奥手な大学生夏油A




夏油傑はちょうどいい男だ。とっつきやすさを印象付ける物腰の柔らかさや相手の緊張を上手い具合に解すことができる軽口の程度、笑うとほんの気持ちばかり下に下がる目尻の角度や大きく温かな手のひらの温度など、内面的な部分から外面的な部分に至るまで、彼を構成するすべての要素は、とにかくどうしてちょうどよかった。絶妙、もしくは巧みと言い換えるのも良いかもしれない。事実彼は親友で、時代が時代なら男であっても傾国美女と形容されるであろう端正で美麗な顔立ちを誇る五条よりも女子にモテたし、女子でなくとも周りの人間で、ひとたび夏油の人たらしっぷりに深く触れて骨抜きにされない者はいなかった。

夏油は、昔からもう、めちゃくちゃモテにモテまくった。もっと正確に言えば、中学二年生になる頃から、彼のモテ期は留まるところを知らなかった。
小学生の頃は足が早かったり運動ができたり、とにかく目立つ人間がモテるものだから、夏油はそこまで注目される存在ではなかった。もちろん元来の顔の良さから、夏油くんってかっこいいよね、という声はそこかしこからひそひそと聞こえてはきたけれど、それは囁きだけで収束する程度のものだったから、あくまで夏油はただのかっこよくて優しい人止まりだった。
しかし中学に上がって、学年中の女子たちが夏油のちょうどよさに気付き始めてから、夏油の靴箱と机は毎日ラブレターで溢れかえった。 

通学路で会う年下の宮崎さん。
学年集会で隣になる違うクラスの佐々木さんに、全く接点のない吹奏楽部のふたつ年上の竹本先輩。

厄介なのは夏油が彼女たちの名前をなまじ覚えてしまっているだけに余計な期待を持たせてしまっていることなのだけれど、夏油は今日に至るまでついぞそれに気が付かなかった。


年上から年下まで、夏油は様々なタイプの女性からありとあらゆるアプローチを受けまくった。

ある日は乾燥して咳が止まらない私に苺味ののど飴をくれたよね、と。
ある日は落としたプリントを拾ってついでに職員室に届けにいくのを手伝ってくれたよね、と。
またある日は当番でもないのに黒板の高い場所を消して綺麗にしてくれたよね、と。

当の夏油自身、自分のことを決して善い人だなんて思ってはいない。それでも彼には、たとえ打算的であったとしてもそうと割り切って優しさを振りまけるくらいの余裕があって、世の中には、ハナから相手を騙す目的であったとしても優しくはなれない人間などごまんと存在している。
そんなわけで中学時代、そして高校時代の夏油はとにかくモテにモテまくったわけだが──逆に言えば、夏油から誰かにアプローチをかけたことは、今までただの一度たりともありはしなかったのだ。





「そういえば名前、あのイケメンに連絡した?」
「してないよ、話すことないし」


大講義室での邂逅から一週間、未だにモヤモヤと胸にわだかまりを抱えた名前は、しかし夏油に連絡をすることはなかった。名前が大学構内で夏油を見たのはあれっきりで、それ以前に彼に会った覚えは、名前の思い出しうる限りだと多分今まで一度もない。たった九十分の講義を共にしただけで厚かましくも自分の頭の中に居座る夏油を疎ましく思ってすぐに忘れようとしたこともあったけれど、名前は、去り際に真っ白な男を引き摺っていった彼の真っ赤な耳と、連絡待ってる、の一言がどうしても忘れられなかった。

あの時、家帰ってすぐに電話番号消しちゃったから、どのみち学部も知らない人に連絡するなんて、たまたま会ったりしないと無理だし。それに、ああいう人は多分、飲みサーで可愛い子とよろしくやってるって、こないだバイトの先輩が言ってたし。

なんだかんだと理由をつけて夏油に連絡しないことを正当化してはいるけれど、それでも名前の心臓は、あの日右側に感じた温度だとか、節くれだった大きな手を思い出しては、本人の意思に反してなぜかしきりに躍動を早めるのだった。





「連絡が来ない」
「おつ」
「おつ」
「悟のせいだ……」
「はあ?お前が言っとかないからじゃん。つか、いくら接点作りたいからって、単位にもならねー授業受けるとかよくやるね」


