ダイヤモンドじゃ酸素が足りない

 失ったものなんて返ってこないし、予行練習など本番あってこそだ。失ったものを指折り数えているのは性に合わない。

 わかっているのに、すっかり型落ちの携帯を立ち上げてしまうのはなぜだろう。何度も何度も送信したメールボックス。それから、最後に受信したメール。【風間蒼也】『カツカレー、楽しみにしている』
日付は四年前。日常がひっくり返る、3日前。近界が私たちのまちを襲う直前。もし、もしも、せめてあと3日だけでもずれていたら。



「風間先輩」

 小さな背中を呼び止めた。くるりとお目当ての人はこっちを振り返って、どうした、と小さく問うて私の方をちらりと見上げる。

「みょうじか」
「あの、このまま家に来ますか?」

 いつもより大きく一歩を出して先輩の隣に並ぶ。わたしより10センチちょっと下にある赤い瞳に少し訝しがるような色がうつる。呼び止めて早々異性、しかも後輩からの夕飯の誘いには違和感を覚えるのだろうか。私と風間先輩はよくご飯を一緒に食べるのでここまでの反応はちょっと予想外だ。正しく言えば、週に一度必ず私の家でご飯を食べる仲だ。

「なんだ、藪から棒に」
「いえ……なんていうんでしょうね。とりあえず今晩のメニューはカツカレーです」
「ほう、今回はちゃんとカツを揚げられるのか?」

 ようやくいつもの調子で先輩は私の目を覗き込む。ルビーみたいにキラキラと、それでいて頑なに瞬くその瞳は、なぜだかトマトとも似ている。そうだ、付け合わせのサラダにトマトを入れよう。ミニトマトじゃなくて普通の大きなトマトがいい。近所のスーパーでまだ売っているはず。でも。

「そうやってすぐ揶揄うのやめてください」

 口を尖らせて先輩を見つめ返す。私のその顔に満足したのか先輩は、ふ、と柔らかく笑う。大学の門を過ぎて、バス停の前に並ぶ長い生徒をみて立ち止まる。

「あれは立派な炭だった」
「先輩!!」
「事実だろう」
「そうだけどそうじゃないことを言って欲しかったです!」

 カレー自体を焦がすようなヘマはやったことはない。揚げ物というのはとても厄介なものなのだ。油の処理は大変だし、跳ねてくるやつは痛いし、慌ててるうちに黒くなる。今度こそはレイジさんに教えてもらおう。決意を新たにして、筋肉質で料理がとてもうまい師匠のことを脳裏に描く。

「楽しみにしている」
「……それで、先輩。これから本部ですか?」
「ああ、うちの隊のミーティングに行く。おまえも今日は防衛任務はなかったな?」
「多いですね、ミーティング」
「そうだな。近いから仕方ないだろう」

 何が。主語をぼかされたから何も言えなかった。近い、近いもの。頭をすぎる物はたったひとつだけだ。答えを知ってる。
 私とてボーダー隊員の端くれで、なんだかんだで現ボーダーが創設されてから、すぐ入隊している。だから、みたくもないことを知っている。

「今度はいつですか?」
「機密だ。大学ではいわん」

 キッパリと切り捨てた先輩に「そうですか」と返す。まるで小さな子供みたいにぶすくれた声になってしまった。

「ある程度の保証はされている。知ってるだろう、俺がなにもこうなるのは初めてじゃない」
「突然、遺書渡される身にもなってください」
「そうか。今回も頼む」

 支離滅裂な返事に顔が歪む。なんでそんなこというかな、この人は。初めて先輩から遺書を貰ったのは先輩が19歳で、私が18歳の真夏だった。白い封筒に直球で『遺書』と記された封筒。「まず、最初におまえがあけろ。それから、公開するかしないか決めていい」形式だけの手紙は、ベットサイドのチェストの引き出しの一番奥に押し込んである。

