれど、その先輩とメールアドレスを交換してやってほしい。ただし、それが嫌なら遠慮なく断ってくれても問題ない。むしろ、断ってほしい。


どこか決まり悪そうに、遠慮がちに、けれどもしっかりと組み立てられた伏黒の話を聞き終わってなお、名前はちっとも現実味が湧かなかった。とりあえずその日は「知らない人に個人情報教えるのはちょっと…」と伏黒の申し出を断った名前に、自分から申し出たにも関わらず、どこか安堵した様子で息を吐いた伏黒は、「ですよね」と呟いて、それっきり二人は翌日の仕込み作業に没頭してしまったのである。







「やあ、伏黒くん」
「えっ……夏油さん、何で、」
「近くに寄ったから、顔を見に。元気そうで良かった」


伏黒とその先輩の一件から二週間が経過して、名前たち大学生は夏休み期間に入った。長期休みは学生にとって、心置きなく遊べる自由な時間であり、それと同時に遊ぶための資金の稼ぎ時でもある。シフト争奪戦により普段とは違う変則的なシフトを組まざるを得なかった名前は、ここ数日、伏黒のようにクローズ寄りで店に入ることが多かった。


伏黒の顔を見に来たという男は、背が高くて、それでいて真っ黒な男だった。緩めのボンタンのようなズボンと、これまた緩めの黒のTシャツ。艶のある黒髪をハーフアップのように上半分だけ束ねて、その束ねた半分はヘアゴムに引っ掛けてくるんと簡易のお団子状になっている。切長の目が涼しげで、低い声が耳に心地良くて、名前は一目見ただけで、伏黒の知り合いらしきこの男がきっととんでもなくモテるということを確信した。
それにしても、伏黒くんって友達居たんだ、と、的外れかつ若干失礼なことを考えながら、名前は作業に没頭する。今は新しいケーキを、向きを揃えながらレジ横のショーケースに並べて順番を入れ替える、という作業を行っていた。
  

「お姉さん」
「はい?」
「ケーキ、どれがオススメですか?」


暫くケーキに向かい合っていた名前に、レジカウンターの向こうから声がかかる。慌ててそちらに赴くと、そこには先程まで伏黒と話していた真っ黒な男が、名前に向かってにこりと感じの良い笑みを湛えていた。 


「えっと、最近だと新商品の桃のタルトとか…あとは、当店ではクリームチーズケーキが人気です」
「へえ、なるほど。じゃあ、クリームチーズケーキをひとつと、アイスコーヒーをMサイズでひとつ、お願いします」
「かしこまりました。店内でお召し上がりですか?」
 

はい、と首を縦に振った男に会計額を伝え、そのままオーダーをスタッフに通す。スタッフといえども、そこまで客数を見込めない平日の夕方、人件費削減の観点から今厨房内にいるスタッフは名前と伏黒だけなので、名前は実質伏黒に話しかけたのだけど。


「お姉さん」
「はい」
「好きなタイプは?」
「えっ」
「夏油さん!」


何がそんなに楽しいのか、にこにこと笑いながらとんでもない(ような気がする)ことを宣った男の言葉を耳にして、狼狽える名前が返事を返す前に、横から伏黒が飛んでくる。名前をそっちのけにして会話を始めた二人からは、「君があまりにも遅いから悟が〜」だとか、「買収」だとか、「私は友達想いなだけ」だとか、とにかく断片的な情報しか受け取れなかったけれど、ひと通り話し終わったらしい二人の様子から察するに、もしも全ての物事に勝ちか負けかの二択で判別をつけるとするならば、どうやら伏黒は「負け」だったようである。


「それで、好きなタイプは?」 
「それって、恋愛対象って意味ですか?」
「そう。どんな些細なことでも、なるべく細かく教えてくれると助かります」
 

人好きのする顔をしているはずの男から何故か圧のようなものを感じ取った名前は、深く考えずに「優しい人です。大声を出す人は苦手なのと、あとは常識がある人」と、頭に思い浮かんだまま、素直に好きなタイプを答えた。その答えを聞いて満足したらしい男は、「いきなり不躾な質問をしてしまってすみませんでした。もし不快な気分にさせてたら申し訳ないけど、悪用したり、不用意に情報を流出させたりは絶対にしないから」と、軽く頭を下げてから客席の方に歩いていった。客観的に見てかなり踏み込んだ質問をされたにも関わらず、あまり嫌な思いをしなかったのは、男の物腰柔らかな姿勢と、敬語を崩さない話し方のせいだろう。名前は特に気にすることもなく、引き続きショーケースに並ぶ色とりどりのケーキと向き合い始めた。