仕方ないじゃないか。だってそうでもしないと。だって。だって。

あの日名前に声を掛けた時のようないかにも遊んでいる風の雰囲気など見る影もなく、どんよりとした空気を纏って机に項垂れる夏油は、言い訳がましくうじうじと一人嘆いては0.3ミリのシャーペンで二日後が期限の課題プリントに取り組んでいる。
そんな夏油に見向きもせず、今日も今日とてラウンド型の真っ黒なサングラスをかけた五条は、スマホゲームに夢中になりながら机の上のスナック菓子を摘んで食べた。
ちなみに同じく気のない返事を返した家入は、一時間後の締め切りに追われてレポートを完成させるべく、必死にパソコンと向き合っている。彼女は意外と、ずぼらなタイプなのだ。


「もう会いに行けば?なんで連絡しねえのって」
「無理に決まってるだろ、考えて分からないのか?」
「なんで?取ってる講義知ってんだから、あん時と同じ時間に行けばいいんじゃん」
「いや、彼女の取ってる講義は他にも知ってるけれど、そういう問題ではなくて」
「キモ」
「硝子、言い過ぎ」
「大体、同じシャーペン使ったり学食で同じメニュー食べたり、いちいち意味わからないし周りくどいんだよ。私がそれされたらドン引き」
「違うんだ、これはミラーリングといって心理学的にも相手に親近感を持ってもらいやすいってちゃんと効果が実証されてる」
「キモ」
「五条、言い過ぎ」


スマホゲームに飽きてしまったのか、スマホを机の上に伏せて置いた五条は、家入が研究室から借りてきた分厚い医学書をパラパラと捲る。

あ、ここ知ってる。

五条の独り言に目敏くならぬ耳敏く反応した家入は、一刻も早くレポートを終わらせるため、五条の首根っこを掴んで最新型のパソコンの前に引きずり出した。というのも、五条はこう見えてすこぶる頭が良いので、締め切り前の奥の手として、二人は知り合った一年の頃から彼をいたく重宝しているのだ。もちろんそれは、締め切り前に限ったことなのだけど。


「でもさ、マジな話、進展したいなら話しかけにいくしかなくね?連絡先も知らないようじゃなんもできねーし。こないだ話したんだろ、いけるって」
「その根拠は?」
「お前、俺ほどじゃないけどイケメンだしさ」
「あの子は顔は気にしないタイプなんだよ。顔なんて何のウリにもならない」
「何で知ってんの?」
「前に電車で話してるのを聞いた」
「「キモ」」
「……二人とも、言い過ぎだよ」


白目を剥いてうげ、と舌を出す五条と、そんな五条にレポートをさせようと大きな背中を遠慮なくバンバン叩いて急かす家入を横目に、ほとほと困り果ててしまった夏油は、今度こそ手を止めて机の上でバターよろしく溶けてしまった。
名前とお揃いの0.3ミリのシャーペンが、課題プリントの上で転がっている。わざわざ細くて芯の折れやすいシャーペンを使うのも、その日の気分ではないメニューを注文するのも、ここ数年の間にすっかり慣れっこになってしまった。
連日の夜更かしとアルコールの過剰摂取が祟って体調不良に陥ってしまった大学一年生のあの日に名前に声を掛けられてからというもの、夏油の内側では、名前に対する並々ならぬ想いが積もりに積もって、もう完全にキャパオーバーを起こしていたのだ。


これも全部、あの子のせいだ。


理不尽な言い掛かりをつけつつ再びシャーペンを手に取った夏油は、ゆっくりと頭をもたげて課題のプリントの続きに取り掛かる。力を込め過ぎたペンが下へ下へと押し付けられて、細い芯がポキリと折れた。







名前は一心に机の上のノートを見つめることで、今すぐ叫び出さないようにするための理性を保っていた。目の前の男は、ゆっくりと瞬きを繰り返しては首を傾げてこてんとこちらを覗き込んでいる。


「それで、どうして連絡してくれないのかな」


疑問形の形を取っていながら一切上がっていない語尾と、にこにこと細められていながら全く笑っていない目の奥に圧されて、不運な名前は、今すぐにでも逃げ出したいというのにその場に縫い付けられたようにすっかりと椅子の上で固まってしまっていた。名前の友人が講義に出ている空きコマのこの時間、彼女にヘルプは頼めそうにない。この間と雰囲気が違いすぎるんだよな、と頭の片隅で考えながら、名前は周りから突き刺さってくる好奇と妬みの視線にじりじりと焼かれてしまいそうだった。


