まぜこぜの色彩環

手のひらには、人柄がやどる。
もっと正確にいうのならば。人柄の元になる、軸の始点が手のひらにある。

そう思うのは、なまえのおかげや。いつかそうお礼を言いたいものやと、呟いた。



瞑目して深呼吸を一回する。ゆっくりと瞼を開けば、表札が目に入った。こびりついた赤い錆と削れて顔を出している地の、濃い鈍色が、この家の歴史を物語っている。今日初めて訪れたわけじゃないけど、それでも緊張するは緊張するものだ。手のひらに呼んだ人の字はとっくに私の喉を過ぎていた。深呼吸によって沢山の酸素をとり込んだからか、心臓は収まるところを知らず、狭い胸骨の間でしきりと大きな拍動を行なっている。どうしよう、でも、まだ約束の時間まで随分あるし。

「なまえ?」

聞き慣れた声にびくり、と大きく肩が跳ねる。振り返って目を細めた。幼馴染の信介が夕日を背負うように立っている。彼の着ている臙脂色の鮮やかなジャージも相まって彼は夕日の中に溶けてしまいそうに思えた。そんな儚い印象とは正反対の声「そんな驚かんでも」と呆れる。それだけじゃなく凪いだ視線が寄越される。輪郭が濃くなって、背景との境界線がはっきりとしていく。そっちが驚かせたんとちゃうんか、と口を尖らせたまま反論の声を挙げた。

「びっくりさせんといてや、信介」
「それはこっちの台詞や。ひとんちの前で何しとるんか?」
「用事があるんよ」

信介はそうか、と頷くと私の隣を通り過ぎて、鍵を開ける。古い引き戸を開いて、なぜだかチラリと私の方を一瞥する。引き戸を抑えてはて、と首を傾げる。何にそんな疑問に感じることがあるんだろうか、と感情の読めない瞳をじっと見つめ返す。さっきは目がチカチカするほどに眩しかった信介は、くらい玄関口のなかにいる。暗いところに慣れていない私の目は、ありもしない蛍光色の輪郭を捉えていた。あか、きいろ、それからみどり。収縮してからまた弾けるように薄れていく。

「入らんの?ばあちゃんに用事あるて聞いてたけど」
「…………しっとったんか」
「今、思い出したんや。ばあちゃんが朝楽しそうに待っとったからな」
「それはうれしいなぁ」

信介のおばあちゃんは私にとっては、本当のおばあちゃんよりも身近で、頼り甲斐があって、大好きな存在だった。おばあちゃんが、なまえちゃん、と呼ぶ声は、家族の誰よりも安心する。

「それで、入るんか入らんのか」
「入る。お邪魔します」

表札前から、いつもより歩幅を大きくして玄関をくぐる。実家の次になれた玄関の三和土に立ったままローファーの踵に指をかける。片方を脱いだところで、信介がまだ廊下に立っているのが視界の端に映り込んだ。「信介、何?」なんとなく靴下のままの足を三和土の方に正して、何?そう、もう一度問うた。

「スカート着とるんやから、立って脱ぐのはやめたほうがええ」
「言うほどこのスカートみじかないから平気やろ」
「……この前は短いやつでもそうやって脱いどったで」

校則遵守の膝上スカート丈。言うほど高く足を上げているわけでもなし、だからそんなに所作に気を配っていない。私だって気にしてないことをなぜ信介が咎めるのかがわからない。首を傾げる私に信介ははぁ、とため息をついて眉間を揉む。

「信介て私のことよう見とるな?」
「べつに見とらんで。うちでは好きにすればいいけど、他所様のとこで何あっても庇わんからな」

と、言うことはちゃんとすれば、いざというときに庇ってくれるということなもだろうか。浮かんだ疑問に、即時にそれはないな、と、否定して打ち消す。ちゃんとしてない人に「ちゃんとしろ」という信介は珍しいものではない。私や、バレー部の面々はいつも口を酸っぱくして言われているし。

「わかったわ、ちゃんとします」
「最初からそうしとき。最近なまえは反抗期やけど、それは子供すぎるやろ」
「信介はなんで私に一言おおいん?」
「そんぐらい自分で考え」

信介の言葉に顔をしかめて、そのまま座ってもう片方のローファーを脱いで、揃える。廊下を抜けて居間の方に「こんにちは」と声をかける。おばあちゃんのいらっしゃい、の微笑みとえくぼを探すけれど、見つからない。冷蔵庫の開く音がして、台所の方へ視線を巡らす。いつのまにやら信介は、二つのグラスと麦茶の入ったボトルを持っている。

