夜8時ごろに鳴り響く固定電話。
料理中の姉が受話器を取る。少女は得体の知れない嫌な予感に怯え、思わず電話応対中の姉の足にしがみついた。
そんなこととは知らず姉は受話器を置くと、しゃがみこんで少女に声をかける。
「かえで、お父さん今日も遅くなるみたいだから、お姉ちゃんちょっとお父さんの研究室にお弁当届けてくるね。1時間くらいで戻ってくるから、いい子にしてお留守番できる?」
「やだ、かえでも行く!」
「かえで昨日は『もう赤ちゃんじゃないからお留守番できるー』って言ってたのに」
「やだ、やだ、かえでも行くの!」
「だめよ、明日遠足でしょ?早く寝なきゃいけないから先にご飯食べておきなさい」
「やだ!やだぁ!」
不安で泣きじゃくる少女を置いて姉は家を出て行く。
そして、それが少女が家族に会った最後の日となった――
…まただ。
ありすは汗だくの体で飛び起きて、いつも同じ夢、忘れた頃に幾度も繰り返される夢をまた見ていたことに気付く。少女の焦燥感が呼び起こされ、そのたびに叩き起こされる――非常に性質の悪い夢だ。
「とりあえず、のど乾いた…」
ありすは、冷蔵庫の前でミネラルウォーターを一気に呷ると、そのまま浴室へと向かった。
シャワーを頭から浴びて、少し冷静に物事を考える余裕ができたのだろうか。24のいい大人があんなに小さい女の子の不安に引き摺られるなんて、と苦笑する。
あれは悲惨な事故だった。あのあとお弁当を届けに行った姉は父親の職場での火事に巻き込まれ、現場からは2つの焼死体が発見された。そして、歯の治療跡と辛うじて焼け残ったDNAによってこの父子の遺体と判断されたのだった。
留守番していた少女だけは被害を免れたものの、あのときの炎が彼女の家族もなにもかもを焼き尽くしてしまった。
「...だめだ、違う事を考えよう」
ありすは嫌な記憶を思考から強制的に追い出すよう深く息を吐き、そっと目を閉じた。
*******
その日の午後、ありすは東都大学宮澤教授の研究室を訪ねていた。
「如月ありすさん、あなたが修士時代にジャーナルに投稿した論文及び学会の予稿を拝見させて頂きました。この世界では論文は研究者の名刺代わりとはよく言いますが…あなたの研究への姿勢と素質はこれらから十分に読み取れました。一緒に研究をできることを嬉しく思っていますよ」
「先生、これからどうぞよろしくお願いいたします」
向かいに座り、笑顔で歓迎してくれている宮澤教授に一礼する。
顏をあげると宮澤教授と目があい、それと同時に教授は笑顔で頷いた。
「ところで、折角来てもらったので、いくつか訊いてみてもいいですかね。少々込み入った話になるかもしれませんので、答えづらいことがあれば遠慮なく言ってください」
ありすがはいと答えると、宮澤教授はそんなに難しく考えないでください、そう言ってまたニコリと笑った。
「如月さんは幼少からずっと米国で過ごしていて、修士号はあの名門のサンダース先生の研究室ということですが、なぜ今回うちの研究室を?」
「昔から博士号取得の際は他の研究室への移籍をと考えていました。環境を変えることが視野を広げることにつながると思っていましたので。
宮澤先生のお名前は学部時代から存じ上げておりましたが、博士取得を考えた際に改めて先生の研究論文をいくつも拝見して、ぜひ先生のもとで学びたいと考えたのが理由です。
…それともうひとつ、実はずっと日本に住んでみたくて」
「ほぉ、といいますと?」
宮澤教授は興味を示したようで、身を乗り出して問いかける。
「私、実は5歳のころまでは日本に住んでいて…その時は家族の都合でアメリカに引っ越すことになったんですが、どこかの機会でもう一度日本に住んでみたいとずっと思っていたんです。
ですので、宮澤先生の研究に興味を惹かれたときに、これはきっと神様から与えられたチャンスに違いない、と思って。
卒業前後で体調を崩したので、結果的には2年間お休みすることになってしまいましたが」
「なるほど…私も自分のルーツを振り返る為に、たびたび故郷に帰りますよ。故郷とは不思議なもので...おっと、これは余談でしたね。では、こちらでは修士時代のいわゆる『クローン』の研究を?」
「はい、先生の分野からは少し離れてしまうかもしれませんが体細胞クローンの研究は続けたいと思っています。それと並行して、先生のDNA解析技術に私の研究を応用できないかと」
「体細胞クローン技術とDNA解析技術の融合ですか、非常に興味深い。ディスカッションを楽しみにしていますよ」
******
ありすが面談を終えて東都大学を出た頃、ちょうど電話が鳴った。
「ありす、仕事だ」
「いつもちょうどいい時に連絡しますね、赤井さん」
電話の相手は例にも漏れず赤井さんだ。
「ホォー、携帯電話のGPS共有をONにして居場所を把握させておいてよく言うな」
「あはは…こちらの真意をくみ取って頂けて光栄です」
赤井さんは自由に振る舞う一方で、要所で気遣いを見せたりする。
それはとても有難いが、こっちは調子を崩されてばかりだ。とありすは苦笑した。
「で、仕事ってなんですか?」
「あぁ、ありすも話は聞いていると思うが、ジェイムズがこちらに来る、迎えだ」
「お迎え?」
「そうだ。日本で一度ジェイムズに会っておくのも悪くないだろう」
赤井から告げられた意外な任務に、ありすは首を傾げる。
「それは『準備を必要とするミッションではない』という認識であってます?」
「ああ、そうだ。
…ところで、どうだったか?久しぶりの大学は」
電話の向こうから聞こえる少し遠慮気味な声。
気を遣われてるなぁ…とありすは再び苦笑いを浮かべた。
「えぇ、やはり懐かしいです。
うまくやりますよ。大学院生の如月ありすとして」
すべてはここからはじまった