「電話番号、消しちゃって」
「なんだ、そんなこと。また書こうか?ね、そうしたら連絡してくれるんだろう?」


ああ言えばこう言う。スラスラと言葉を紡ぐ夏油は、それはそれはさぞかしたくさんの女の子にモテるんだろうなと考えた、名前の予想は概ね正解だった。もちろん、それが本命相手に効いていないのだから、全く意味はないのだけど。
ちなみにこれをバレない程度の距離で見ていた五条は、「なんだ、普通に喋れてるじゃん」とチュッパチャップスを噛み砕いて、家入に頭を叩かれていた。やっぱり身持ちの固い女子目線で見ると、夏油の返事の仕方は表情から声のトーンに至るまで、何もかもが慣れているように見えてしまうのだ。家入だって昔はたくさん遊んでいたこともあるけれど、それは全部昔の話。今は課題や研究に追われてそれどころではない。男っ気のない彼女は、あのタイプの子にこれはダメだなと、半分諦めた雰囲気を醸し出しつつスルメイカを齧った。
向こうのテーブルでは、尚も夏油が机の上に身を乗り出して名前にぐいぐい迫っている。さっきのうじうじした男はどこに行ったんだと、面の皮がめちゃくちゃ厚いなと、なんだかんだで五条も家入も、普段は飄々としている夏油がたった一人の人間に振り回されているのを、しっかりと楽しんでいるのだった。


「私、最近忙しいんですよね。バイトも夜遅いし、普段からスマホ触るタイプじゃないんで、連絡しないと思います」
「それでもいいよ。そうだ、バイトはどの辺りでやってるの?この間免許取ったから、連絡してくれれば夜でも家まで送っていけるよ」
「いや、仲良くない人にそんなの頼まないですよ」
「じゃあ、頼まれるくらい仲良くなりたいから連絡先教えてくれる?」


段々と苛立ちを募らせる名前を前にして、夏油の頭はお花畑だった。


こんなに長く、話せるなんて。


夏油はもう、目の前で俯く名前の睫毛の隙間から覗く伏せられた瞳や、マットなリップで彩られた小さな唇を、本人が見ていないのをいいことに、網膜に焼き付ける勢いでじろじろと不躾に眺めていた。こんな時でもぺらぺらとよく回る口は、今までの女性遍歴の賜物だろう。その賜物が全く逆効果に働いていることなどつゆ知らず、夏油は早く名前が頷いてくれないかと、努めてにこにこと笑顔を作った。


「そもそも、一回しか喋ったことないのに、なんで私なんですか?」


しかしながら、名前が何の考えもなしに口にしたこの素朴な疑問に、夏油の笑顔はたちまちぴしりとメデューサに見つめられたよろしく固まってしまった。


あの日、寝不足で、おまけに二日酔いが酷かった私に親切にしてくれたのに。売店で水まで買って、大丈夫かって持ってきてくれたのに。近くのベンチまで、ゆっくり付き添ってくれたのに。


そこまで考えて夏油は、今の自分の思考が、のど飴をくれたよね、プリント拾ってくれたよね、黒板綺麗にしてくれたよね、と、過去に自分が相手にもしなかった数々の女子たちのソレと全く同じだということに、今更ながら気付いてしまった。
夏油が年単位で恋心を育み続けるきっかけを作った名前の優しさは、名前にとって記憶にすら残らないなんてことないものだったのだと、あの出会いを運命とすら思っているのは自分一人だけなのだと、目の前に突きつけられた夏油は、心臓がきゅっとひと回り縮んでしまったような気がした。
夏油が名前に抱いていた、きっとこの間の接触で名前が自分のことを思い出してくれるはずであるという期待は、無慈悲にも名前の何気ない一言に粉々になってしまったのである。

夏油から散々二人の馴れ初め(そもそも初められていないけれど、夏油はこれを馴れ初めだと言い張った)を聞かされていた五条と家入は、名前の軽い一振りが夏油の渾身のストレートを場外に叩き込んでしまったのを見て、急いで席を立ち上がった。目の前でいきなり固まってしまった夏油の後ろからぬっと白い頭が出てきたのを見た名前は、ひっ、と小さく悲鳴をあげる。


ごめんね、名前ちゃん。気が向いたら連絡してやってよ。


そう言いながら名前のノートにサラサラと九桁の番号を書き込んだ五条は、夏油を引きずって教室を出ていく。夏油は五条に引かれるがまま、ふらふらと覚束ない足取りでそのまま遠くに行ってしまった。そうして呆然と二つの背中を見送る名前に、すっと黒い影が差す。


「いきなりごめんね。アイツ、名前ちゃんと仲良くなりたいって言っててさ。宗教勧誘とかそんなんじゃないから、暇で暇で仕方ないって時にパシリにでもしなよ。名前ちゃんが電話かけたら、尻尾振って飛んでくよ」


なんで自分の名前を知っているのか。

そう問いかける間もなく、黒髪の美少女はゆっくりと空き教室を後にした。名前の手元には、綺麗なアラビア数字が九つ並んだ、自主勉用のノートだけがぽつんと残されていた。