「にっくじゃっが、にっくじゃっが るるる〜♪」
夕方というには少し遅い時間、研究室から早めに帰宅することにしたありすは、寄り道してスーパーで買い物をした後、レジ袋をブンブンと振り回しながら帰路についていた。
きょうは初の肉じゃがに挑戦ということもあり、鼻歌交じりでエレベータを降りると、
「にっくにっく♪…あれ」
廊下の隅で壁にもたれかかるようにして男性が座り込んでいた。
「あの…大丈夫ですか?」
声をかけるが反応がない。ありすが思い切ってしゃがみ顔を覗き込むと、見たことのある顔…確か、向かいの住人?
「顏、頬のところ怪我してる…あ、ちょっとすごい汗、すごい熱!きゅ、救急車――」
ありすが携帯電話を取り出そうと慌てて鞄に手を伸ばすと、すぐに手首を強い力で掴まれる。
「だ、だめだ…大丈夫だから」
振り絞るような声で救急車を呼ぶのを封じられ、ありすは困惑する。
救急車を呼ばないとしても放置するわけにもいかないし、せめてどこか安静にできるところへ…
「じゃあせめて、部屋のなかに――」
ありすの問いで、救急車を呼ばないことを理解したのか、手首を掴む力が一気に抜けて目の前の男性は動かなくなった。
「ちょ、ちょっと、大丈夫ですか?」
ありすは突如心臓がドクドクと音を立てて、全身の毛が逆立つ感覚に襲われる。
この仕事を始めて何人もの苦しむ姿を見てきている、仲間だって、そう、いつか自分だって…
「私の部屋に連れて行きます、肩を貸すのでつらいですが歩いてください」
******
おでこが冷たい…冷たい、タオル?
徐々に感覚が戻ってくると同時に、強烈な倦怠感が男の全身を襲う。
人の気配を感じて必死に目をあけると、隣には女性…
その女性の存在を認知した途端、心がかき乱されるような感覚に襲われた。
俺はこの人のことを知っている。どこで、どこで、会ったんだ――
******
「大丈夫かな、熱はちょっと下がったみたいだけど」
ありすが解熱剤をどうにか飲ませ、頬に滲む血を拭き、リビングのソファーに横たわらせた男性は、あれから3時間近く眠り続けていた。
本当は病院に連れて行きたいところだけれど、嫌がるこの人を無理矢理は連れていけそうにないし…
それにしても綺麗な顔立ちだなぁ、髪の毛もサラサラだし。きっと日本でモテるタイプだよね――
キッチンの椅子に腰かけて遠目からそんなことを考えていると、がさごそと音がした気がしてありすは立ち上がった。
「...もしかして起きました?」
「ここは…?」
「私の部屋です。外の廊下で意識が朦朧とされてたので連れてきました」
「そうですか、ご迷惑をおかけしてすみま…っ」
男性はソファーから立ち上がろうとしたがすぐにしゃがみこんでしまう。
「大丈夫ですか?」
思わずありすが駆け寄ると、男性は静かに頷く。
「どうせお隣のようですし、しばらく休んでいってください。あ、これスポーツドリンクです。脱水になる前に飲んでおいてくださいね」
「いろいろとすみません…」
男性はペットボトル片手にソファーに深く座りなおすと、しばらくここに滞在することを決めたようだった。
「僕は、安室透です。よければあなたのお名前を…」
「如月ありすです。ご挨拶遅くなりましたが、先日こちらに引っ越してきました」
「昔どこかで…いや、違う… 如月さんはお姉さんとかいらっしゃいますか?」
真っ直ぐな――なにか感情のこもった眼差しから、重要なことを問われているような気がするものの、肝心の質問の意図がわからずにありすは困惑する。
「え、えぇ、とても優しい姉でした。私が幼い頃に事故に巻き込まれて、今はもういないんですけど」
「そう、ですか…不躾な質問をしてしまいました。申し訳ありません」
「い、いえ…」
気を遣わせてしまったのだろうか、その会話以降、隣人“安室さん”は俯いて黙り込んでしまった。
******
「あ、そうだ。安室さん、おかゆ、食べられますか?」
彼が寝ている間につくったことを思い出し、ありすはキッチンから声をかける。
「あ、ありがとうございます…いただきます」
安室さんは一瞬戸惑ったようにも見えたが、いい匂いだ…と呟くと、ゆっくりとおかゆを口に運んだ。
「如月さん、とても美味しいです」
「よかった。実は私、おかゆつくるの初めてなんです。ずっと海外で暮らしていたもので」
「海外?」
「えぇ、幼い頃にアメリカへ引っ越してからずっと向こうに。でも日本ではいつも姉につくってもらっていましたから、味は保証しますよ」
安室さんのおっとりとした喋りにあわせるように、ありすもややゆっくりと話をする。すると会話が進むにつれて、安室さんは何かを考え込むような素振りをみせるようになった。
「お姉さんは、歳が離れていたんですか?」
「えぇ、私が5歳の頃…19年前には大学生でしたから。でもどうしてわかったんですか?」
「いえ、幼い頃に渡米されたのに、日本での食事はお姉さんに作ってもらっていたとのことでしたから」
一瞬にしてありすに緊張が走る。不用意な発言はしていないはずだが、少し気を緩めすぎたようだ…ありすは悟られないように、警戒心を驚きに装って言葉を繋ぐ。
「すごーい、安室さんって頭がいいんですね」
「そんなことないですよ、ただ細かいところが気になってしまうのが僕の悪い癖です」
まだ体調が万全でないのか、安室さんはぎこちない笑顔でおかゆを食べ続けていた。
******
安室さんが帰ったあと、ありすはソファーに座って難しい顏で考え込んでいた。
高熱にも関わらず時折見せる鋭い洞察力と、この部屋に運んだ時に感じたかすかな火薬の匂い…
――安室さん、あなたは…何者?
魅惑の香り
優しく、そして危険な