「事前に言えばいいってもんじゃないでしょ……」
「万一両親や大学の同期がうちに来たらどうするんだ。遺書なんてあったら大騒ぎになるぞ」
「それをどうして私なんですか。ご両親には伝えないんですか?」

 沈黙。ああ、そういえば。足元に視線が落ちる。忘れていたように、まわりの学生が立てる喧噪が耳に入ってくる。言葉と言葉が重なりあって、もはや、ただの音としか捉えられない。付き合いが長いから、踏みかけた地雷の恐ろしさを知っている。でも、気づかなくて済んだらどんなに楽だったろう。

「逆に聞くが、おまえ以上に適任がいるか?」
「先輩、それどういう意味で言ってるんですか……嬉しいですけど、嘘、やっぱ嬉しくない」

 嬉しいはずがない。嬉しくない。唇をギュッと噛む。

「俺からの告白に答えられないなら、せめて遺書は受け取れ」
「どういう理屈ですかそれは」
「俺はおまえが好きだということだ」

 好き。すき。すきかぁ。
 そうやって先輩にストレートに感情を伝えてもらうのも何度目かはわからない。10回までは覚えているけれど、途中で見失った。私だって先輩がすきだ。すきですきで、すきで。どうしようもないから、先輩を食卓に招く。

「いつも先輩はそんなこという、全然わからない、頭でっかち、わからずや」
「おまえの気持ちは知っているつもりだ」
「嘘だ」
「知ってる」

 知ってるなら遺書なんて置いて行かないでよ。泣きたくなって、でもやっぱりやめた。多分私が風間先輩を嫌いになるまで、先輩は遺書を渡してくるし、好きだと言ってくる。嫌いになったら、私と先輩が同じ食卓を囲むことはないだろう。

「白紙の手紙なんて遺さないでください」
「なにかを形にしておいて行くのは性にあわん」
「私はおいてくでしょ」
「そうだな、撤回する。要は、おまえには跡を残したいんだな、俺は」

 本当に死んできそうで嫌だ。先輩の性格上黒トリガーになんてならないだろうから、ほんとに白紙の手紙が形見になりかねないから困る。白紙の手紙を形見にしてしまう自分は、正直言って、ありありと想像がついた。

「私、多分先輩じゃない人と付き合った方が幸せになれるような気がします」
「だろうな」
「否定しないんだ……」
「おまえは、俺といると嫌でも失ったものを思い出すからな」

 小さくため息を吐かれる。そんなの、先輩だってそうじゃないか。ふたつの鍵の話をしたくなったけど、結局、その言葉はするりと喉の奥に戻る。

「断定でいいます?なのにすきって言うのはおかしくないですか?」
「おかしくはない」
「なんで」
「そんなの理由はひとつしかない。俺以外に幸せにされるのが癪だからだ」
「意味わかんない」

 子供みたいな表情をすると、童顔の先輩はより一緒、年齢が低く見える。

「……じゃあせめて、おまえも俺から離れる努力をしたらいいんじゃないか?」
「本気ですか?」
「俺におまえの交際関係に口を出せる権利があるのか?」
「ないです」
「じゃあ後は好きにしろ」

 いつもどおりの先輩しかもうそこにはいなかった。じゃあ本部へ行く。とスタスタ歩いていく先輩の背中を見送る。先輩はどこまで私のことを知っているんだろう。



「みょうじ、置いておくぞ」

 夕方、カレーをかき混ぜる私の背中に声がかかる。昼間での会話が耳に蘇る。遺書か。うんざりしたような、胸焼けしたような気持ちになる。

「……遺書って書くのが大切なんですか?」
「俺は、この場合用意したのが大切だと考えている」
「ふうん。あ、先輩」
「なんだ」
「実は、先週彼氏できました」

 ピー、と電子音が鳴る。炊飯器のボタンを押して、開けばふわふわと白い湯気が立つ。カレーだし先輩が来るのでドーンとお米を3合も炊いてしまった。余ったら彼氏を動員する予定だ。底の深い形をした白いお皿上に出来立てホヤホヤのお米を優しく盛っていく。その間、先輩は赤い目をこれでもかと見開いていた。私の大好きな赤くてあおい目は、私だけを見ている。