「ばあちゃんはいま田んぼおるで」
「……じゃあ、すわって待っとることにする」

低い卓の上にふたつ麦茶を注ぐ。小麦色が、開かれた窓から差し込む西日で黄金色まで瞬く。目の前に置かれた麦茶の小さくお礼を行って、ちびり、と一口飲む。約束の時間よりだいぶ早かったからなぁ、とひとりごちる。信介はうんともすんとも言わずに、ただお茶を飲む。私も信介もさほど口数が多いわけではないから、会話は大体、往復して終わる。ふつうに、学校のクラスメイトとか、ともだちとの間の沈黙というやつは、背中のあたりがぞわぞわして、ちょっと焦ってスカートに手汗を擦り付けるばかり。でも、信介との沈黙は、怖くない。

西日の方を眺める信介の目の中が、赤く揺らめいている。燃えるような。発熱するような。はたまた宝石のような。この光景に合う形容詞をなんとしてでも見つけたい。瞬きでまつげが震える。信介は髪も肌も全体的に色素が薄いから、すぐ近くの色が映り込んでしまう。暗い色、明るい色、刺激色。それでも信介の印象はさほど変わらないのだ。信介の目が、私の方を見る。至近距離というわけじゃないけど、赤く色づいた信介の丸い虹彩に、私だけが映っている。時間が止まったような気がするのに、私たちの間に規則正しい音が鳴っている。音がなるたびに、身体がはち切れてしまいそうだ。なまえ、信介が私を呼ぶ。視界の端で臙脂色の袖が揺れた気がした。

「……信ちゃんてすごく綺麗よね」

滅多に表情が変わらない信介にしては、珍しく、絶句したように私を見つめる。正気に戻った私は、思わず口を抑える。机の木目を数えて現実逃避を図ろうとする私に、臙脂色の袖が伸びる。ゆっくり、ゆっくり。先程と打って変わって止まらないその手から逃れたくて仕方がなかった。なぜだか、その手のひらは、私たちの世界の全てを変えてしまうような気がしたから。

脚を崩して、ふざけて笑った。信介の手はかすりもしない位置。赤く染まっていたはずの信介はもういなかった。数分の間に赤は下に追いやられている。

「あはは……私、足痺れてもた」
「縁側行ったらどうや」

そうするわ。立ち上がって、赤く染まりきっている地面に脚を伸ばす。幼馴染なんて惰性だけで繋がっているようなものだ。信介と私は、友だちというよりも幼馴染という形容詞のほうがしっくりくる。もちろん。友だちだとなんの衒いもなく言えた時期だってあった。そよそよと風が頬を撫でていく。紫がかった雲が、水気のない絵の具を指で引っ張ったように見えた。近くから車のエンジンが回る音がしてきた。少しづづ大きくなる音に「ばあちゃん帰ってきたな」と信介が呟く。それから電気が灯って、オレンジの光が背後から差し込んでくる。薄い赤に染まった地面に、小さな影が貼りついている。「だたいま」という声に、弾かれるようにして信介と私は廊下まで向かう。

「ばあちゃんおかえり。なまえ来とるで」
「信ちゃんもお迎えありがとうね。なまえちゃん、いらっしゃい」
「おばあちゃん、おかえりなさい。おじゃましてます」
「ふふ。それじゃ、これからご飯作ろか」

おばあちゃんのえくぼに、肩の力が抜ける。こくり、と大きく頷く。隣にいる信介も合点がいったと言うように見えて、私は思わず「夕飯食いにきたとちゃうからな」と釘を刺した。信介は私の言葉を聴くと、ふっと口元を緩める。いつも通りの顔をして、でもひどく子供っぽく、笑った。

「そか、なまえは飯食いに来たんか」
「ちゃうて言ったやん。そんな食い意地はってるかのよな表現は嫌」
「冗談や」
「信介のは冗談に聞こえんのや、びっくりしたぁ」

ほっと溜息をついてから、背負って来たバッグから、巾着を取り出した。中にはライトグレーのお気に入りのエプロン。店頭にて、ポケットと、裾に散らしてある赤い花の刺繍に一目惚れしたやつ。着替えてくるね、といったおばあちゃんが戻ってくる前に準備を終わらせてしまおうと、さっさとエプロンをつけてしまうことにした。首に輪っかの部分をかけて、紐を後ろで結ぶ。あとは手を洗って……と順序を脳内でリストアップしながら台所の方へ行こうとした私の手首が掴まれる。

