ダイヤモンドの底で眠る

全部なかったことになった。

そういうことだから、と握り締めた緑色の公衆電話の受話器からぶっきらぼうな声がして、そのまま切れた。ツーツーと単調な音がして、それがさながらペースメーカーのようだった。テレビドラマなんかで悲劇的に撮影される病室の一角みたいな。念のためにと左手に握りこんでいた十円玉をテキトーにポケットに滑り込ませる。

息苦しいし細長い透明な箱を勢いよく開けてやる。全部なかったことになった、つまり、私は自由になったのだ。公衆電話のなかは光を入れまいとグレーのくぐもった色のガラスで目がおかしくなるところだったけれど、ここは、外だ。そう、外なのだ。真っ黒な制服を着たまま、私は濃い青の空にまっすぐ腕をのばす。首を回して、大きく背伸びまでしてやる。

進もうとしてそうだ、と振り返る。悪戯心が疼いてしまったので携帯電話を開く。きらきらと記憶の中で五条の笑い声がかがやいている。いつかは青に溶けて、どんな終末が来るのだろうか。それとも、赤く染めてしまうのかな。

『****************』

硝子、夏油、五条、先生、七海くん、灰原くん、伊地知くん。私は淡く微笑みながら「さよなら」と一括消去のOKを押した。待ち受けは4月にみんなで撮った高専内の桜にしたまま、私は背を向ける。後悔という感情はこれっぽっちも浮かんではこない。私の頬を撫でる風は冬の匂い。足元にはあざやかな紅葉。悪戯っ子みたいに細められる五条の睫毛と宝石みたいな蒼い瞳。なぜだか思い出した五条の優しい表情が私の目の奥を揺すって、私の足を停止させる。

『もう、そういうことだから』

耳の中でリフレインする五条の声が、私の背中から首筋を撫でた、気がした。自由の代償があの男。なんて、なんて、なんて、わかりやすいのだろうか。震える脚はきっと寒さのせい。肩の軽さはようやく得た自由のせい。じゃあ、世界が眩しくておかしくなりそうなのは、いったいなにが原因だっていうのだろう。どうしようもない私は、しばらくずっとアスファルトと落ち葉のコントラストをじっと見つめていることしかできなかった。



自由になった私は、これ幸いとあちこちへ飛び回った。ひとりでいくつも海を見て、ひとりで観覧車にだって乗った。各地の名産だって食べたし、温泉に浸かってリラックスだってした。両親は私が高専をやめたらきっとマトモになると思っていたらしいから、自由を得たあの日以来帰っていない。わざわざ呼び戻したのも無駄骨だ。おかしなものを見て周りを怖がらせるわたしは、ずっと一つのところにいない方がいいのかもしれない、それに気づいたのはかつてないほどに富士山に近づいた日のこと。

『そうしたら***********』

銭湯とか、漫画とか、その辺では青く書かれていた富士山。むしろ私には青の中に溶けているようにもみえて、五条とどれだけ美しいか比べたくなる。どうして、思い出したのかはわからない。五条の軽薄な笑みしか思い出せない。違う、思い出したくない。どんな宝石よりも価値のあるあの人を、私は忘れて生きていたかったから。だって、そうじゃなきゃ私は動く死体だって認めるものじゃないか。だから、私は五条悟という男を忘れるためならどんな手だって尽くす。赤い夕焼けに消えてしまいそうな五条の銀髪なんて、見つけられない。

「やぁ、なまえ。元気だった?」

関東近郊、とあるスーパー。日常のワンシーン。平々凡々な女が、とりあえず安くなった袋入りのラーメンを籠に放り投げようとした、それだけ。なのに、私はその腕を掴まれている。黒い服に白髪。けれど目は黒い目隠しをしている。知っていると本能がささやくけれど、私の記憶にはそんな男はいない。所謂不審者ってことだ。思い切ってその大きな手を掴んで、振り払う。力は全く入っていなくて、人形みたいにあっさりと腕は自由になる。

「無視なんてするなよ。寂しいだろ? つか、親しき仲にも礼儀有りって言うじゃん。オマエ、そういうトコ直さないと社会でやってけないよ」
「…………どちら様で?」
「あははっ、なまえもおもしろい冗談いうじゃん。元彼の顔も忘れた?んなわけないよね、だって僕のこと大好きだったもんね」
「申し訳ないんですが、そこ、どいてもらえますか。……私の知り合いに似ている気がしますが、そんなはずないので。失礼します」
「ダメだよ」

バスケのディフェンダーのように私の前にその人が立ち塞がる。背が高いその人の目は隠されているのに、一挙一足……ううん、呼吸、心拍、何もかもがお見通しかのように思えて、一瞬だけ呼吸の仕方を忘れた。

「なまえが僕のこと忘れたら、さすがにダメでしょ」
「誰かわかって欲しいなら名乗るべきではないんですか?」
「へぇ……言うようになったじゃん」

首筋から背中へかけて冷たいものが走っていく。ツーツーツーツー、と繰り返し繰り返しペースメーカーの単調な音がながれている。「そういうことなら」彼は口を歪ませたまま自分の目隠しに長い指をかける。ポケットに突っ込んだ左手がじっとりと汗ばむ。気持ち悪い。

「悟だよ。君の恋人だった、五条悟」
「……私の、恋人とは……数年前に死別しました」

私の言葉を聞くと愉快そうにまたたく、宝石みたいにあおい綺麗な瞳が私を射抜く。五条悟はその目を細めて、私の背中に手を回す。頭の中でなる音はペースメーカーじゃない、

五条悟が耳元でもったいぶって囁く。

「『そうしたらきっと変われると思った?』なんて聞いて、僕がハイわかりました〜なんていえるとでも思った?」

悪戯っ子みたいに細められた睫毛と宝石みたいな蒼い瞳が、もの言わぬ私を見下ろしていた。



そこから、今日、ここで目覚めるまでのことを私は思い出せない。

20.04.21

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