冷蔵庫でおやすみ

チョコレートが食べたくなった。

最初に見たとき、陽炎だと思った。私の脳が勝手にうんだ、虚像。
つまりは、それぐらい賢くんこと、白布賢二郎は私の中で過去になっていた。過去は美化されるものだ。
だから、私が彼の儚いその容貌だけ覚えていたのならあれは致し方ないのだ。

「なまえ?」

特徴的な長い前髪があおい空に揺れる。まるで夏の亡霊な彼と目があって、心臓が冷えた。
そうだ、これはドラマのワンシーンじゃない。なによりもこれは、幸せなおとぎ話も遠くのこと。

「……えっと、賢くん。久しぶり」
「これからお前ヒマ?」
「え、いきなり?いや、なんで……?賢くん用事とか」
「これから、おまえは、なんか、用事、あんの?」

ひとつひとつを丁寧に、空気の入った袋からちょっとずつプレスしていくみたいに、賢くんは私に問う。もはや詰問といっても過言ではない。
さらさらの色素の薄い髪。整っていて、淡くきれいな色を持つ賢くんの顔。ああ透き通った冬みたい。
そんな顔だけなら、彼は王子様だ。 けれど、けれど。

「私の用事は……ない、です」
「ふーん、じゃあ」

観念して賢くんの方へ一歩近づく。あと二歩ぐらい空いたままの距離。
我ながら頑張った!と褒めていたら、彼から「チッ」なんて舌打ちの音。気にくわないとでもいうかのように。

「……向こうのコンビニ、でいいか」
「なんで私に聞いたの? あ、そういえば賢くんの用事は?」
「うるせぇ、いいだろ。コンビニに用事があんの 」

それだけ言って彼は私に背中を向けて歩き出す。待って、いおうと顔を上げる。そのまま視線は賢くんの背中を上がって、耳の赤にたどり着いた。耳が、あかい?
彼の赤が私の拍動のスピードをあげる。上がったスピードは、そのまま熱と音に分散していく。そんな、馬鹿みたいなこと。

「なにしてんの、 顔赤いけど。ああ、おまえ、体調でも悪い?」
「全然! 全く! すこぶる快調です!」
「意味わかんねぇ返しやめろ」
「あはは、了解です。賢二郎大佐」
「はぁ?!」

賢くん。そんなんじゃ、せっかくのきれいな顔が台無しだよ。
その言葉は、どうしてだかずっと前にも言ったことがある気がして、喉の奥に追いやった。
エアコンの効いた店内は、ありふれた言葉で飾ると、『楽園』である。

「涼しい……サイコー」
「おう。で、おまえこっちこい」
「け、賢くん! 待って」
「……なに」

涼しい、まるで楽園。けれど、腕のある一箇所の温度が高まる。
待って、その哀願に賢くんは「待つわけねぇだろ」と一蹴して、そのまま私の腕を引いた。
恥ずかしくて下を向く。散々履き慣れたローファーに安堵の息をつく。けれど賢くんの足元にも、同じように使い込まれた感じのするローファーがあって、寂しくなった。
ああ。これはやっぱり、私の知ってる賢くんではない。

「なまえ 一個奢る」
「はい?」
「……好きなの選べば?」
「えっと、ごめん趣旨がわかんない」
「好きなアイス選べ」

ちょっとそういうのは……と逃げようとしたら、解放されかけていた腕がぎゅっと賢くんに掴まれて、動けなくなった。
中途半端な体制のまま、私は賢くんの肩におでこをぶつける。……一連の動作に乱雑さはなくて優しいのが、ちょっと。
男女の差、っていうか惚れた弱みみたいな。
思わず賢くんの顔を仰ぎ見る。横顔。見たことのある横顔は、私の腐り果てた心まで、思い出させた。
……本当なら言わなくてよかったのに。言ってしまえば、私は陽炎に目が眩んだのだ。

「あの日のチョコレート覚えてる?」
「クソまずいチョコレート?」
「あはは、否定できないや」
「……じゃあ、チョコアイスな」

帰省してきたのか、たまたま顔を出したか。夏、初恋の腐れ縁にあった。ただ、それだけ。
......なぜ、あえて抽象的に聞いたのに、『中学の時のバレンタイン』だってわかっているんだろう。
チョコレート味のアイスが溶けてしまう前に、私は。このドラマみたいにフィクションめいた日常が溶けてしまう前に、彼と。雪はとっくのむかしに溶けた。縁はとっくに解けた。

「ありがとう、ほんとに奢ってもらっちゃっていいの?」
「別に。うだうだしてっとアイス溶けるから、早くなまえも食えよ」

ありがとう、そう言って封を開ける。賢くんの方はもうすでに一口齧った跡がある。
渡すはずだったチョコレートは結果、腐った。だってもう、2年も前のことになるんだから。
これは比喩表現だ、比喩は比喩である。
フィクションがフィクションでしかないように。
たとえここにいる白布賢二郎くんが、陽炎じゃなかったとしても、彼は最初から儚いひとなのだ。賢くんはただの腐れ縁には眩しすぎるし、儚すぎる。それでも。それでも。

「いつか、うまいやつ食わせて」
「ええ……いつかって言われても……」
「次のバレンタインとか」

私は癖で目の下のあたりをかく。これはメガネをかけていた頃のくせ。
賢くんは「かわんねぇな」と小さく呟いて、それから「メガネなかったから誰か一瞬わかんなかった」って。

ノンフレームで見る賢くんはやっぱり、腐っても溶けても解けても恋心は散らされても。この人は、初恋の人だった。
なんだっけ。いつかどっかの漫画で読んだ覚えがある。いま、フィクションにすがるしかない私を誰が笑うだろうか。
チョコレートはテンパリングをすれば滑らかになって、冷やしてあっためて冷やしてゆるく温めて。それでも、最後は、あなたの口の中で溶けてくれたのなら。

「気が早すぎるよ、賢くん」

素直じゃないなぁ。
そんな言葉は彼のきれいな顔に飲まれてしまった。馬鹿みたいだ。ひとなつのだれも知らない淡い恋、ってなんか、私たちが大人みたいじゃないか。

賢くんの整ったまるで冬みたいに透き通った顔が私に近づいて、影を落とす。それから、唇にも、落ちた。やわらかな何かに目を見開く。

「うわ、チョコレートのあじ」
「……アイス、チョコだったから」
「知ってる」

それからして、あれは目を閉じるべきだったと、恥ずかしくなった。

19.08.10

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