朝10時過ぎ。
少し遅めの時間に大学へ来たありすは、その足で事務室に立ち寄っていた。

「有馬さん、おはようございます」
「あら、如月さん。おはようございます」
有馬さんはこの研究科の事務を担当している女性。話によると、18の時から40年近くここで働いており、どんな教授よりもここを熟知した“キーパーソン”ということらしい。

「今日はどうしたの、会議室の鍵かしら?」
「いえ、先日有馬さんに教えて頂いた美味しい塩豆大福を買ったので、お裾分けをと思いまして」
「あらま、私頂いちゃっていいの?」
「はい!…でも、他の先生方の分はないので、内緒でおねがいしますね?」
「ふふふ、勿論!」
ありがとねーとハートマークを飛ばす勢いの有馬さんに別れを告げ、ありすは次の場所へと向かう。



コンコン――
「冠田教授、如月です」

「あぁ、宮澤教授のところの如月さんね、どうしました?」
「先日事務室でお話したとき、教授も塩豆大福お好きだって仰られていたので」

よかったら、どうですか?とありすは紙袋を掲げた。



******



「おお、これだよこれ」
美味しいなぁ、とありすの正面でお茶を片手に大福を頬張る笑顔の男性。冠田清教授、60歳。20年程前に教授としてここに赴任してきた重鎮。そして、いまや学内で逢坂龍のことを知る、唯一の人間。

「ほほう、如月さんは、体細胞クローンの研究されているんですか」
「はい。あ、そういえば、この大学に昔、逢坂教授と仰る先生がいらっしゃったとのことですが、ご存知ですか? 最近は、学会発表も論文寄稿もされていないようなのですが――」

「あぁ、逢坂先生、ね…」
冠田教授はそう答えると、ぽつりぽつりと話し始めた。


39歳の時ちょうど教授のポストに空きがあり、私はこの大学に移りました。逢坂先生は私の2年程前に赴任していて、同世代ということもあり仲良くさせてもらっていました。私も彼も家庭はありましたが、如月さんもご存じのとおり大学に残る人間です、研究に行き詰ったら、ある時は私のところにコーヒーを飲みに来て数時間居座り、ある時は将棋を始め、ある時はそのまま飲みに出かけたりとある程度好き勝手に暮らしていました。研究分野こそ違っていましたが、彼はとても優秀な人間、議論を交わす時間はとても有意義なものでした。

そして、あれは19年前の夏の日、彼が昼間に大量の本を返しに来た日でした。教授という冠がつくと、色々な出版社の人が専門書を売り込みがてら持ってきてくれます。そのなかでも専門用語全集という本――全部で20冊程度あり、私は結局今日までほとんど読んでないのですが――を当時彼に貸していました。彼が突然、貸したことすら忘れていた大量のそれらの本を返却に来たので驚きましたが、私も講義の時間が迫っていたので、その時は適当にしまっておいてくれとでも言って別れました。
その日の夜、学内で不審火が発生しうちの科の実験棟が1棟全焼。そして、彼は夜遅くまで研究に熱中していたようで…彼とはそれが最後になってしまいました。

ですので、実に残念ですが、最新の研究報告はおろか、彼の残したデータはこの世から消えて無くなってしまいました。



「そう、でしたか…」
ありすは言葉を濁して視線を逸らす。うまくやれてるかな、そんなことがふと頭によぎった。

「あぁ、しかし当時の学生さんの修士論文や博士論文は書庫にあるはずです。有馬さんに鍵を借りるといい。それに、逢坂先生は何冊か執筆されていましたから、それも図書館に置いてあるはずですよ」
如月さんの研究とどの程度重なっているかはわかりませんが、彼は優秀でしたから、何かしらヒントをくれると思いますよ。そう告げると冠田教授は微笑んだ。



******



――深夜2時、人気のない暗い廊下。
ありすは扉を開け真っ直ぐ部屋の隅の書棚に向かうと、一冊ずつ手に取り、痕跡を探す。
「専門用語全集T, 専門用語全集U, 専門用語全集V…あった」
本棚の奥に隠すように置かれたファイル、内容は手書きの実験ノートのコピー。日付はところどころ飛んでおり、どうやら抜粋されたもののようだ。

最初のページに簡単に目を通す。
『Day0 #1, #5, #7, #12, #13の個体で成功。5/20とは幸先のいいスタートだ』
何かの個体の経過を観察しているようだ。これは冠田教授の研究ジャンルではないと気付き、ありすは息を呑む。心音が煩いくらいに響いている、もしかしてこれは、本当に逢坂龍の研究資料かもしれない…

はやる気持ちを抑え、一通りページを捲る。

『Day3 #1心停止。残るは#5, #7, #12, #13』

『Day20      …残るは#5, #12, #13』

『Day154      …残るは#5, #13』

『Day258      …残るは#13』



そして、最終頁を開いたありすはひどく動揺することになる。

『08/19 #13 経過良好、全て正常値。その他に関しても一般的な5歳児と変わりない』





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