古めかしい建物の一角、タイル張りの薄暗い廊下を少女は歩いていた。
遠くで手を振る女性の姿を捉えると、少女は笑顔で駆け寄り女性のあとに続く。
コンコン――
立ち止まったふたりの前には、白い扉。
ノックの音が静かな廊下に響いた数秒後、部屋の奥からどうぞと低い声が聞こえた。
『逢坂先生、娘さんがお見えになりました』
扉を開けた女性の背後からそっと少女が顔を覗かせると、逢坂先生と呼ばれた男性は読みかけの書類を片付けて少女に微笑む。
『かえで待ってたよ、検査をはじめようか。Tシャツを脱いでここに横になって』
少女が駆け寄るのを見届けると、女性は静かに立ち去る。
部屋には、診察台に横たわる少女と男性のみ。
『きゃっ!ぱぱ、つめたいっ』
『ははは、毎月やってるというのに、かえではいつまでたっても医療用ゼリーに慣れないね。さあ、次は脳波だ。これをかぶって目を閉じてごらん』
=米国FBI事務所=
あーねむい。昨日夜更かしなんかするんじゃなかった…
デスクで大量のメールを仕分けながら、後悔と欠伸をコーヒーで流し込む。いつの間にかぬるくなっていたそれを一気に呷ると、肩甲骨まで伸びた黒髪がサラサラと揺れた。
FBI捜査官、如月ありす。
配属当初は小柄な容姿が戦闘には不向きだなんて揶揄されていたが、持ち前の器用さと柔軟さで着実に実績を重ね、候補生としての肩書も外れた最近はそれなりに仕事も任されるようになっていた。
「ありすおはよう、なんだか眠そうね」
後ろの席のジョディに声を掛けられ振り向くと、彼女の甘いコーヒーの匂いがした。
「あ、わかる…?実は昨日、ホラー映画見ちゃったせいでなかなか寝れなくって…」
ありすが目をパチパチさせると、寝不足は美容の天敵っていつも言ってるじゃない、とジョディは肩をすくめる。
「…で、それどんな映画だったの?」
「井戸から髪が長くてまつ毛のない女の人が這い出てくる、日本の有名なホラー映画」
「ええっ、まつ毛がない女の人の映画?それってどうやって撮るの!?」
CGかしら、でもその作品って古いんでしょ?と考え込むジョディの言葉に、ありすも妙に気になってしまう。このあと話題はまつ毛の育毛へと移るのだか、男ばかりの職場で気のおけない彼女の存在は重要だ。
メールチェックも終えて、ありすが事件の資料整理を始めた頃。
「ジョディ、ありす、ちょっといいかな」
何処からともなくやってきたジェイムズに突然声を掛けられた。
奥の部屋へと通されるということは、何か特別な話があるようで…心当たりを探してみるけれど見当がつかず、ありすは前を歩くジョディに駆け寄り小声で話しかける。
「ねぇジョディ、私たち何かやらかしたっけ?」
「さあ、何かしら… 最近はおとなしくしていたはずだけどね…」
貴女はなにか心当たりある?と肩を竦めて訊き返すジョディに、ありすはただ曖昧に笑い返すしかなかった。
初めて入室する部屋は応接室のようになっていて、見慣れない雰囲気に内心戸惑う。ありすがどこか落ち着かないまま、ジョディに倣い着席すると、ジェームズは早速本題を切り出した。
「さて、君たちをここに呼んだのは他でもない。組織に動きがあるようだ、日本に行ってもらいたい」
******
休憩室の丸テーブルにジョディと向かい合って座る。
ジョディとのランチはもちろん、今朝聞かされた日本行きの話となった。
「ジェイムズにいきなり呼び出されたと思ったら、ジョディと突然の日本行き…」
「まあ、いいじゃない。いよいよ敵の巣に近づけるかもしれないんですから」
困惑するありすとは対照にジョディはどこか機嫌が良さそうだ。
「それよりありすはどうするの?私は捜査対象も潜入先も決まってるけど、ありすは自分で決めるんでしょ?」
「いっそのこと、私もジョディと一緒に帝丹高校の先生に…」
「何言ってるのよ、まだ私も採用してもらえるかわからないのよ。それに無用の接触はなしって言われてるでしょ」
「そう、それもまた問題よね」
ありすはサラダボールの隅に転がるミニトマトをフォークで雑につつきながら答える。
「ただでさえ知らない土地で、唯一の知人は全てFBI。なのに私はFBIの人間に一切接触するなと...つまりは孤独死しろってことね」
「あら、そんなことにはならないわ。わたしありすの営業スマイル好きよ?」
ジョディがいたずらっぽく笑い、ありすは呆れる。
「誰それ構わず四六時中ニコニコしてたら過労死まっしぐら。おまけに日本は湿気でじめじめしてるし、何より赤井さんの監視つき」
一体、何が楽しくてそんな状況を甘んじて受け入れなきゃいけないのか――
「監視つきで残念だな」
…なんでだろう、ここに居るはずのない人の声が聞こえた気がする。
ありすがそっと振り返ると、隣のテーブルに座り何食わぬ顔で食事を始めたよく知る姿。
「赤井、さん…」
「シュウ!日本から戻ってきてたの?」
唖然とするありすに対して、歓迎ムードのジョディ。心なしか声のトーンも高めだし…
ありすは苦笑いを浮かべながら、隣のポーカーフェイスに視線を移す。
「ああ、朝デスクに顔を出したんだが、ちょうどお前らは席を外していたようだ。…ありす、俺の顔に何かついてるのか?」
薄々そんな気はしていた。
けれど今この瞬間、何食わぬ横顔を見て確信に変わった。
「もしかしなくても私を呼び寄せたのは赤井さんですよね。帝丹高校の潜入任務はジョディが適任ですけど、『ありす、お前の最重要任務は組織に決してFBIとばれないことだ』とかって、じゃあ日本に呼ばなきゃいいじゃんって話ですよ」
「全てにおいて90点。お前は俺のサポート役には最適だからな」
「ほら、そんなところだと思いましたよ。どうせ100点が取れない”ぽんこつ”ですからね」
「まあまあ、シュウとありすのコンビ再結成ってことでいいじゃないの!」
ありすの露骨に嫌そうな顔と、赤井さんのすました顔を見比べたジョディは、ありすが新人だった頃から全然変わらないわねーと笑っていた。
******
「さて、どうしようかな…」
昼ごはんも終わりデスクに戻ったありすは、今回の任務について整理してみることにした。
任務は組織についての調査及び他者任務の補佐
滞在中は一般人として生活し、他のFBIと接触しない
組織には決してFBIとばれないこと(最重要)
うーん、一般人として働きながら、任務補佐という名の赤井さんの突然の呼び出し対応ってのがまず成立しない。今時バイトだって突然仕事を休んだらすぐにクビだろうし。
となると、成果主義の仕事?翻訳とか、プログラム書くとか、ちょっとした故障修理…まあこれはなんでもいいか。
ただし、調べる内容はもう最初から決まっている。
わずか5歳で何もかもを捨て、日本を離れた少女を救う真相。
「あ、なんだ、これで全部解決できる」
ありすは何か気付いたようにつぶやくと、webブラウザを立ち上げて検索ウィンドウに打ち込んだ。
『東都大学 大学院』
如月ありす
私はずっとこうなることを望んでいた