呪専夏油と深夜のご飯
名前は疲れていた。頭上で煌々と輝く四月の春月の光が名前の頭のてっぺんを照らし、少し肌寒いくらいの温い風が名前の素肌をさらりと撫でる。
やっぱり、タイツ履けば良かったな。
小さな後悔とともに、名前は共用キッチンを目指して、音を立てないように薄暗い廊下を忍び足で歩いた。
四月は変化の月である。環境の変化。気温の変化。体調の変化。季節の変化。人々はみな様々な変化に目まぐるしく振り回されて、そうしてどんどんそこに適応していく。今こうしてくたくたの身を引き摺って廊下を歩く名前もまさに、その渦中にいる一人だった。
名前を一番悩ませたのは、人間関係の変化であった。名前は地方の出身である。交通機関の運行の関係で入学式に間に合わず、一週間遅れで教室に入った名前を出迎えたのは既に仲睦まじい様子の三人のクラスメイトだった。
まず一人目は、五条悟。彼は名前がこれから身を置こうとしている界隈──呪術界ではさながらかのキリストの如く有名な人物らしく、名前も入学前からその評判はよく耳にしていた。曰く、神童。曰く、不遜。どろどろとした様々な陰謀が彼とその才能を巡ってぐるぐると高専を取り巻く中、その中にいる当本人の五条は、それはもう、踏ん反り返り過ぎて逆に見上げてしまうくらい、最悪の態度と最大の自尊心を腰に構えていた。名前が初めて教室に入った日、五条は彼女を視界に入れるなり特徴的な丸型のサングラスをぐ、と下にずらし、遠慮もなく不躾に頭のてっぺんから足の先まで眺めては、頬杖をついて「ふーん」と興味なさげに呟いた。名前は、もう、この時点でダメだった。
五条くん、怖い。
名前の心のシャッターが三分の一、閉まった瞬間である。
二人目は夏油傑である。彼は一般家庭の出身であり、態度も良好。たまに棘を孕んだ物言いをすることもあるけれど、それが向けられるのは今のところ五条に対してのみ。名前に対しては柔らかな言葉と柔和な笑顔が用意されていて、如何にも女性に好かれそうな感じの良い好青年である。しかしながら、当の名前は、夏油と一言喋った瞬間、心のシャッターのもう三分の一を、それはそれはすごい勢いで降ろしてしまった。なぜかというと、夏油は完璧すぎたのである。隙のない夏油の優しさは名前の劣等感を刺激し、恐ろしく強い夏油の術式とそれを使いこなす持ち前のセンスと容量の良さは名前の自尊心を粉々に砕いた。
夏油くん、怖い。
名前が割合にして、クラスの凡そ半分に心を閉ざした瞬間である。
そして最後は、家入硝子。意外なことに名前は、家入が口を開く前から、もう家入のことが、めちゃくちゃ苦手だった。
可愛すぎる。
それが家入の敗因だった。先に少し言及したように、名前は自尊心が恐ろしく低い。唯一の同性の姿をわくわく心中に思い描きながら、期待して教室の扉を開けた瞬間にあんなアンニュイな泣きぼくろの美人が目に入ったものだから、名前はもう、その場で泣き出したくなった。名前は劣等感の塊だった。教壇に立って前を見据えながら、名前は家入の隣に並ぶこけしのような自分を想像する。もし、男女一人ずつに分かれての任務があったら?もし、男子二人が自分の目の前で家入を巡ってじゃんけんでも始めてしまったら?入学式初日、自己紹介も済ませないうちに教壇に立った時点で、名前は家入のことが苦手になった。
そんなこんなで様々な変化に振り回されて、クラスに馴染めずにいる名前に追い討ちをかけたのがその身に豪雨の如く降りかかる呪霊の数々である。四月は術師も非術師も並々ならぬストレスを抱える時期であって、故に自然と呪霊とそれに付随する事件の発生件数も多い。呪霊を祓って、クラスに戻ったかと思えばまた気まずい思いをして、それからまた呪霊を祓って。そんな日々を繰り返す名前は、今日この日も例外なく任務に赴き、先程高専に足を踏み入れたばかりであった。
♢
疲れた。お腹すいた。
無限に続くとすら思われる長い長い廊下を歩きながら、とぼとぼと歩を進める名前はたったそれだけのことしか考えられずにいた。名前は疲れていた。授業終わりに急遽出動要請を出されて東京郊外まで駆り出されていた名前は、昼食以来いかなる固形物もその腹の中に入れていない。
やばいなあ。お腹すいたなあ。
可哀想な名前の胃袋はきゅるきゅると小さく音を立てて収縮を繰り返しており、名前の精魂は最早燃え尽きる寸前だった。どうしようもなく疲弊しきっていた名前は頭の中で、自分が食べたい数々のメニューを思い浮かべる。
ラーメン。餃子。チャーハン。酢豚…豚か。焼肉…しゃぶしゃぶ…海鮮パスタもいいな。チーズとろとろのドリアとグラタン……ピザマルゲリータの真っ白なチーズ。トマトソースのミネストローネと、肉汁たっぷりハンバーグ。
冷静に考えて共用キッチンの有り合わせの食材でそこまで豪華なものなど作れるはずもないのだが、今の名前にそれを考えるだけの頭の容量は残っていない。
とうとう頭の中で食べ物縛りのしりとりを始めてしまった名前は、ぼーっとしたままいつの間にか辿り着いていたキッチンの扉を開ける。漫ろな意識でぬるりとキッチンに侵入した名前は、故に同じくキッチン内にいたクラスメイトの存在に、声をかけられるまで全く毛ほども気付かなかった。
