紺碧の半月

いつもそうだ。いつも、同じことばかり。目の前の男が振り返る。まっすぐな黒髪に、しわくちゃな服。指にひっかけただけのサンダル。翡翠色の綺麗な目に、わたしが映っていて彼はおお、と言葉だけ意外そうにわたしに右手を上げる。「よぅ、久しぶり。元気だったか?」禪院甚璽がそうやってわたしの前に現れた2回目の春だった。

「なんですか、突然」
「オマエ引っ越ししてて無駄に探しちまったよ。同じ市内でちょっと遠くに住み替える意味あるか?」
「別に、わたしの自由でしょう」
「それはそうだな」

白いガードレールに腰掛けて、彼は首を回す。ごりごりという音が生々しくて一体彼は何時間ここでこうしていたのだろう。まさかずっとわたしがここに来るのを待っていたとか?まさか、この男に限ってそんなはずがない。自問自答。わたしは彼と一緒にいるとダメになるのだってわかっている。わかっているけれど。

「あ〜疲れたわ」

その言葉、わたしを射抜く視線。空の色のせいで、春に生まれたばかりの桜の葉のように鮮やかな緑が輝いていて、わたしの足は動かない。ぴくりともしない。けれどわたしは悲しいぐらい理解してしまう。万が一でもこれが呪術であったのならまだ楽なのに。なぁなまえ。優しい声音で。わたしが頷いてしまう声で、彼はわたしの名前を呼ぶ。

「なまえの家つれてけよ」

本当は彼に名前を呼ばれる前から、わたしの負けなんて決まっている。わたしはそんな自分が情けない。せめての抵抗でわたしは彼__甚璽さんに鍵を投げた。彼の動体視力を持ってすればそんなの意味ない。そんなことをわかっていてもそうせざるを得なかったのだ。

「鍵についてるキーホルダーは変えてねぇんだな」
「……気に入ってるんですから放っておいてください」
「昔水族館行ったときのやつだろ?何年前だよ」

後ろから鍵をかちゃかちゃと回す音がする。わたしはその音に隠れそうな声で「3年前」と早口で言ってやる。聞こえているならそれでもいいけれど、わたしばっかり囚われているような気がして苦しい。わかってますか?甚璽さんがわたしを訪ねるのは、このキーホルダーをくれたあの日以来だってこと。

自分でやっておいて、とは思うけれど甚璽さんから聞こえてくるかもしれない言葉に背中が冷えて、愚鈍なふりをしたくて、歩幅を大きくした。聞こえているのはいい。でも……ああ、もう。「そうだっけ?」だから聞きたくなかったのに。

「余計なこと言わない方がいいですよ、そのうち背後からぶっすり刺されてもしりませんから」
「はは、冗談にしてももっとマシなのいえよ。俺がそんな素人の殺気に気づかないはずねぇだろうが」
「嫌味ですよ、ばーか。甚璽さんのばか、ズル、ギャンブル中毒、ヒモ、どうせまた会うのは3年後のくせに!」

振り返って、せっかく大きくしてた歩幅も全部無視して甚璽さんの胸倉を握りしめる。カツカツと早くなった靴音はわたしの初恋が落ちた時と同じだった。視界がぼやけて、幼いわたしの恋を模した人の指が耳元を撫でていく。

「なんで、会いに来たんですか?わたしにお金がないことなんて知ってるでしょ……」
「別になんでもいいだろ。オマエもピアス開けてねぇんだな。てっきり開けてるかと思ってた」
「……わたし“も”」
「ハイハイ、一々突っかかんなよ。なんとなくだよ、贈り物っつーか、とりあえず受け取っておけ」
「……対価は?」
「ねぇよ」
「うそだぁ、どうしちゃったんですか、頭でも打ちました?甚璽さん、ねぇ」

降参、と眉間にシワを寄せた彼が両手を上げる。ここまで甚璽さんに似合わない所作があるなんて、とまじまじと観察してしまう。そういえば、なんだか、今日の甚璽さんは清潔な柔軟剤の匂いがする。なんというか実家のタオルケットから漂ってくるような、そんなありきたりな香り。いつも女物の香水か、コインランドリーの安っぽい匂いしかないくせに、いったいどういう変化なんだろう。

「オマエがピアスいらねぇなら別なやつにやるわ」
「ちょっ……。はぁ?」

じゃあな〜とゆるゆる手を振っていく甚璽さんをおいかける。早歩きで追いついたわたしを余裕いっぱいの表情で甚璽さんは見落下す。切れ長の目に縁取られた睫毛が影を織りなすと、ここが東京の公道のど真ん中。家賃だって大して高くない寂れた街だなんて信じられない。立っているだけでロマンティックな男は、もったいぶったように口角を上げる。真昼間に浮かぶ、月になり損ねた未熟な半月と甚璽さんのコントラスト。

「どうする?」
「……どうするもないんでしょう?」
「ハハ、流石は話が早えな。なまえにして正解だったな」
「うっさい。どうせそっちがピアッサーも持ってるだろうし、なによりも鍵を返してください」
「へいへい」



この日のわたしは何も知らなかったから、スタスタわたしの先を行く彼の背中の後ろを一歩分開けて歩いた。今でも時折夢に見るのだ、もし、もしも、あの日。甚璽さんの隣を歩いたのなら。わたし達のうえに広がった紺碧は美しいドラマになったかもしれないのに。せめて、同じ歩幅で歩けたら、わたしの恋への懺悔ぐらいにはなったはずなのに。



「なまえさん、どうしたんですか」
「なんでもないよ、にしても恵くん身体伸びたね」
「…アンタを抜きましたよ」

恵くん。同じ色の瞳を『彼』と同じように長い睫毛に隠すのがいじらしい。まだ中学生三年生の恵くんの背中はわかりやすく細い。『彼』わたしの足音がしないことに気づいた恵くんが、焦ったそうに「なまえさん」と呼ぶ。わたしがごめんねと恵くんの隣にくるとわたしと同じ歩幅で、病院の廊下を歩いた。白い廊下の小さな窓からは澄んだ紺碧がロマンティシズムを無視して広がっている。

20.04.07

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