「後ろの紐が縦結びになっとる」
「え!嘘……なんかそれは恥ずかしいなぁ。直すわ」
「俺やったろか」

結び目を解こうとする私のてのひらよりさきに、信介のてのひらが紐を取り上げる。貸してみ、と優しくいわれると甘えたくなってしまう。両方の紐が信介の手に渡った。後ろに立たれると信介との身長差とか、体格差を改めて感じる。いくら家に遊びにいくほどの交流があるといえど、こんな至近距離に信介がくることはない。だって、ほら、彼はちゃんとした人だから。おかしいことはしない、すごい人だから。不器用な幼馴染の手助け。当然だし、ちゃんとしてる。密着してるわけではない。けれども、顔を上げていられないのはなんでだろう。

「ほら、ちゃんと背筋伸ばし」
「……お母さんみたいやな」
「俺はお前の幼馴染や。家族みたいなもんやけどちゃうわ」
「言われんくてもわかってる。それに、特別な表現でもないやろ」

私の言葉に一瞬信介は手を止める。どしたん?と私が問うより先に彼の手のひらは結い終わって、「ありがとう」の言葉が先にすべり出た。



「信介、おばあちゃん、お邪魔しました。それからありがとうございます」
「ええよ、気にせんといて。なまえちゃんは飲み込み早いから料理教えるのも楽しいわぁ」

踵までローファーのなかに滑りこませる。軽くつま先を叩いてから、まだほかほかと熱を持つタッパーを持って、私は振り返った。最後にさよならを言おうとしたら、今度は信介がスニーカーに脚を突っ込んだ。その行為の意図が掴めなくて、私ははて、と首を傾げる。臙脂色のジャージを羽織ったまま私の隣に並んだ信介を見上げる。青白い照明は真上だったので信介の表情までは黒く塗りつぶされてよく分からなかった。そんな私に目もくれず、おばあちゃんに向き合って、いってきます。いってらっしゃいと挨拶を交わした。

「もう暗いし送ってくわ」
「大丈夫やひとりで帰れる。すぐそこやし」
「話しとくことができたんや、だからちょうどええと思ってな」
「でも……」
「いってきますもいってしもたしな」

ぐ、と言葉に詰まった私の隙をついて、ガラリと玄関のドアを引いてしまう。降参だ。私たちをにこにこ笑って見守るおばあちゃんにサヨナラとまたくるねと約束を結んでから、信介の背中を追って玄関をでた。
私たちの足元をぼんやりとした白い光が丸くくり抜いている。アスファルトには一本白線が引かれている。ボロボロではあったけれど、ここは歩行者のためのスペースだということを懸命に主張している。下を向いて歩く私の黒いローファーに白い光が走る。顔を上げるよりも先に腕を掴まれて、ガソリンの匂いだけがわかった。しんすけ。出た声はへにゃへにゃだった。返事はない。叱るでも、ちゃんとしろというでもなく、信介はただ私を塀の方へ移動させた。

「なぁ、話したいことってなに?」
「せやね」
「信介、私が何年アンタの幼馴染やっとると思っとんの?」
「何年やろか」
「だから……答える気も話す気もないやろっていっとんのや」
「なまえのことやし、話終わったらすぐ帰れ言うやろ。それじゃ送る意味がない」

黙った私に信介は図星か、と微笑んだ。楽しそうな声に反して、私は罰が悪くて足が止まる。昔から、信介は私に優しくて、まるで特別な存在かのように扱う。彼の手のひらにどれだけ救われてきたかはわからないし、信介の手のひらの温度を一番知っているのは、私だ。家族でもバレー部の面々でもなく、私。優越感は私の胸骨いっぱいに膨れて、小刻みに震える。あと、と信介が言葉を続けた。

「話がないわけじゃない。言いそびれたことはある」
「珍しく曖昧ないいかたやな」
「……俺はな、なまえは家族やないけど、一番の特別やと思っとる」

信介が白線の向こう側へ一歩進む。近くの家からカレーの匂いがする。このあたりには小学校の同級生が何人も住んでいる。もうずっとあってない彼らのうちの、誰かがカレーを頬張っているのかもしれない。

「私が幼馴染やからか」
「それもある。別に幼馴染イコール大事、なわけやのうて、なまえが大切なんや。それに加えて、なまえが幼馴染でもあったてことになるんや。ここまではわかるな?」
「なんの話したいんかわからん。らしくないわ」
「……わかった」

