志摩家に住むようになって早一週間。この一週間で縁は専業主婦を板につけていた。朝早く起きてお弁当と朝食の支度をし、みんなで食べたら男たちを送り出して後片付け。隔日で掃除をして、朝のうちに洗濯を済ます。午後になったら近所の人たちに挨拶回りをしながら自由時間。夕方買い物に行って夕食の支度をする。ついでにお風呂を洗っておいて、夕食が終わるとため始める
。全部終わったら明日の朝ごはんが炊きあがるようにお米をセットして眠りにつく。
 柔造さんは縁を抱こうとしなかった。徐々に距離が近くなって手を握ったりすぐ隣に座ったりハグしたり。そんな中学生がするような健全なお付き合い。ちなみにまだキスもしていない。お互い初めてでないことは暗黙の了解で理解しているのに、中々踏み込んでこない。

「柔造さん」
「ん?」

「式は仏前婚で白無垢でしょうけど…写真だけ、ドレスとタキシードで撮ってもらってもいいですか?」
「ウェディングドレスは女の子の夢ってやつか」
「ふふ、はい そうです。白無垢も素敵だと思いますけど、やっぱり一生に一度なワケですから、悔いは残したくありません」

 縁と柔造は二人の部屋で微笑み合う。柔造の部屋の隣、襖で仕切られた少し大きな部屋が縁と柔造の部屋だ。元は柔造が物置に使用していたのだが、片付けられて今ではメイク道具が散らばるドレッサーや桐のクローゼットなど、女性的な物が増えた。
 大振りな布団が一組だけ。これは志摩からの結婚祝いだった。ふかふかしたそれに縁は移り、掛け布団をめくって柔造を手招きする。柔造がやって来て隣に寝そべる。

「柔造さん、キス、しませんか?」

 柔造さんの瞳に、欲が宿った。ふいと視線を背けて、そのあと気まずそうに合わせられる。その視線には肯定の意が込められていることを見抜き、縁は目を閉じる。布が擦れる音がして、柔造さんの気配が近づく。柔造さんの大きな手が、縁の頬だけでなく耳まで覆った。
 触れたのは一瞬だった。男の人らしく、少し乾燥してがさついた、特別柔らかくも硬くもない唇。まだ顔が近いうちに縁は目を開けた。互いの漆黒が交わり合い、もう一度だけ口付けた。

「おやすみ、縁さん」
「おやすみなさい、柔造さん」

 翌朝目を覚ました二人はいつも通りだった。キス如きで騒いだり心を乱したりする初心な歳でもない。そして、それをお義父さんやお義母さん、柔造さんのご兄弟に悟られるようなこともなかった。
 縁はいつも通りの家事を終えて
、散歩に出た。最近はこうして京都を観光することが増えた。暇をつぶすのに京都のように見所がありすぎる場所はうってつけだったのだ。寺社仏閣にお土産物、ただの小道ですら風情があって、縁は携帯のカメラでそれらを撮影する。
 ふと薫ったのはチョコレート。つい先日までは毎日嗅いでいたそのにおい。懐かしさと悔しさがこみ上げてきて、縁は歯を食いしばって涙をこらえる。縁が経営していたのはチョコレートの専門店だ。青山の路地でひっそりと営業する知る人ぞ知るお店。自分が作り上げた空間で味わうチョコレートは最高だった。それももう泥沼に沈み込んでしまった夢であるが。

「サクラ元気かなぁ…。就職先は紹介したけど、いきなりクビにしたも同じだし…申し訳ないことしたな」

 サクラは縁がフランスでスカウトしたショコラティエだ。フランスで修行していたサクラの腕に惚れ、帰国したら自分の店を開かないかと持ちかけた。二人で試行錯誤しながら作り上げたお店は納得の出来映えで、店そのものもチョコレートも素晴らしかった。
 幸せな思い出に浸って、敵情視察だとそのお店に入る。大きめのボックスを購入して早速家に帰って試しに一つ頬張ってみる。艶の申し分ない深いブラウンに輝く金箔。甘くもほろ苦いビターチョコレートの中に香ばしいアーモンドのペースト。思わず頬が緩んで、ルーズリーフにシャーペンを走らせる。

「うん、いい出来」

 書き上がったルーズリーフにはその店のロゴ、紙袋、チョコを納める箱まで書かれていて、チョコレート一粒一粒のイラストや食べた物には味に関するメモが記されていた。
 そして、縁はふと気付く。