「あれ?名字さん?」
「……………………げとうくん」
「……だいぶお疲れだね。何か食べるの?」
「うん……うん……き、き、…きくらげ」
なぜか頭の中の食べ物しりとりの続きを夏油に宣言してから、名前は夏油に目をやることもなく傍を通り抜け、キッチンの棚をがさごそと漁る。拙い口調でいきなりきくらげ宣言をされた夏油は、キッチンにきくらげなんてあったか…?と暫し逡巡したのち、深く考えることをやめて様子のおかしいクラスメイトの後を追った。
「何食べるの?」
「らーめんか、なんか、にく」
「今から作るの?」
「うん」
「夕飯食べてないの?」
「うん」
「そっか、名字さん今日いきなり任務だったもんね」
「うん」
夏油への返事はおざなりに、棚を漁っていた名前はようやく札幌と銘打った袋麺をひとパック引っ張り出してきたかと思うと、その裏面に目をやってぴたりとその場で固まった。普段の借りてきた猫のような態度は何処へやら、まるで幼稚園児のような幼さと、それにはミスマッチの社畜のような疲労感を醸し出す名前を不思議に思った夏油は、そっと後ろに立って名前の肩口からそれを覗き込む。
「作らないの?」
「む」
「む?」
「むずかしい…」
「えっ」
「かじっちゃおうかな」
名前の名誉のために弁解しておくと、名前はある程度の料理はできる人間だ。両親が共働きの名前の家庭では、中学生の頃から名前が三人分の弁当を作る日もあった。自分からそれを言い出すくらい、名前は、料理というものに慣れ親しんだ人間なのである。ただ今日この日、この場所、この時間に限って、名前はもう、何もできないナマコのようなものだった。疲労困憊の名前に、袋麺は、難しくて無理だった。
「齧るのは良くないよ…いや、良くないこともないけど」
「むずかしいから…」
迷子の園児のような頼りなさを携えて虚ろな目で袋麺を見つめる名前を見て、夏油は何故か自分の胸の辺りがじくじくと痛むのを感じた。
夏油は面倒見のいい人間である。普段から──とはいえまだ出会ってひと月も経っていないけれど──身体だけ大きくなってしまった子供のような五条の世話をしているだけあって、彼の土壇場での判断力と頭の回転の速さには目を見張るものがあった。夏油は器用な人間だった。しかしながら夏油は、決して優しい人間ではなかった。彼の優しさには、ある程度の打算が含まれていた。一年後に入学して、のちに彼の後輩になる灰原のように、ある種無償とも言える朗らかな優しさを持ち合わせた人間ではない夏油は、優しくする人間と場所、タイミングを、持ち前の勘の良さでしっかりと見極めていた。そんな夏油は今回も、しっかりと優秀な脳味噌を回転させて、色々なことを考えた。そうして考えに考えた結果として彼は、名前に恩を売っておくことを心に決めたのである。何故かって、そんなの、
「名字さん、私が代わりに作ろうか?」
「えっ」
「いいよ、私もお腹すいてたから」
「げとうくん、やさしい……」
年頃の男の優しさに含まれる、数字にして凡そ九十パーセントは下心である。
♢
「どうかな、口に合えばいいけど」
「おいしい…おいしいよ、げとうくん………」
目の前で最早半泣きになりながら湯気の立つ器に顔を埋める名前を見て、夏油は、相当疲れてたんだな、と、傍に置いてあった麦茶の入ったコップをす、と名前の方に勧めてやった。あれから夏油が作り終えたよ、と声を掛けるまで死んだように寝こけていた名前は、夏油の声を聞くやいなやのろのろとゾンビのように起き上がり、机についたかと思うと蚊の鳴くような声でいただきます、と手を合わせて、黙々と麺を啜りだした。夏油は何故かきゅんきゅんと大袈裟に伸縮を繰り返す自分の心臓に気付かないフリをしながら、名前のつむじをじっと見つめる。
これはきっと、庇護欲とか、そういうやつだ。
括られていない名前の横の髪の毛が、器にたらんと垂れているのが目に入った。
「名字さん、髪の毛入ってるよ」
「ん、ふふ、くすぐったい」
「……、…ゴムは?括ったら?」
「そうする」
無意識のうちに名前の髪を指で攫っていた夏油は、それを掬ってそっと耳にかけてやる。その際に耳に指が擦れてしまって、擽ったそうに身体を捩る名前の屈託のない笑顔を見て、夏油は、今度こそ無視できないくらい心臓がきゅん、と高鳴ったのを感じた。髪を纏めるために腕を上げた名前の、白い二の腕が目に眩しい。細い首が露わになって、なんだか妙にどぎまぎしてしまって、夏油は自分の邪な視線を誤魔化すように慌ててラーメンをずるずる啜った。
「私ね」
「ん?うん」
「夏油くんのこと、ちょっと怖いと思ってたの。正直ね。でも」
夏油くん、すごく優しいんだね。
にこにこと笑う名前の垂れ下がった目尻が、張り付いた前髪が、夏油の目には鮮明に映る。今までの女性経験は決して少なくないはずなのに、どうしようもなくドキドキしてしまって、夏油は思わずウッと左手で心臓を押さえた。
めちゃくちゃ、可愛くないか。
そんな夏油の心の変化は露知らず、残りの麺を啜って部屋に帰った名前は明日から夏油の渾身のアピールと同級生二人の憐れみの視線をその一身に受けることとなるのだが、この時点でそれを知るのは、恋に落ちた夏油傑ただ一人だけである。