「名字さん、本当に、本当にご迷惑おかけします………」


ただその日、特にミスをしていないはずの伏黒がやたらと謝ってきたことだけが、少しだけ気掛かりだったけど。







「お姉さん、今まで彼氏いたことあります?」
「家入さん!」


全身真っ黒の「ゲトウさん」の来訪から二週間、今度はドリンクの仕込みをしていた名前の前に、泣きぼくろが特徴的な細身の美人が現れた。ゲトウさんの時と同じく慌てて飛び込んできた伏黒と美人は、暫く二人でああでもないこうでもないと話し合っていたけれど、その日も負けてしまったらしい伏黒は、何かを言いたげにしながら、不満そうに渋々口を噤んだ。
それを認めた美人は、二人の会話の端々から聞き取った「煙草」「買収」「遅すぎ」「爆発」などの不穏なワードに気を取られている名前をそっちのけにして、早くと答えを催促してくる。圧に負けた名前が「今まで誰かと付き合ったことなくて」と答えるやいなや、「これはもう一箱いけるな……」と呟いた美人は、アイスコーヒーを二つと、キャラメルモカフラペチーノをテイクアウトしていった。


「名字さん、あの、本当に……ごめんなさい」
 

ミスをするどころか名前のミスをサラッとカバーまでした伏黒は、この日も何故か、心なしか色の抜けた顔で名前に謝ってきた。







美人の来訪から暫く経って、名前に謎の質問を投げかけてくる伏黒の知り合いは、はたして後を絶たなかった。肩の上で切り揃えられた茶髪を揺らす気の強そうな女の子は「クリスマスコフレ」「買収」「お前のせい」「可哀想」などと、前と後ろでそれぞれ三つ編みを作った特徴的な髪型の女性は「恩を売っておくのも悪くない」「財布が潤う」「逃げられない」などと、それぞれがどことなく不穏なワードをチラつかせながら、彼ら彼女らは確実に欲しい情報をモノにしていく。
名前としては答えても差し支えのないものにしか答えを返していないので、そして確かに伏黒の知り合いらしい彼らを疑うのも馬鹿馬鹿しい気がしたので、彼ら彼女らの来訪とその質問自体はそこまで気にしていなかったのだけど、ただ来訪者が増えるにつれて、伏黒の顔色が段々悪くなっていくことだけが気掛かりだった。


そうやって夏も終わりに差し掛かっていたある日の午後、チリンとドアベルを鳴らしてやってきた白髪にラウンド型のサングラスを掛けた男を見て、名前の隣の伏黒が手に持っていたスプーンを床に落とした。
名前がそれを拾おうとする前に、どこか切羽詰まった顔をした伏黒が、「名字さん、奥で皿洗いお願いしてもいいですか」と、緊迫した様子で声を掛けてくる。有無を言わさぬ勢いに只事ではないと判断した名前が奥に引っ込もうとすると、おかしなタイミングの巡り合わせなのだろうか、ちょうど買い物から帰ってきた店長が、「伏黒くん、ちょっと事務所いい?名字さん、今空いてるから大丈夫だと思うけど、一人で対応できそうになかったら呼んで」と、伏黒の要求とは真逆のことを名前たちに宣う。それを聞いた伏黒はまるでこの世の終わりのような顔をして、「なるべく早く戻ってきます、もし何かあればすぐに呼んでください」と、急ぎ足で事務所へと姿を消した。


そうして伏黒が去ったタイミングで、白髪の男がレジに来た。ゆっくりと歩く、サングラスを外した男の顔を漸く認めた名前は、思わずハッと息を呑む。店の照明と外からの光を受けてきらきらと光る細い糸のような白い髪と、空と海をごちゃ混ぜにして、世の中の綺麗だと形容されるすべての青色を注ぎ込んだみたいに輝く、男の澄んだ明美な瞳。男が名前と目を合わせてゆっくりと微笑むその一瞬が、名前には何分にも何時間にも感じられた。


