サイレント・フローライト

「風間先輩、映画が観たいです」
 返答はない。
 その代わり、とでもいうかのように冷たいペットボトルを頬に押し付けられた。私は突然の涼に目を細める。手合わせを終えた身体は疲れを訴えているし、眠たい。だけれども、映画が観たい。
「いいかげんちゃんと受け取れ」
 はぁ、そんないかにもなため息がつむじに落ちる。生暖かいそれの出所を目線だけで追った。短い黒髪と、赤い瞳。先輩の赤い瞳の、この静けさを余すことなく形容するなら、きっと赤じゃあないなぁ。やっと言葉を発した風間先輩の射抜くような視線は、呆れを含んで先輩の手元に落ちる。無論、私の頬に近い方。
 のろのろとした動作でペットボトルを迎え入れる。高校の自販機にもよく並んでいたスポーツドリンク。ちょっと濁った、けれど、理科的には透明なおかしな色。左手でキャップをひねれば、手のなかからくぐもった音がする。
「先輩は、観たい映画なんかありませんか?」
「観たいものがないのにわざわざ観るという発想が理解できん」
「ええ〜そんなこと言わずに……」
 先輩は眉間にシワを寄せて、壁に寄りかかる。私の飲んでいるスポーツドリンクと同じ青いラベルのやつ。先輩の目の色はあおみたいに凛としていて、涼しいから、好きだ。赤いのに。
 風間先輩と手合わせしていたのはトリオン体だ。実際この身体はトリガーの中でおとなしくしていたはず。はずだけれど、疲れた身体にスポーツドリンクのすっきりとした甘さが浸透していく。やっぱ訂正。全然甘くないかも。
「……諏訪が、好きな小説が映画化したとぼやいていたな」
「それはクソ映画くさいですね」
「他にないならそれでいいだろう。まぁ、一回よく考えてみろ」
 ええ、と思ったのがうっかり私の顔に出たのか、それとも沈黙から不満を読み取ったのか。ずっと渋い顔をしていた先輩の頬が緩む。あっというまに空にしたペットボトルの側面で、私の額をつついた。
「お前はそろそろ行き当たりばったりで生きる姿勢を改めろ。太刀川といい勝負だぞ」
「それは心底不服なので改めたいです」
「……知ってたか?俺が、その宣言を聞くのはもう5回目だ」
「うっわやだ」
 まだ3分の2が残っている私の凖透明なスポーツドリンクはそのままに先輩の隣に並んだ。もういいのか。あおくて赤い視線が私に確認する。頷くと、先輩は「今日は夜の防衛任務だからな」とだけ呟いた。
 結論を端折ったその言葉じゃ、脳内補完しちゃうんですけど。僅かに残ったスポーツドリンクの甘さを、舌先が訴えた。私は先輩のそういうところがすきで、どうしようもなく苦手だ。あとちょっとでも手を伸ばせば、先輩に触れることができるけれど、指を絡めることなんて怖くてできない。
 曖昧なボーダーラインに甘えたまま、私は先輩と本部を後にした。むわっと肌を撫ででいく湿気に顔が歪む。夏の日差しを少しでも避けたくて、手でひさしをつくる。
「みょうじ、さっさと行くぞ」
 太陽に背を向けた先輩の影法師は長い。逆光でグレーのレイヤーがかかった顔はよく見えなかった。いや、まぁ、声で怒っていないのはわかるんだけど。