「お父さんが援助してなきゃあんな店早々に潰れていたんだぞ」

 家に帰ってきてから久しぶりに自分の世界があって、心から楽しいと思える時間だった。楽しくて楽しくて、思わず時間を忘れてしまったくらいに、充実していた。けれどそれはもう終わっているのだ。過去の偽りの栄光、敗れた夢、それらにしがみついて縋っていただけに過ぎない。
 縁は乾いた笑いをこぼしながらルーズリーフを裂いてぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に放り投げる。ゴミ箱の淵に当たって畳に落ちたそれに、また笑いがこみ上げて来る。笑うしかなかった。膝立ちににじり寄って、不要なくらい高く腕を振り上げて今度こそゴミ箱に力一杯投げつける。ふと横のドレッサーの鏡に映る顔は、涙に濡れていながら狂気を感じさせるような笑みを浮かべていた。

「ははッ気持悪い」

 柔造さんはやっぱり可哀想な人だ。私なんかと結婚させられて。
 縁は孤独だった。志摩家の人たちはみんな優しくて縁を気遣ってくれていた。ご飯を食べたらおいしいと言ってくれて、事あるごとにありがとう。よく気が利くね。他の兄弟にも見習って欲しい。そうやって縁に居場所を作ってくれていた。
 それを拒んでいるのは他でもない縁のなのだが、縁だって急に家族になれと言われてはいそうですかとなれるほど素直ではない。それに、縁は綾部の娘として嫁いできたのだ。完璧を演じるのが当たり前になってきたが、それは静かに縁の心を蝕み病ませていった。

「おかえりなさい、廉造くん」
「ただいまぁ…今日のご飯何ですか?」
「今日は中華!八宝菜とサラダとスープだよ」
「縁さんの作る料理なんでもウマいから楽しみやわぁ」

 学校から帰ってきた廉造くんが後ろからひょっこり覗いて来る。少し距離が近い気がしなくもないけど、中学生であるし可愛いものだ。そういう年頃というのもあるだろう。そういえば、と廉造くんが口を開いた。

「今日なんかええことありました?ご近所さんが言うてましたえ」
「えっやだ、恥ずかしいなぁ…。実はね、私チョコが大好きなんだけど、美味しいお店の美味しい奴たくさん買ってきたの。だからこう…良い物買って嬉しくって、ほくほくしてたからかな?」
「かわええトコありますねぇ」
「廉造くんはお世辞が上手だねぇ…良い子だからみんなより先にチョコあげるね」

 箱を開けて選ぶように言う。廉造くんは本格的なチョコレートに目を見開いた後、これって何味ですか?と真っ赤なハートのチョコレートを指差す。

「それはフランボワーズのやつだね。甘酸っぱくて、多分結構お酒が入ってると思うよ」
「へー、酒かぁ…なら遠慮しとこ。これは?」
「それはスイートチョコレートのだね。上に乗ってるのはプラリネ。甘いやつだよ」
「それじゃあ、これで。ねぇねぇ、縁さん。あーんしてくれません?」
「廉造くんはお調子者だねぇ…しょうがないなぁ。はい、あーん」

 ぱくり、廉造くんが縁の指先に摘まれたチョコレートを食べる。その瞬間金色と黒が視界を横切って廉造くんを吹き飛ばす。縁はぎょっとして半歩後ろに下がって、金色と黒の正体がもう一人の弟の金造くんだと気付く。この二人は特に兄弟仲が悪くて結構取っ組み合いの喧嘩をする。

「廉造ォお前柔兄の嫁さんに何しとんのや、アァン!!?」
「まだ嫁やのぉて婚約者やけどな」
「あ、柔造さんも!おかえりなさい、お迎えに行かなくてすみません」

 今まで玄関で柔造がただいまと声を上げれば必ず迎えに出ていただけに、今回行けなかったのは悔やまれる。完璧でなくてなならないのに…!柔造はそんな縁に気付かず相変わらずの笑みを浮かべている。

「ええんや ええんや、気にせんで。お、今日は中華か。縁の作るもんはみなウマいから楽しみやわ」
「ありがとうございます。すぐ作っちゃうので、柔造さんたちはお着替えしてきて下さい」

 笑え。いつかこの笑みが普通になる。いつかこれが日常になる。それまで笑え。笑い続けろ。

Afterword

あとがき

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