カレーの匂いが濃くなった。どこかの家が窓でも開けたのか、さっきはしなかったテレビのコメディアンの声さえ聞こえてくる。近くに日常が巡っている。何よりも目の前にるのはずっと一緒に育ってきた幼馴染だ。なのに、黒の中で見る彼は知らない人みたいに見えた。色素の薄い信介はほかの色には飲み込まれやすいのに、黒にだけは飲み込まれなかった。彼の輪郭をなぞるようにして白い光が差している。その輪郭でさえ永続的なものではなくて、チカチカ、点滅に合わせて線が太くなったり細くなったり揺らぐ。
けれどなくなりはしなかった。

「俺の手が怖いならいってええで」
「なんの話になっとんの」
「……昼間、俺の手から逃げたことについてや」

カチ。音とともに、アスファルトを丸く切り抜いていたライトが息絶えた。近くの住宅から漏れ出るオレンジ色が、信介の輪郭をほのかに淡い色に変える。逆サイドの白い街灯と混ざっていく。劇的ではない。呼吸で、酸素と二酸化炭素を交換する肺のように見えた。

「怖くは、ない」
「なら逃げんといて。俺はなまえを傷つけることはしないからな」
「あのな、私かて信介が私のこと傷つけたりしないんはわかってる。あのときは逃げたわけじゃない」
「…………嘘は良くないて言われて育ったんとちゃうんか」

信介の目が細められる。怒ってるわけじゃないのは見て取れた。わたしと信ちゃんの間のルール違反について、最終チェックをしているのだ。本心か?と問う虹彩に私は「違わないなぁ」とだけこぼして空を仰いだ。さっきまで全てが壊れてしまいそうで怖かったくせに。信介は黒に染まらないで、薄める白だ。けれども、私は染まりやすくて呑まれやすいどこにでもある色なのだろう。わかってたよ、私は。はぁ、と息をついて足を出す。一歩進んでから振り返る。信介も歩き始めていた。北信介という私の幼馴染は、いつだって全部を見透かしたように、まっすぐ正論を口にする。今回もそれだと思った。

「アホいうのやめとき。らしくないで」
「……らしさって言われても」
「なまえの軸がぶれるのは見てて俺が嫌なんや」

正論の包み紙の中にしまわれた感情を暴露する信介は、私の右手を捕まえた。信介の手のひらは暖かくて、心地よかった。ルールを作る提案をしたのは一体どちらだったか。最初はルールなんてちゃんとしたものじゃなくて、漠然とした約束だったのに。呼び方を変えたのはどっちが先だったっけ。子供の頃と体温は変わらないてのひら。男めいて骨ばった大きなてのひら。このてのひらに触れようと触れまいと、私の世界は変わらなかった。動かない私に痺れを切らした信介が、私のてのひらを引いて歩き出す。夜に沈んでいくように、私のローファーが鳴らす靴音はバラバラだった。時々靴底が砂利と擦れて変な音がした。でも、信介は何も言わなかった。臙脂色の鮮やかな背中は灯の乏しい夜の中でも上塗りされない。いつもは避けるのに、今日は暖かくて好きだった。そっか、そうだね。好きだったんだ。

「信介のいう私の軸てどこでわかるんや」

私の問いかけに、信介はこちらに向き直った。突然止まった信介に首をかしげる。そんな変なことを聞いてしまったのだろうか。言葉に詰まってるということはないだろうけど。

「家ついた。変な気起こさんうちに風呂入ってあったかくして眠り」
「私は子どもか……。あ、信介待ってよ、さっきの答えてもろてないやん」
「もう時間も遅いし今度でいいやろ」
「はぐらかされたら嫌やわ」

マンションの前で言い争うことほど無意味なことはないと思う。信介は帰る気しかないし、私はどうしても意図を知りたい。信介と繋いでいない左手で、ジャージの裾をぎゅっと握った。一緒にいる時間はもうさほど多くない。それは、仕方がない。信介はいまじゃバレー部のキャプテンで、それに関しては私の言葉なんて意味がない。バレー部と疎遠ではない、治やアランや赤木のことは好きだ。会えば世間話くらいはする仲だ。でも、彼らと信介が一緒にいると、私は信介に話しかけられない。だってまるで知らない人みたいな顔してるから。

