「初めまして、綾部縁と申します」
「あらまあ、かいらしいお嬢さんねぇ。柔造にはもったいないんとちゃう?」
「いえいえそんな、滅相もないです。縁なんてワガママばっかりの甘えたで、少しはお兄ちゃん見習いなさいっていつも説教ばかりです」

 アンタ(母親)が否定すんな。縁は青筋を立てそうになりながら、接客業で磨かれた輝かしい笑顔を絶やさなかった。

 ここは"そうだ、京都へ行こう"でおなじみの京都の老舗旅館 とらやの一室である。真ん中に足の短い横長の机があり、それを挟んで両家の面々が対面している。そう、これは言わずもがなお見合いである。
 綾部家は第二次世界大戦以降貿易商で財を成した、歴史的には旧家に劣るものの実力ある家柄だ。縁が生れ落ちたその時から綾部の名前は縁の背負うべき業であり、縁はそれを疎ましく思っていた。
 反抗期だった中高大の学生時代はそれなりに足掻いてみせたものだが、それも落ち着いた今では半ば諦めの感情を抱いている。それでも家柄で相手を選んだり、まだお互い若いというのに強制的に結婚させられる(お見合いとは名ばかりで結婚は既に決定している)なんて時代錯誤な両親に縁は反発した。

「私は別に結婚はまだしなくていいと思ってるし、焦るような歳でもないでしょう?」
「勝手に店なんて始めて…お父さんが支援してなきゃとっくに潰れていたんだぞ?」
「お父さんの言う通りです。危ない橋なんて渡らず、お嫁に入れば幸せになれるのよ?」

 縁はあまりの悔しさと屈辱に涙が出そうだった。縁は女児であるし、兄がいるので綾部家の跡継ぎにはなれない。
 縁とて家は大切であるし、業と言いながらも心の底から憎んでいるわけではない。助けになれればと大学では真剣に経営学を学んだし、自分で店を出してなんとかやりくりしてきた。
 それを自分の実力だと信じて疑わなかったのに。それは親の支えがあってこそだと叩きのめされた。プライドをこれでもかとへし折られ踏み潰され、もはや木っ端微塵にされ、縁にはもう誰と結婚しようがどうでも良くなってしまったのだ。
 結婚など…と思っている自分もいるためかどう回避しようか策略を巡らせているのだが、疲れ果てたせいで浮かぶのは自分を落とす愚行ばかり。わざわざそんなことをするほど縁は馬鹿でもないので、おとなしく受け入れることにしたのだ。

「柔造さん、こんな事大きな声で言ってはいけませんが、私は無信仰で仏教や明陀宗のことをこれっぽっちも存じ上げません。もちろんこれから勉強させていただきますが、こんな私でももらって頂けますか?」

 ああ、いっそ相手が相当年増とか、禿げ散らかしてるとか、ギョッとするほど不細工だったら子供の将来云々で両親を説き伏せる要因になりえたのに。柔造さん含め、志摩家の方々は揃ってお父上の八百造さんに似ていらして、美形である。
 それでいて成績も優秀で、お寺のお仕事でも重役に就かれるほどの実力者で、子供が大好きで、兄らしく頼り甲斐があって。非の打ち所がない、素晴らしい男だった。
 縁はこんな形ではなく、別に出会っていれば彼のアラを探す事にはならなかっただろうに、と少しばかり残念に思った。それと同時に、私なんかと結婚させられてたいそう不幸にも思った。

「私の方こそ、こない素敵なお嬢さんを本当にもろぅてええんやろか」

 後頭部を掻いて照れ笑いをする彼の反応に、まー!と年甲斐もなく黄色い歓声をあげる母は縁の肩をべしんと叩く。思わず痛って!と乱暴な反応を見せてしまいそうになるが、そこは堪えどころで、笑顔を貼り付けて対応する。

「縁さんは京都は初めて?」
「中学の時 修学旅行で一度だけ」
「せやったら、ちょっとお散歩してきよし。これから暮らすんやし、柔造もお供につけるえ?」
「二人だけで話す機会もあった方が良いんじゃないのか?ほら、行ってきなさい」

 結局決定権は縁にはなく、父親に促されて縁は立ち上がる。正直成人式ぶりに着た振袖は窮屈だし、結いあげた髪に刺さるピンが痛いし簪も重くてたまらない。歩幅は狭くて慣れない履物で出歩きたくなかった。
 欧米ではレディファーストは当たり前だが、ここは日本。男の半歩後ろを大人しく歩く女が好かれるような世界だ。必死に必死さを微塵も出さず気を遣わなくてはならないのだろう。考えただけで気が重かった。

 京都らしい石畳の細道に、縁の履物がずりずり擦れる音が響く。柔造さんは速くもなく遅くもないペースで歩き、時折少し後ろを歩く縁を機にする素振りを見せた。

「あの…となりきぃひんの?」
「では失礼します」

 黒の正装であろう袴を着た柔造さんはこなれた様子で裾を捌く。隣に並ぶと小柄な縁と日本人にしては大きい柔造さんとだと、身長差がかなり開いた。

「座っている時は気になりませんでしたけど、柔造さんは随分背が高いんですね」
「あーまあ、おとんも高いし…遺伝やろうなぁ…。追い越すのにかなり掛かったのはええ思い出やな」
「追い越すなんて、私はどうしてか背が伸びなくて…夢のまた夢でした」

 縁は話し上手であり聞き上手でもある。柔造も同様で、たわいもない話は尽きなかった。未だ慣れはせずとも緊張はほぐれ、隣に並ぶのも自然な空気になってきた。
 しばらくして戻れば、まだ仲睦まじいとは言いがたくも何処か良い雰囲気になってきた二人の姿に双方の母親は手を取り合って喜び合う。どうやらこの短時間で二人は意気投合したらしい。

「ただいま戻りました。お待たせしてしまいましたか?」
「ええんよ!なんやええ雰囲気やし、ねえ?」
「そうねぇ。このまま良い夫婦になってくれると良いんですけどねぇ」

 良い夫婦。11月22日 なんちゃって。あー、笑えない。でもやるからには"完璧"でなくては。綾部家の名に恥じぬ、良妻賢母でなくては。そうやって"なくては"で塗り固めて笑顔を繕い、完璧で在り続ける。それが私の息苦しく自由のない生き方。私の決められた人生。

 略式結納と兼ねた食事会も、つつがなく行われた。縁はしばらくとらやに宿泊し、柔造と清い付き合いをして漸く友達のような、気楽な関係になりつつあった。
 そのしばらくの後、東京に戻った両親と使用人が送ってくれた荷物を志摩家に運び入れ、ついに縁と柔造の生活が始まった。

Afterword

あとがき

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