「…………そうか。相手はボーダーか?」
「いえ、そんなめんどくさいことはないです」

 先輩の横を通り過ぎて、テーブルの上にカレーを乗せた。

「おまえは」
「私は?」
「俺じゃダメな理由がわからないなと思っただけだ」
「風間先輩は、凄すぎるんです」
「そいつは、本当にみょうじを幸せにできるのか?」

 学生の恋愛に先輩は何を見ているんだ。と笑いそうになった。正直に言えば、私の幸せなんて、面白い映画を隣で見て、美味しいものをふたりで食べて、起きろと起こされることなんだから。それに、幸せにしてほしいわけじゃない。私は幸せになりたいんだ。自分の分の皿にカレーをかける。未熟な後輩じゃ、いやなんですよ私。

「それはわかりません」
「そうか。それは朗報だな」
「え」
「次の彼氏候補には俺もいれておけ」
「いやいや、なんで別れる前提なんですか?」
「好きな奴の恋路を応援する馬鹿がどこにいる」
「話の流れガン無視じゃないですか。まぁ今日別れましたけど」

 風間先輩。本当は、私知っているんです。先輩の遺書は白紙なんかじゃなくて、真ん中に電話番号が書いてあること。そこに電話すると、鍵が二本うちに届けられることも、知っているんです。

「本当は先輩が私を幸せにする気がないんじゃないですか?」
「は?」
「私は自分の足で歩きたいです。行く場所も帰る場所も、私が決めます」
「……何年付き合っても、おまえの哲学はよくわからん」

 テーブルの前の椅子を引いて席に着く。いただきます。そう、掌と声を揃える。あ、と大きな口を開ける先輩の顔を眺める。もくもく、と頬いっぱいのまま咀嚼する先輩が、やっぱりどうしようもなく好きだった。

 失われた日々、来るはずだった未来。先輩の横顔。握る掌はトリオン体のニセモノじゃなかった。厳しさと優しさをしるのは私だけだった。すきだ、の言葉を待ち焦がれていた。すきと伝えるのを準備していた。

 4年経っても予行練習ばかりして、失われた本番を憂う私たちはきっと、ばかだ。

「私が遺書を書くなら、先輩が受け取ってくださいね」
「……遠征の予定でもあるのか」
「いえ、まったくそういうわけじゃありませんけど、見せたいものがあったので」
「見せたいもの?」

 風間先輩が私に見せたいものは、警戒地域のごく普通の一軒家に隠されている。

 その一軒家は、警戒地域の中でも外側、つまり、一番被害が少ない場所にある。小さいけれど、きっと幸せな家庭だったんだろうとわかる小さな庭。表札の『風間』の文字。それらを横目に、玄関のドアの錠に一方の鍵を差し込む。

 本当に風間先輩が私に見せたかったのは、遊園地のチケットだ。机の、鍵のかかる引き出し。四枚のチケットはどれも、一番近くの遊園地のチケットだ。私も先輩も一度も行ったことがない場所。2枚セットで2組になっているそれは、少しだけデザインが違っている。1組目には『蒼也へ 誕生日おめでとう 兄さんより』の付箋が貼られている。
それから、もう一方にはメッセージカードが添えられている。4年まえの日付。先輩の字。

「先輩、遊園地のチケットいります?」

私たちは予行練習を繰り返す。いつか、本番をできる日があるかも知れないから。私は多分あなた以外に幸せにしてもらえる。幸せのレベルは低いから。きっと彼氏は、私を幸せにしてくれる。

でも、やっぱり、帰る場所は先輩のところしか思いつきそうもないんです。

20.09.01

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