暗い夜に溶けないように、私は信介の手をぎゅっと握った。信介の左手は仕方ないな、とでもひとりごちるように私の手を握り返す。

「俺も聞きたいことがあるからそれと交換ならええで」
「信介の聞きたいことってなに?」

昼間の話やけど、と前置きされてつい顔が歪む。昼間の話はさっきずっと話してただろうに、と視線が少しだけそれる。「嫌ならやめるか?」わかってて問いを投げるだけ投げるポーズをするものだから、堪え切れなくてため息をひとつ返す。ゆっくりと信介の方へ視線を戻す。だた、まっすぐ見る気は起きなかったから、むき出しの首、それから鎖骨辺りに視線を投げる。白いシャツからは柔軟剤の甘い香りがして思わず頬が緩んだ。

「突然笑ってどうしたんや。忙しないな」
「いや、うちのと同じ柔軟剤な気がして。……ちょっとこそばゆいな、こういう会話」
「……なぁ、もしかしたら俺が聞きたいと思ってることも、だいぶこそばゆいかもしれん」
「それじゃ、やめにしたらどうやろ」
「せやったらなまえの質問もやめになるなぁ」

こそばゆいのはまだいい、この機会を逃したら信介の答えを知ることはないような気がした。いいように扱われているのは自覚があった。けれど、諦めて私はこそばゆくても聞こうと、少し背伸びをして信介の顔の方に耳を寄せた。信介の目がまん丸に見開かれてやってしまった、と背中が硬くなる。

「そういうのは逆やろ」
「じゃあやり直すか?信介が私の耳に顔寄せるん嫌なんかと思ったわ」
「そんなことあらへんけど、仕切り直すのもおかしいなぁ。なまえを相手にすると格好つけるのもままならん」
「……もしかしたら今までずっとかっこええと思っとるかもしれんよ」
「そうか」

じゃあこのまま、と耳元で言われる。失敗したのかもしれないなぁ、と確実に高まっていく肌で察する。繋いでいる手が汗で湿気ていたらどうしようか。幼馴染といえど恥ずかしい。幼馴染だから恥ずかしいんじゃなくて信介相手だからそう思うのかもしれない。じゃあ、と呟いた信介が腰をかがめる。目の前が信介でいっぱいで、困った。

「俺が綺麗って、どういう意味?」

視線が信介に吸い寄せられる。やっぱなかったことにしてよ、と言おうとする私を予想していたのか、左のほうの手首もやんわりと抑えられる。バレー部じゃ背が高いほうじゃない。治から聞いた信介の評価がふと脳裏に蘇る。たとえそれが治の真実だったとしても、そんな話はどうだって良かった。だって、私のことを今にも覆い尽くせそうな信介がいる事実のほうが私にとって重大だから。でも、早く何か言わなければ。そうしなければ、おそらく、私が答えるまで信介はずっとこのままだ。それがわかっていたから、私は口の中を湿らせてから答える。

「……綺麗だったんだよ、信介が」
「そうか」
「信介も答えてよ。私は答えたんやし」

私の手首を包んでいたてのひらはふっと緩む。ゆっくりと信介の手から抜け出す。可動域が広がった体で、「信介」と呼ぶ。見上げても絶妙に街の光が背後に差してしまって、全然表情が見えない。

「俺の番やな。なまえ、ちょっと手を借りるで」
「手?」

これ?と、繋いでいた手を持ち上げて、首を傾げる。信介のてのひらは一瞬私から離れて、大きさ比べでも始めるかのように、手のひらと手のひらとを重ね合わせる。ひとまわりも大きな信介の手のひら。私だって女子の中ではそこまで小さい方じゃないのに、随分と差が見える。

「それで、手がどうしたん?」
「なまえらしいな」
「意味わからん。答えになってないやんか」

私が唇を尖らせると、信介は手のひらを離した。支えをなくした私の手は少し傾く。「あとは自分で考えた方が早いと思うわ」臙脂色が夜の中に翻って、いつも通りの信介の声がした。なんなんや。何を考えているのかわからない幼馴染の、遠ざかる背中に痙攣したかのように、ぴくり、と指先が震える。喉の奥には何かが詰まっているようで、気分が悪かった。何を言おうと思っていたんだっけ。もうすぐで角を曲がるというところで、信介の頭のてっぺんが街灯の光を受けてさらに白く瞬いた。ああ、そうだった。「信介!」足を止めて振り返る。首をかしげる信介に私は、手で信号を出すみたいに、大きく振りながら叫ぶ。

「信介!おやすみなさい、また、明日ね」

20.10.04

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