奥手な大学生夏油
広い講義室の開けた扉を越えて中に入ると、予鈴まであと十分ほどあるにも関わらず、既に七十人近くの学生が席に着いていた。後ろの座席は埋まり切ってしまっていて、学生証をバーコードリーダーに読み込ませたのち、名前は仕方なく真ん中の端辺りの席を選んで腰を下ろす。周りを見渡せど知る顔は居らず、思わず溜息を吐いた名前は、先日変えたばかりの真新しい端末に目を滑らせ、友人に嘆きのメッセージを送るべく緑のアイコンをタップした。
必修科目の履修登録ミスが発覚したのは去年の五月である。それが発覚した当時、主要な授業を一二年のうちに取り終えて後は悠々自適に隠居生活と意気込んでいた名前は、目の前で音を立てて崩れ去っていく輝かしい計画の頓挫に、思わずその場で膝を折った。これがただの必修科目ならまだしも、(友人の)先輩曰く「めちゃくちゃダルい」。元来真面目な名前に落単の心配はないのだが、それでも周りに友人がいないのはどうにも心細い。シラバスで見た「グループワーク」の七文字を頭にチラつかせながら、名前はぽちぽちと既読のつかないトークルームにヘルプのメッセージを送った。
「ごめん、ここいいかな」
そうして先日購入したばかりのうさぎのスタンプを連打している最中にふと隣から声が掛かり、顔を上げて瞠目。そこには、名前に許可を求めるように小首を傾げる顔の良い大男がいた。思わず固まった名前は、なけなしの力を振り絞って口角を上げ、頷いたのち横にずれて座席を彼に譲る。ありがとう、と人の良い笑みを浮かべる男はもしかせずとも周囲の視線を一身に集めており、名前は身体の右半分が熱くて熱くて仕方がなかった。
そもそも何でわざわざ自分のところに、と、男から距離を置くために頬杖をついて左を向いた名前は、パッと目に映る講義室の人口密度に驚いた。名前が液晶の上でうさぎを遊ばせている間に随分埋まってしまったらしい席の大半は確かに一、二年らしい学生で溢れ返っていて、むわっとした不快な空気が顔を取り巻く。だからこの人もここに、と納得した名前はひとまず頬杖をつくのをやめて、0.3ミリのシャーペンでカリカリとレジュメに名前を書き込んだ。
「みょうじさん?」
「……え?」
「いや、珍しい名字だなと思って。読み方は合ってる?勝手に見てごめんね、この講義は初めてだし、一人だから心細くて。お詫びに私の名前も、ほら」
「……」
隣から飛んできた自分の名字を呼ぶ声は、いつの間にか名前の手元を見ていたらしい大男から発されたものだった。ぐ、と身を乗り出して、何故か名前のレジュメに厭に丁寧に文字を書き込む男の肩が、名前の肩とぐっと触れ合う。香水だろうか、体臭だろうか、それとも洗剤だろうか、男から香る仄かな匂いに、顔に熱を持たせた名前は「おしゃれな人の匂いだ」と思った。
異性に耐性の無い名前にとって永遠に続くかと思われた長い長い時間は、実際男がたった三文字を書き込むだけの短い時間であった。
「これ、私の名前ね」
右手で頬杖をついて名前の方に身体を向ける、男の前髪がたらんと垂れる。名前のレジュメには綺麗な文字で「夏油傑」と書かれてあった。
「何て読むんですか」
「当ててみて」
めんどくせえ。
格好良いけど、人のレジュメに勝手に書き込むの、非常識じゃないかな。
完璧主義のケがある名前は、汚されたレジュメに少しの苛立ちを感じながら手元の三文字に目を落とす。
「えーっと、…下は、すぐる?」
「うん、正解」
「上は?なんて読むんですか?」
「うーん、内緒。傑って呼んでくれたら良いよ」
名前の後ろで、ヒッと小さな悲鳴がした。
ほら、聞かれてるじゃんか………。
羞恥やら何やらで居た堪れなくなって、名前は消しゴムでごしごしと三文字を擦る。
そもそも、初対面の人の名前聞く?こういうのって、グループワークの時以外喋らなくない?てか、ちょっと顔が良いからって、ちょっと顔が良いからって。
とうに消えた文字を消し続ける名前を横目に、傑という大男は、何が面白いのかにこにこと満面の笑みを顔に貼り付けていた。もちろん全部、無視してやったが。
♢
講義が始まって、三十分ほど経った。あれから特に何かが起こることもなく、つつがなく講義に身を入れた名前は、重い瞼を持ち上げながらどうにかこうにか意識を保つ。大きく映し出されたパワーポイントが示す数字をメモしながら、ふと名前の足先にこつんと何かが当たった。
足元の荷物かもしれない。
そうして避けて、またこつん。
前の人の椅子かな?
そうして避けても、またこつん。
いよいよ不審に思った名前は、頭を傾けてそっと
椅子の下を覗き見た。
「えっち」
「はあ?」
障害物の正体を確認するとともに頭上から降ってきた声に、名前は思わず声を荒げる。障害物の正体──隣の大男は、人差し指を口元で立て、わざとらしく
「しーっ。講義中だよ」
と宣った。何を、と周りを見渡せば、確かに多少の注目は集めていたようで、顔から火が出そうになりながら、名前は前に向き直る。
最悪、最悪、最悪。てか、なんで足、わざと当ててくんの。
羞恥を打ち消すようにガリガリと文字を書き込む名前の横から、にゅっと何かが伸びてくる。
「これ、私の電話番号ね」
性懲りも無く名前のレジュメに九桁の数字を書き込んできた大男は、にこにこと表情を崩さない。
「インスタに載せます」
「何でそんなことするの?君にしか教えるつもりはないのに、悲しいな。私はこう見えて打たれ弱いから、悲しくて泣いてしまいそうだ」
「いや、全然泣きそうじゃないし」
「あ、もしかして匂わせってやつかな。それなら電話番号じゃなくて、写真にしない?ほら、今撮ってもいいよ、腕だけ映して」
わざとらしく肘を当ててくる大男を見遣って、名前は大袈裟に顔を歪めた。
♢
あれからもなんだかんだと言いがかりをつけて絡んでくる大男をいなして、漸く長かった講義が終わる。大男のせいで半分も頭に入っていないレジュメをファイルにしまって、名前はメッセージアプリを立ち上げた。そうしている間も名前に話しかけてくる大男のことは、一切無視を決め込むに限る。マジで何なんだこの人。そうして立ち尽くす二人の後ろから、ぬっと大きな影が差した。
「傑」
「あれ、悟?何でこの時間に?」
「硝子がお前来てるっつってたから。昼食おうぜ」
「ああ、…うん、昼は、」
「てか、お前去年取ってんのに何でまたこれ取ってんの?そういう趣味?」
友人にぽちぽちとメッセージを打っていた、名前の指がぴたりと止まる。
この講義は初めてって、確か一番最初に。
二時間前の記憶を手繰り寄せながら思わず顔を上げて、名前は瞬時に後悔した。
「…えっと」
「は?…あー、……なるほど?傑くん、なるほどね〜〜」
「ちょっと黙ってくれないか、悟」
「ねえ、ごめんね、傑がさ。なんかされた?こいつと目合わせない方がいいよ、危ないから」
「悟!……ごめん。…あー、その、だから、」
連絡待ってる、と言い残して白い男を連れて去った男の、耳が淵まで赤かった。
「……え?」
遠くから様子を窺っていた名前の友人が来るまで、あと三秒。