「先輩これですか?」
「さぁな」
 ボーダー本部から一番近いレンタルビデオショップ。平日の昼間というのもあいまって、店内にはちらほらと人が見えるぐらい。疲れた顔の中年か、私たちのようなひまな大学生か。中高生のいない街中というのは、まだ見慣れない。そんな暇な私たちの後ろを、ネイビーのエプロンをつけた店員さんが通りかかる。
 巡らせた視線が先輩の小さな背中にぶつかる。無表情から途端、ギョッとした顔に変貌する。それから、すぐ隣の私に気づいて小さな息を吐いたのがわかった。そのままなんでもなかったかのように、首だけで軽い会釈をして、私たちの後ろを通り過ぎていった。
 それにしても。と隣にしゃがんだままの先輩の横顔を眺める。適当に手に取ったビデオのパッケージをひっくり返して、あらすじを追っている。面白いやつかな。赤い瞳が文字を追いかけるのが、私はすきだ。昔から、ずっとそうだった。本を読む先輩の瞳。ノートに落とされた視線と、一瞬宙でストップする右手。また動き出すシャープペンシル。
「じろじろ見るな。……あと、お前、変なこと考えてないだろうな?」
「まっさかぁ〜!!!」
 つい、平常よりも抑揚が激しくなる。総じて、ボリュームも上がった。耳元で大きな声を聞いた先輩は、不愉快そうに眉を寄せる。
「……ほぅ」
「すみません。先輩が店員さんにギョッとした顔されたの面白いと思ってしまいました」
「最初からそう言え」
「みょうじ了解」
 私の形式張っているような、軽いような返事に「流すな」とお小言を続けた。風間先輩にとって私はまだまだ『未熟な後輩』というカテゴリから脱してはいない。私と先輩の距離感も、私がすきな先輩の横顔も、先輩が私をすきなことも、何ひとつ変わらず、平行線を突っ走っている。
「そういえば、私、この前の金ロー録画してました」
 ついさっき、思い出した。しかもすきな映画だった。楽しみにしつつ、時間はなくて今週中には見れないだろうと踏んでいたもの。パッケージを元の位置に戻して、隣の先輩の様子を伺った。淡々とした先輩は、「そうか」とだけ言って立ち上がる。つられて視線は先輩を追いかける。見下ろされるの、新鮮。赤がひとつ、生理的に瞬いた。
「そんなことだろうと思っていた。俺はこれを借りてくるから少し待っていろ」
「……いつ見るんですか?忙しいですよね、暇につけ込んでる私がいうことではありませんけど」
 ちょっとした罪悪感。さっきまで一ミリも気にしていなかったのに、なぜか突如、脳裏で菊池原のあの口と眉の情けなく歪んだ顔が投射された。また風間さんの時間奪ってるんですか?後ろで歌川がフォローするのだって見える。迅のようなサイドエフェクトは持たないけれど、過去から統計立てればそれはそれは鮮明になっていった。ごもっとも。私はまた、先輩に有意義とは程遠い無意味な時間を過ごさせてしまいました。ギュッと、手のひらを握る。お気に入りのスカートを指先が巻き込んだ。
「全くだな。まぁ、俺はお前の暇につけ込んでいるという側面がないわけじゃない。そこはお互い様だろう」
「……先輩」
 ふ、と笑って私の頭をひとなでしてレジへ向かった。風間先輩の手は大きさこそ私と大して変わらない。それでも、あの笑う音と、温度は、紛れもない『大人』のものだった。たかだか、ひとつしか違わないくせに。こころの中でだけそうやって舌を出す。


 眠たい。でも、寝たくない。もう少しだけ、先輩と同じ映画を見ていたい。それに、ここからはすごくいいシーンで、一番すきなシーンだから。観たことがないという先輩に、このシーンを見て欲しい。
「かざませんぱい」
「まだ意識があったのか」
「ねむいです、とても」
「寝ていいぞ」
「せんぱいせんぱいせんぱい」
「…………太刀川とも同じことしてるのか?」
「この、シーン」
 画面を指差す。身体に力が入らなくて、そのまま先輩の肩に頭を寄せる。下から先輩を見上げる。ここのシーンが、一番素敵だって思うんです。「すきなんです」私のものとは思えない程、甘ったるい声だった。赤い目はゆっくりと瞬きをした。どこまでも先輩の目はまっすぐで、それが心地よい反面、足元がぐらぐらとする。すき、すき、すき。たかだか2文字、二音。それが私の瞼の裏にひっついて、それからめちゃくちゃな光を撒き散らす。
「俺はお前がすきだ」
 夢か現か。わかるのはもう瞼は開いていないこと。眠る時の落下している感覚だけ。
 

 ねぇ先輩。あの日のことを覚えていますか?私と先輩が、ただの満たされた子供だった日のこと。どこかに行けるものだと、そして帰ってくる家は、ここにあると疑っていなかった、そう遠くはない日常。私と先輩に、学校の先輩後輩の関係しかなかった日。
 「どうした」と、こちらを横目でみる先輩の瞳がすきだった。見ていただけだから、なんでもないで〜す、と笑う。そうしたら、先輩はいやそうに眉間にシワを寄せた。けれども、そのあと、小さく息を吐いてまた視線が手元の本に落ちる。
 ルビーみたいな、トマトみたいな、赤い目は文字を追っている。綺麗なアーモンド型の目と、それをなぞる二重のライン。大好きな横顔と、見ていても飽きそうにもない双眼。ぱちり。いつからか後ろから指してきた日光。浮かび上がる輪郭。「みょうじ」、優しい声。耳元の後れ毛を耳にかけられる。指先が頬を掠った。
 そっか、これは夢か。