「すみません、キャラメルモカフラペチーノをひとつと、桃のタルトをひとつ、お願いします」
「かしこまりました。店内でお召し上がりですか?」
「はい、店内で」


何故かドキドキとうるさい心臓に無理矢理蓋をしながら、名前は会計の処理を進める。気を抜くと頬が緩んでしまいそうで、だらしない顔をしてしまいそうで、名前は努めて表情筋に力を入れた。


「お釣りが三百二十円と、レシートです」
「ありがとうございます」


お釣りを渡す際に触れてしまった男の冷たい指先をどうしようもなく意識してしまって、にこりと微笑む男の頬が赤くなっているような気がしてしまって、名前は堪らなく泣きたくなった。







「だから〜〜、恵が遅いのが悪いんじゃん?恵が直接聞いてくれさえすれば、わざわざ傑とか硝子に頼まなくてもよかったのにさあ。つーか、こないだのレポート教えてやったんだから早く呼んできてよ。一緒に帰るくらいいいじゃん、今まで散々遠ざけてたくせに」


名前は目の前の光景が信じられなかった。自分の目と耳をこれほどに疑ったことが、今までの人生で一度でもあっただろうか。名前はごくりと唾を飲み込み、そろそろと壁に背中を沿わせる。スタッフ専用の出入口を出てそのまま大通りに向かうはずだった名前は、行く手を阻むように進行方向に立って口論をする二人の男の会話を、角に隠れながら息を潜めて聞いていた。


「何と言われようと、名字さんには会わせられません。どうしてもってんなら、自分で声掛けてください。俺のこと使ったり、他の人買収したり、そういうの卑怯ですよ」
「はあ?卑怯も何も、ちゃんと金払ってんだから利害は一致してんだよ。冥さんにいくら払ったと思ってんの?金出すのも努力だよ。持ってる素材を適切なタイミングで使ってるだけ。恵、正論好きなタイプ?俺そういうの嫌いなんだよね、吐きそ〜」
「金で買収して情報聞き出そうとしてんのがねちっこいって言ってるんです。そもそも名字さんの好きなタイプは優しくて常識のある人だから、アンタじゃ無理だと思いますけどね」
「俺のこと誰だと思ってんの、そこは上手くやるわ。さっきだってちゃんとお礼言ったし。てか恵、あの時呼ばれなかったら自分がレジするつもりだったでしょ?マジでないわ」


ぎゅっと身を縮こまらせながら、名前は先刻とは違う心臓の高鳴りを感じていた。このドキドキは、身体に悪い。
さっきの人と、同じ人だよね。
名前はちらりと顔を覗かせ、向こうの二人を盗み見る。何度目を擦っても、何度瞬きをしてみても、そこにいるのは紛れもなく名前のひとつ下の後輩である伏黒と、先程店に来ていた白髪碧眼の柔らかい雰囲気を持つ男だった。今となってはその柔らかさも、どこかに消えているけれど。


「三人で帰るように仕向けてくれたらそれでいいんだって。そこまでしてくれたら、あとは恵はずっと黙っててくれていいしさ。俺が話すから」
「俺にはこんな極悪非道の人でなしクズ男にバイト先の先輩を売るような真似、絶対出来ません。他を当たってください」
「恵、ホント頭かっったい。今度悠仁と野薔薇と焼肉連れてってやるからさ〜。なんなら旅行とかでもいいよ。ちょっと協力するだけでタダで旅行行けるって、だいぶ得じゃない?得だよな、得だよ」


ペラペラと伏黒を捲し立てる男から発する言葉で全てを察した名前は、混乱のあまり頭がパンクしそうだった。ずっと前に伏黒が言っていた、名前と仲良くなりたい知り合いというのはあの男で、ゲトウさんとか、色んな人を買収して名前の情報を引き出していたのもやっぱりあの男で、それを途中で止めていたのが伏黒くんで、それから、


「名字さん?」


シン、とした路地裏に、伏黒の声が響いた。
名前のチュールのスカートが、ふわりと揺れて角から見える。どうにも誤魔化せそうになくて、汗をかいた手で鞄をぎゅっと握り締めて、名前は角から身を出した。


「伏黒くん、お疲れ様。またね」
「えっと、お疲れ様です。あの、今のどこから、」


足早にその場を後にする名前を、男は真っ青な顔で凝視していた。次の日、いかにも緊張した面持ちで来店した男が震える手で渡してきた連絡先の書かれたメモ用紙は、無事に名前の手に渡ったのだとか、なんとか。