「おいみょうじ、起きろ」
 ゆるゆると瞼を開ける。覚醒しきっていない視界は、カメラのピンぽげみたいにぼやけている。ぺち、と頬を軽くはたかれる。うう、と身動いて、先輩の赤い双眼を探す。
「おまえは夜の任務だろう。早く起きろ、このままだと遅刻するぞ」
「……なんか、先輩、お母さんみたいなこと言いますね」
「悪いが、おまえの母親になる気はさらさらない」
「冗談ですよ」
 はたいた後、そのままの先輩の右手が私の頬をつねる。見上げた赤い双眼は細めらえているし、いかにも不愉快と言わんばかりに眉間にシワがよっている。なんの気はなしに、寝起きの重たい腕を持ち上げて、先輩の眉間のシワをなぞった。手首が捕まる。
「俺はおまえが好きだが、さすがにそんな要望には答えられない」
「風間先輩は、私にどう答えて欲しいんですか……?」
 身体を持ち上げる、同時に頭をもたげた問いを投げれば、「さぁな」という味気ない返答だけがあった。好きだとかなんだとか。夢の続きのいるように思えて、気が落ち着かない。
「俺としては、もう予行練習は十分だと思っているがな」
 姉が大学入学祝いだと贈ってくれた、ベージュ色のソファーから立ち上がる。先輩の言葉がわかんない。わかんないから、先輩の言葉を背中で流す。予行練習、とかいうメタファーが何を示しているのかなんてわからない。予行練習。口の中で繰り返す。声にはならない、声にはしない。
 ただ、私は満ち足りた世界で生きていたかったのだ。欠けてしまったものをとり返すなんてたいそれたことは言わないけれど。真っ黒な無機質なトリガー。とりあえずボトムのポケットに突っ込む。その反対のポケットにスマホをねじ込む。
「風間先輩は私がでたらどうします?まだいるなら、そのまま留守頼みたいんですけど……」
「そうだな、借りてきた映画もあるからここで観ている」
「了解です。じゃあ、行ってきます」
「ああ、気をつけてな」
 マンションのドアに力を込めて、押す。すっかり夜が落ちている。秋とも夏とも思えぬむわっとした空気にうわ、と顔を歪めた。それでも、任務は待ってはくれない。ボトムからトリガーを取り出して、握りしめる。換装したまま本部へ行ってしまおうか。本部からすぐ近くのマンションだとこういう細々としたことに惑う。
 トリガーを握りなおす。トリガー起動。換装体でそのまま階段の踊り場から一階フロアまで飛び降りた。



「こちらみょうじです。無事トリオン兵の排除完了しました」
「本部了解。防衛任務は完了です」
「このまま直帰で構いませんか?」
「はい。お疲れ様でした」
 内部通信に「お疲れ様でした」と告げる。終わりか、と手を組んで上に伸びをする。混成部隊らしく統制の取れていない隊服でそれぞれ集まり、本部所属らしくまとまって労を労い合う。私は彼らの背中をぼんやりと見送る。
 目の前の並んだトリオン兵の残骸に背を向けて、私は日常へ帰るためにトリガーを解除した。トリオン体は、肉体に戻る。警戒地区の、車も人もいない交差点。信号機、街灯。歩行者用の青の点滅。それをみると、少し歩幅が大きくなって、白黒の歩道を走る。

 左側からバイブレーションが鳴る。ヴーヴー、と震えるスマホを人差し指と親指で引き上げた。ディスプレイは風間蒼也。スワイプして「はい、みょうじです」と名乗った。相手はもしもしという定形も、マナーもすっ飛ばして、みょうじ、と名前を呼ばれる。なんですか?という問いを挟むタイミングさえなく、先輩は流れるように言葉を重ねた。
「なぁ、この映画なかなか面白いぞ」
「ええ〜!!ずるいずるいです先輩。私も見たい」
「じゃあ早く帰ってこい、あと20分で終わるぞ」
「まじの佳境じゃないですかそれ」
「だから、そうだと言っているだろう」
「どの辺でだからが出てるんですか?もしかしなくても酔って」
 ぷつり、と勝手に会話が終了する。ああ、これ酔ってるやつだ。ギリギリ未成年な私の家には酒はロクにおいていない。あるとすれば、私よりも先に飲酒可能になった太刀川の酒だ。
 ガレキと忘れ去られた日常の街から走って、5分足らず。青がチカチカと点滅して私は急いで横断歩道を渡った。息を整えて、後ろを振り返る。警戒地区、その向こうにトリオンでできた本部がある。向こう岸の信号機に灯った赤、ああ、早く風間先輩に会いたい。

20.08.31

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